[3]死にゆく家

 二階にある妻の寝室に駆けこむと、昭夫あきおは再びタンスの抽斗を開けた。上から一杯ずつ、どんどん開けては中を見ていく。中には当然、妻の服や肌着、スカーフやハンカチなどの小物類までいろいろと入ってはいたが、注意して見てみると嵩が不揃いな気がした。ぎっしりと詰めこまれている抽斗と、すかすかに空いている抽斗。時期や種類を分けて入れてあるからか? それとも。

 なくなっている服があるかどうかは、昭夫にはわからなかった。妻が毎日どんな服を着ていたか思い浮かべようとしても、色も柄もなにひとつ憶えてはいなかった。

 浮かぶのは、グリーンだったかカーキだったか、なんだかそんな色のエプロン。そして後ろでひとつに纏めた髪。……否。ショートヘアだったか? 耳が出ていたのは記憶がある。ヘアゴムで括っていた気がするが……なにしろ、家事をしていないときの妻を見ることがない。髪をおろしている妻を見たのは、あれはもう何年前のことなのだろう。

 次に昭夫は開き戸のほうを開けてみた。こちらは一目瞭然だった――なにも掛かっていないハンガーがそのまま、いくつも残されている。服だけ下ろして持っていったのだということは、容易に察せられた。

 何処へ? なんのために?

 ふらふらと脱力した足取りで、昭夫は隣の自分の寝室へと入っていった。

 妻がなにを思っていたのかはわからない。だが、もうそろそろはっきりと認めてもいいのではないか――妻は、この家を出ていったのだ。




       * * *




 妻のいなくなった日から五日が経った。

 昭夫ひとりになった家のなかには悪臭が漂い始めていた。台所のテーブルには今日使った皿や湯呑みが置かれたままで、シンクには昨日までのタンブラーやマグカップ、湯呑みなどが洗い桶から溢れそうなほど溜まっていた。灰皿は吸い殻が棄てられないまま山になり、ビールや缶コーヒーの空き缶にも吸い殻が詰まっている。

 その脇にはコンビニの袋がいくつもあった。中身は弁当の空容器や、おにぎりのフィルムに惣菜パンの袋。お茶のペットボトルも三本、空のまま放置されていた。


 昨日、昭夫はさすがにこのままじゃいけないと、ゴミを棄てに行った。朝、窓から外を見下ろしているとき、近所の住人がゴミの袋を持って歩いているのを見かけたのだ。だから曜日や時間は問題なかった――ただ、市が指定するゴミ袋を仕舞ってある場所がわからなかった。

 しょうがないので、昭夫は玄関にゴミをまとめておき、コンビニにゴミ袋を買いに走った。そして家に戻り、買ってきた大きなゴミ袋の中にコンビニの袋にまとめたゴミをすべて入れ、縛った。そうしてゴミ集積所――場所を知らなかったので近所の誰かの後についていき、倣うように棄てた。

 すると、先に棄てていたその婦人は、昭夫の置いたゴミを指して分別してないのではないかと云ってきた。ちょっとごめんなさいねとその婦人は縛ってあったゴミ袋の口を解き、中を見た。

「ほらほら、これ。お弁当の容器はプラスチック! しかも洗ってないでしょうこれ、ちゃんと濯いでからプラ用のゴミ袋に入れないと。曜日も違いますからね。あとこのペットボトルもちゃんと濯いで、ペットボトル用の袋に入れて。これも曜日は別ですよ。まあ、缶まで入ってる! 缶もちゃんと濯いでくださいね! コーヒーの垂れたのって汚いでしょう。ネタネタしてるじゃないの……あっ、吸い殻が入ってるのは出せませんよ! 駄目よ~これやっちゃ、危険でしょう。あ、アルミとスチールと、鯖缶とかおかず系の入ってたのと蓋も分けてくださいね! 瓶もあるわね。瓶は缶と同じ曜日で、隔週ですからね。当日、ここに大っきなコンテナが三つ並んでますから、綺麗に洗った瓶を色別に出してくださいね! でねえ、今日は燃えるゴミの日なんですよ。いったん帰ってきちんと分別してきてくださいね。……棄てられるもの、あんまりなさそうだけど」

 居た堪れない思いでその場を後にし、昭夫はゴミを持って家に戻った。

 それきり、ゴミは勝手口の傍に置いたまま、分別されることもなく放置されている。





 ある日の午後。コンビニ弁当を食べながら、昭夫はテレビで刑事ドラマを視ていた。たいしておもしろいとも思わなかったが、このところテレビは居間にいるとき、ずっとつけっぱなしだった。以前なら考えられないことだ。

 妻は、お笑いタレントなどが出ている旅とグルメの番組をよく視ていた。昭夫はその隣で、他人が食って遊び歩いている映像を視てなにが楽しいのかと呆れて溜息をついていた。だが今はグルメ番組でもお笑いでも、なんでもかまわなかった。

 内容などどうでもいいのだ。雑音が欲しかった。なにも物音がしない部屋にいることがこれほど落ち着かないなんて、今まで知る機会がなかったのだ。

 ドラマのシーンを目で追っていても、内容などまったく頭に入ってこなかった。かわりに脳裏を過ったのは、赤ん坊の泣いている声と、よしよしとあやしている妻の姿。真知子まちこはあまり手がかからない子だと妻は云っていたが、それでも仕事から帰ってきて食事をしているときに泣いたりすることはよくあった。帰宅したとき、ドアの音で目を覚ましてしまったと妻は云っていた。そして、赤ん坊というのは眠りから覚めたことに途惑って泣くのだとも。

 さすがに赤ん坊に煩いと怒りはしなかったが、妻になんとかしてくれと云った憶えはあった。抱っこしたまま歩きまわり、ベビーカーに乗せて夜の散歩に出かけた妻を思いだす。もう少し大きくなってからは童謡や、子供向けのアニメの主題歌にうんざりもした。しょうがないことだとわかってはいるのだが、疲れているときには堪え難かった。子供というのは、気に入ったものは繰り返し何度も何度も視たり聴いたりしたいものなのだと知って、よくこれに付き合えるなと妻に、否、世の母親たちに感心したものだ。

 ――真知子が小さい頃の想い出が浮かばない。

 家具や配置はほとんど変わっていないのに、家のなかを見まわしても、そこに小さかった娘の姿を思い描けなかった。動物園や遊園地に連れていったこともない――今度こそ行こうと約束だけして、急に入った仕事でとりやめになったことはあった。その所為で、守れない約束はしないで、ぬか喜びさせるほうが子供には罪よと云われた記憶がある。

 浮かぶのは、だめよ、お父さんは疲れてるのと二階へ促す妻の背中と、寂しそうにこっちを振り返る幼い横顔。

 気がつくとテレビの画面が滲んでいた。銀縁の眼鏡を外し、ポロシャツの裾で拭く。ちょうどいい具合に水滴がレンズに落ちた。丁寧に拭いて眼鏡をかけ直す――胸に押し寄せてきたなにかから目を背けるように、昭夫はまたテレビに視線をやり、ソファに凭れた。

 ドラマのなかでは、なにやら女性が警官に食って掛かっていた。そのとき不意に、昭夫は捜索願いを出してみようかと思いついた。

 いいおとなが一週間かそこら帰らなかったからといって、捜索願いなど大袈裟と笑われるかもしれない。しかしなんの連絡もなければ心配するのは当然だし、届けが受け付けられないなんてことはないだろう。

 とりあえず、困っている市民の相談として聞いてもらおう。昭夫は廊下に出て電話のところへ行くと、最寄りの警察署の番号にかけてみた。

 呼び出し音一回で、女性の声が応答する。

「ああ、すみませんが……。実は、家内が家を出たまま、もう一週間も帰らないんです。で、捜索願いを出すべきかどうか、相談をと――」

『奥さまが帰宅なさらない、と。失礼ですが、奥さまのご年齢は』

「えー……、たぶん、六十一か二だったかと」

『奥さまのスマホか携帯電話はおうちに残されていますか?』

「ない」

『持って出られているんですね。でも連絡がつかない?』

「いや、もとから持っていないんだ」

『携帯をお持ちでない。……えー、六十二歳のご婦人で、一週間行方がわからない、ということですね。ご実家や親戚のおうちとか、お心当たりにはもう確認されましたか?』

「いや、実家の両親はもう鬼籍に入っていまして、家内はひとりっ子で」

『おいとこさんやお友達ですとか、独立されているお子さんのところなどは』

「いや……確認はちょっと、できないので」

『まだでしたら、捜索願いをお出しになる前にお心当たりをよく捜してごらんになってください。大事おおごとにしてしまうとかえって戻られなくなったりするケースもありますんで』

「いや……その」

 心当たりなどまったくないと答えるのは、さすがに気が引けた。ゴミ集積所で感じたのと似た居た堪れなさに、ぐっと唇を噛む。

『もしもし?』

「……ああ、はい。その……とりあえず、やっぱり捜索願いを出しておこうかと思うんだが、そちらに直接伺えばいいんですかね」

 昭夫がそう云うと、『うーん、用紙に書いていただけば受理はしますけれども』と、なにやら歯切れの悪い反応が返ってきた。

『えっとですね、捜索願いを出していただけば行方不明者として記録しますので、どこか遠くでみつかった場合でも、すぐに身元が判明するというメリットはあります。ですが、特異行方不明者ではなく一般家出人の場合、警察が行方を捜索するということは、あまり期待なさらないでほしいんです。その、仮にみつかったとしても、ご本人に捜索願いが出ていますとお伝えして、帰宅を促すことしかできません』

「そうなんですか? 一般家出人……ですか」

『はい。ご自分の意思で行方を晦ましている場合ですね。もちろん子供を除いてですが』

「その、特異行方不明者、というのは?」

『特異行方不明者といいますのは、いま申しあげたように子供、えっと小学生以下くらいのお子さんですね、それと知的障害や精神障害などの問題がある人、遺書を置いて出ていったなど自殺の恐れがある人、誰かに危害を加える危険のある人などですね。あと稀ですが、事件の目撃者や関係者なども含まれます』

「はあ」

 聞けばなるほど、確かに特異だと思ったが、これでは妻のことは捜索してもらえそうにない。昭夫はもう礼を云って電話を切ろうかと思ったが――

『あ、すみません……ひとつ言い忘れました。認知症の方も特異行方不明者に入るんですが……奥さまは、これまでなにか気になる行動や症状はありましたか?』

「なんだって?」

『認知症の疑いがあるということでしたら、特異行方不明者として捜索――』

「もういい!」

 昭夫は受話器を叩きつけるように電話を切った。――妻が認知症だと!? なんて失敬な、まだそんな齢ではない!

 警察なんか、なんの役にもたたない。頼ってなどやるものかと、昭夫は顔を真っ赤にして居間に戻った。





 警察に電話をかけてから、さらに三日が経った。依然として妻は帰らず、電話の一本もなかった。おそらく真知子のところでもないのだろう、と昭夫は思った――もしも真知子のところにいるのなら、妻が知らせなくていいと云っても、真知子がこっそり知らせてくれるのではという気がした。もしくは、真知子の夫が。

 コンビニの袋に詰めたゴミはどんどん増え、悪臭もさらに酷くなっていた。消臭剤を撒いてはみたが、そのときだけであまり効果はないようだった。布に付着した臭いには効くようだが、布団にスプレーしてみても寝心地まではよくならない。

 妻は天気の良い日には布団をまめに干し、カバーもきちんとアイロンをかけたものに替えていた。清潔でふかふかとした布団は気持ちよく、あっという間に眠りに落ちることができた。

 しかし今、布団はずっと敷きっぱなしで、寝る位置は綿がへたって敷布団が薄くなっているような感じがした。煎餅布団とはこういうことだったかとこの齢にして初めて知る。枕もふと不快な臭いを感じることがあった――元は自分の加齢臭かなにかなのだろうが。

 もう昼前だし、干すのは面倒だがシーツだけでもなんとかしようか。昭夫は少し考え、タオルケットかなにかを敷けばいいのではと思いついた。とりあえずこのまま上からタオルケットを掛けて寝て、汚れたらクリーニングに出せばいい。

 そう決めると昭夫は掛け布団を脇に避け、押入れを開けた。

 ――そこに、何故か段ボール箱が三つも入っているのをみつけた。

「なんだ? こりゃあ」

 押入れの反対側には毛布やタオルケットなどがちゃんと入っている。こちら側は布団を仕舞うため、すのこ以外にはなにも入っていなかったはずだ。だがいま眼の前には、そのすのこの上にみかん箱くらいの大きさの段ボール箱がピラミッド状に積み重ねられ、昭夫に存在をアピールしている。

 わけがわからないまま、昭夫は箱をひとつ下ろして開けてみた。

 そこにはあれほど探しまわった、昭夫の服が入っていた。もうひとつの箱にも普段着や部屋着が、三つめの箱にも寝巻きや肌着や靴下が、ぎっしりと。

 三つの箱を前に、昭夫は暫し放心したように坐りこんでいたが――不意に、なぜ妻がこんなことをしたのか、わかったような気がした。

 立ちあがり、昭夫は階段を下りていくと洗面脱衣所に向かった。


 妻がいなくなってから、足りない着替えは二度まとめ買いしていた。洗濯はこの十日間、一度もしていない。洗い桶に溢れる湯呑みと同じだ。使えるものがある限り、自分は洗おうとしない。服も、タンスに仕舞ったままであったなら、きっと空っぽになって着替えに困るまで、洗濯のことなど考えもしなかっただろう。否、空っぽになってから、当たり前のように買い足していたかもしれない。

 洗濯機に溜まっているのは二度まとめ買いした分とタオル類だけで、嵩はたいしたものではなかった。まだ涼しい日でも長袖一枚で事足りる季節だったからだろう。一回ですべて洗える量だと確認し、昭夫は洗剤を探した。洗濯機を囲むようにパイプの棚が設置してあり、洗剤の類は洗濯機の上に置かれていた。その横には柔軟剤と、漂白剤の容器もある。

 昭夫は手を伸ばし、液体洗剤のボトルを手に取った。――と、ぱたりと封筒らしきものが足許に落ちた。ボトルの下にあったようだ。けっこう厚い。

 昭夫はもう驚かなかった。そうか、ここに置いていたのか。手にした、薄っすらと淡いクリーム色の紙にシロツメクサの描かれたその封筒には、妻の几帳面な字で『あなたへ』と書かれていた。

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