[2]ミスター・ロンリー

 午後三時。妻が帰宅しないまま、灰皿の吸い殻はいつも以上に速いペースで積もっていた。否、これほど吸い殻が溜まったことなど、これまで一度もなかったかもしれない。ある程度の本数を吸ったら、お茶を淹れるなどで立ったついでに妻が持っていき、綺麗にして戻してくれるからだ。

 これほどの長い時間、妻が出かける理由に心当たりなどまったくなかった。――否。あるとしたら、それはたったひとつだけだった。遠く離れた地で暮らしている一人娘。娘の真知子まちこは自分の反対を押しきって家出同然に出ていき、離婚歴のある男と一緒になった。

 妻は娘の味方でその後も連絡を取り合っているようで、出ていって三年めの夏には子供が産まれたとか、アパートから一戸建てに越したそうだなどと教えてくれた。もっとも、昭夫あきおはどうでもいいと意固地な態度を貫いていたが。

 真知子になにかあったのかもしれない。

 でなければ、孫の優佳ゆかが怪我でもしたのかもしれない。もしもそうだとしたら、けっこうな大怪我なのではないか。朝、連絡をもらってそのまま飛んでいくほどなら――否。そんなことを想像しかけて、昭夫は違うなと首を振った。いくらなんでもそんな大事おおごとなら起こして自分に知らせるか、書き置きくらいは残しているはずだ。

 そうは思いつつ、昭夫は頑固だった自分を初めて呪った。真知子の連絡先は妻しか知らない。玄関近くの電話台にあるアドレス帳のページは、一枚破れている。破ったのは云うまでもなく自分である。真知子が出ていって二週間くらい経った頃、新しい携帯電話の番号と住所が書かれていたそのページを、昭夫は放っておけ、連絡をすることは許さんと破り棄ててしまったのだ。

 それ以来、娘の連絡先が書き直されることはなかった。真知子が家を出ていってから十五年――昭夫は娘を許すと口にしたことはなく、真知子がこの家の敷居を跨いだこともない。年賀状ももちろん来ない。だから昭夫は未だに写真ですら孫の顔を見たことはないし、娘の住んでいる家の正確な住所も知らない。

 それでも、ひょっとしたらと昭夫は廊下へ出て、アドレス帳をぱらぱらと捲ってみた。もしかしたら自分にわからないよう、イニシャルなどでこっそりと書いてないかと思ったのだが――それらしい番号など、やはりみつけられなかった。

 妻が連絡をとっているのが真知子の携帯か、家の電話なのかはわからないが――その番号は、妻の頭のなかだけにあるのだ。





 部屋のなかが暗くなり、昭夫はシーリングライトのスイッチをオンにした。もうこんな時間かと思うと同時に、条件反射のように空腹を感じる。

 近所に仲の良い奥さん連中でもいて、つい話しこんで時間を忘れているのかとも考えたが、この時間になっても帰ってこないということはそうではなかったのだろう。だいいち、そんなふうに気の合うご近所さんがいるなど聞いたこともない。ゴミを棄てに行ったときなど、会えば挨拶程度はするだろうが……どこそこの奥さんがね、なんてふうに話を聞かされたこともない。

 いや、それは――いつだったか、昭夫がくだらん、どうでもいいと不機嫌になってから、妻はそういった話をしなくなったのではなかったか。

 昭夫が仕事から帰るのは、いつも夜の八時か九時をまわった頃だった。疲れきって帰宅したあとは喋ることさえ億劫で、妻のたわいも無い話になど微塵も興味は湧かなかった。同僚や部下と飲んで帰ることも少なくなく、そんな日はテーブルに用意されていた夕飯に手もつけず、風呂にだけ入って寝てしまった。

 ――今日の夕飯がない。

 あっても食べないことは数えきれないほどあった。しかし用意されていないことなど、結婚してから一度たりとてなかった。

 否。さすがに具合の悪いときは、昭夫のほうからなにもしなくていいから寝ていろと云ったけれど――そんなことを思いだし、昭夫はふと眉根を寄せた。

 妻が熱をだして寝こんだとき、自分はどうしたのだったろう?

 もうずいぶん前にあったことを、頭の片隅から掘りおこす。あのとき、寝床から熱っぽく赤い顔で起きあがろうとする妻に、昭夫は病人がふらふら出てきて倒れられても困る、おとなしく寝ていろと云った。そして自分は外で牛丼を食べてきて、帰宅してから妻にもなにか食べさせないといけないとようやく気がついた。

 だが様子はどうかと覗いてみたとき、妻はぐっすりと眠っていた。なにか食べたのかと気にはしつつ、わざわざ起こすのもなんだと昭夫はそのまま、そっと襖を閉めた。

 妻が寝こんでいたのはたった一日だった。たった一日で、妻はまた普段通りに家事を始めた。

 昭夫は妻が臥せっていたあいだ、寝ていろという言葉をかけただけだった。それで充分、気遣ってやったつもりでいた。妻は自分でちゃんと水分を摂り、食べられるものを食べて元気を取り戻したのだ。――昭夫がなにもしてやらないうちに。





 いくら待っても妻は帰ってこない。昭夫はやはり真知子のところに行っているのだろうと思い――そう思うことで平静を保とうとしているだけかもしれない――、夕飯に出前を取ろうと考えた。カツ丼か天ざるか、偶には寿司でもいい。

 とはいえ、出前を頼むなどもう何年もなかったことだ。しかも注文するのはいつも妻だった。昭夫は電話の下の棚から町内だけが載った薄い電話帳を取りだした。

 だが、見るとその電話帳は、もう三年も前のものだった。なんだ、新しいものはないのかと思いつつ、ぱらぱらと捲る。そして裏表紙に見覚えのある店名をみつけると、昭夫はその番号に電話をかけた。まだ店がなくなっていないといいのだが。

『ありがとうございます、かささぎ食堂でーす』

「あー、かささぎさん。出前をおねがいしたいんですが――」

 ほっとしてそう云いかける。しかしその言葉を遮り、電話に出た若々しい声は意外なことを云ってきた。

『あ、デリバリーでしたらアプリのほうからおねがいしますー』

「でり……なんだって?」

『宅配のご注文は、スマホでデリバリーサービスのほうにアクセスしていただいて、そこからご注文いただくようになってますー』

「いや……、いま注文して、持ってきてもらうことはできんのか?」

『配達はデリバリーサービスにおまかせしていますんで、そちらで注文していただかないとちょっと……』

「アプリとかなんとかよくわからんし、それに私はスマホを使ってないんだが」

『あ、タブレットやパソコンからでも大丈夫ですよー』

「電話で注文したいと云ってるんだ、なんとかならんのか」

『あー……、お店から直接配達というのはもうやってないんですー、申し訳ないですー』

「……もういい、二度とおたくには頼まん!」

 がちゃんと電話を切り、昭夫は居間へ戻った。


 まったく、なにがアプリだ。わけがわからんと昭夫は居間のソファでふんぞり返り、煙草に火をつけた。

 喉がひりつく。口のなかが乾いていると感じた。お茶が飲みたい。いつもならなにをするでもなく、こうして坐っているとき、必ず眼の前にはお茶があった。食後にはコーヒー。暑いときにはアイスコーヒー、涼しくなってきた今頃にはコーヒーメイカーで淹れたホットコーヒーが、黙っていてもいい頃合いを見て出てきた。

 しかし、今日はろくにお茶も飲んでいない。またコンビニに行かなきゃならんのか? と昭夫は顔を顰め、いやいやいくらなんでもいいかげん電話の一本くらいはかけてくるだろうと考えた。――すみません、ばたばた慌てて家を出てから、いろいろ大変で連絡するのが遅くなってしまって、と、そんなふうに。

 優佳がひょっとして車にでも撥ねられたのなら、電話をかける余裕がないのも無理はない。もしもそんな大変なことになっていたりするのであれば、頑固な自分とて今日は帰れないという連絡であっても、しょうがないと許せる。そう思えた。そう、これを機会に真知子と会って和解することもできる――私のことなど放っておいてくれていい。優佳のために、私たちにできることがあったらなんでも云ってくれ。何年も会わなくたって、私がおまえの親であることに変わりはないし、優佳は私の孫なのだから――。

 そんなやりとりを想像し――しかし昭夫は違う、と現実に戻った。

 あの、風呂敷に包まれた着替え。もしも書き置きを残す余裕もなく家を出たのなら、あんな意味のわからないことをする暇もなかったはずだ。夜、妻が布団を敷いたとき、あんなものを置いた様子はなかった。朝、昭夫が目覚める前か、少なくとも夜中のあいだに妻があれを布団の下に隠したのは間違いない。

 朝食がひとり分しか用意されていなかったのも、考えてみれば合点がいかない。なにかあったとの連絡を突然受け、支度した朝食を食べずに家を出たなら妻のぶんも残っていなければおかしい。しかし置かれていたのは昭夫のぶんだけだった。わざわざひとり分だけを作る余裕があったなら、書き置きくらい残せただろう。だが書き置きはない。

 ――朝、予定外のことが起こり、慌ただしく家を飛びだしていったわけではないのだ。

 そこに考えが到り、昭夫はほとんど吸わないまま短くなった煙草を灰皿に押しつけると、なにかに急かされるように二階へ向かった。

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