あなたへ

烏丸千弦

[1]妻の不在

 目覚めたとき。昭夫あきおはなんとなく、いつもと違う朝を感じた。

 カーテンの隙間からこぼれる陽光は眩しく、夜が明けてから間もないいつもの柔らかい明るさとは違っていた。その証拠に窓の外からは原付バイクの音などが聞こえてくる。世の中が既に活動を始めている時刻なのだ。

 だが、家のなかからはそんな気配が感じられなかった。とんとんとネギを刻む音や換気扇の音、ぱたぱたと忙しないスリッパの足音。この四十年、毎日聴いてきた音が耳を掠めもしない。

 枕の傍らに置いた眼鏡に手を伸ばし、目覚まし時計を見て、昭夫は少し驚いた。そして一気に不機嫌になる――もう八時を過ぎているとはどういうことだ。朝飯は昔からの習慣で、七時と決まっている。なのに、起こしにも来ないとは。

 憤慨しながらも、まずは習慣である朝の一服をして、昭夫は布団から出た。灰皿の置かれたトレーはそのまま、煙草とライターだけパジャマの胸ポケットに入れる。そして昭夫はパジャマのまま引き戸を開け、階段を下りていった。

 いつもなら洗面所で顔を洗ったあと、ここに一式用意されている服に着替えて、脱いだものは洗濯機に入れる。だが今日は、その着替えが用意されていなかった。

 なんなんだ今朝は。一言文句を云ってやろうと昭夫は台所に向かったが、そこに妻の姿はなかった。

 ダイニングテーブルには焼いたししゃもとだし巻き卵、高菜の油炒めとすぐき漬けがラップをかけて置かれていた。いつも坐る席に昭夫の茶碗と箸、そして汁椀も伏せられている。見ればコンロの上には味噌汁の鍋もあった。

 しかし、テーブルに用意されているのはひとり分だけだった。

 昭夫は、まさか自分を起こさず先に食べて、どこかへ出かけたのか? と、ますます不機嫌になった。妻は結婚してからずっと専業主婦で、家のことはすべて完璧にやってくれていた。自分が働いていた頃も定年退職してからも、こんなことは一度もなかったのだ。

 自分になんの断りもなく勝手に出かけることさえありえないというのに、こんなふうに自分でご飯をよそって食えと放置されるなど、まったく考えられないことだった。

「なにを考えてるんだいい齢をして! 莫迦にしてるのか!」

 誰のおかげでメシを食ってると思ってる! 退職したって、なんの不自由もなく暮らせているのは自分の稼ぎのおかげであることに変わりはないんだぞ! と口のなかでぶつぶつと文句を云いながら、昭夫はまた二階へと戻った。



「――どういうことだ!!」

 昭夫はさらなる怒りに打ち震えていた。着替えようとタンスを開けたのだが、自分の服がどこにもみつからないのだ。

 着替えはいつも、朝も風呂あがりも妻がきちんと用意していた。だから昭夫はタンスを開けたことがほとんどない。が、抽斗などほんの八杯ほどだ。ぜんぶ開けて探したところで数分もかからない。

 しかし、その八杯のどこにも、昭夫の服や肌着などは入っていなかった。入っているのはシーツの替えや、戴き物らしい箱に入ったままのタオルや石鹸などだった。なぜこんなところにこんなものが仕舞ってあるのか。その他の抽斗はほとんど空で、昭夫は自分の服がここに入っていたはずなのにと、首を傾げるばかりだった。

 開き戸のほうにはスーツやネクタイなどが掛かっていたが、その下の抽斗にはバッグや小物を入れるポーチなどが入っているだけで、服や肌着は見当たらなかった。

 他に服の類を入れるような場所はあっただろうか。普段から家のことはすべて妻にまかせてきた昭夫は、自分の靴下がどこに仕舞ってあるのかさえも知らなかった。部屋のタンス以外にそういったものを仕舞う箱物があったかな、と昭夫は妻の寝室にあるタンス二棹ふたさおと小さなチェスト、洗面所のラタンのバスケットの中など、片っ端から開けて探してみた。

 どこも丁寧に整頓されてはいたが、しかし昭夫のものはとうとう靴下一足さえみつけることはできなかった。



 ぐぅ、と腹が抗議の声をあげた。

 しょうがないので昭夫は、用意されている朝食を摂ることにした。味噌汁を温めなきゃいかんのか、とコンロのつまみをかちかちやり、火がつかないことにまた苛立つ。なんでだとふと視線をあげ、奥にもうひとつ、小さな黒いつまみをみつけた。

 ああ、ガスの元栓が閉まっているのかとようやく気づき、火をつける。そして昭夫は、お茶も要るなと次に食器棚を開けた。上から徐々に見下ろしてきて、あったあったと目についた自分の湯呑みを取りだす。

 急須はテーブルの端に置かれていた。だが蓋を取ってみると、茶葉は入っていなかった。お茶の缶はどこだ、ポットのお湯は、とまた台所を見まわす。すると昭夫のよく知っている電気ポットではなく、それよりも小ぶりなものが目に入った。中には水も入っておらず、持ちあげてみるとコードすら繋がっていない。

 なんだこれは、と昭夫はそのポットのようなものをしげしげと眺めた。いちおうは家電製品らしく、どう見ても火にかけるものではない。しかし使い方がわからない――昭夫はやかんで沸かすほうが早そうだと判断し、それを元あった場所に置こうとした。

 そしてやっと、そのポットのようなものを嵌める台があったことに気がついた。台のほうには電源コードが繋がっている。どうやら水を入れてここに置き、スイッチを入れればいいらしい。

 なんとかそこまでやり、さてお茶っ葉は、と思ったとき。火にかけていた味噌汁の鍋がぶくぶくと泡を吹きだした。

「しまった」

 すっかり忘れていた。昭夫は慌てて火を止めたが、ガラスの蓋には泡がこびりついて、なんだか不味そうな見た目になってしまった。

 まあ、しょうがない。そんなことよりもお茶だ。昭夫は棚の扉などを片っ端から開けていった。が、どこを見てみても、お茶の缶やパックの袋はみつからなかった。

 冷たいお茶は好きではないが、ないよりはましか。仕方がないので冷蔵庫の中も覗いてみるが、目当てのペットボトルのお茶やミネラルウォーターなどは一本も入っていなかった。入っているのは味噌と麺つゆにソースやマヨネーズ、ドレッシングなどと、高菜の油炒めの入ったタッパー、あとは梅干しくらいのものだった。冷凍のほうも開けてみたが、ロックアイスとストックバッグに入れた残りご飯、いんげん豆の袋、刻み揚げしか入っていない。

 ――お茶もなしにメシが食えるか!

 怒りが脳天に達し、昭夫は朝食を摂らないまま、また二階へと戻った。



 まったくなっとらん! 帰ってきたら厳しく云ってやらねばと思いながら、昭夫はそれまで寝ていることにした。起きていても腹が減るだけだ。着替えもないし、どうしようもない。肌着くらいならコンビニにだって売っているし、ちょっと足を伸ばせばなんとかいう量産型の安い服屋もあるが、この恰好では外に出ることもできない。

 朝からいったいどこへ行ったのか知らないが、いくらなんでも昼までには帰ってくるだろう。二階の窓から外を暫し眺め、カーテンを閉めると昭夫はふん、と鼻を鳴らしながら眼鏡を外し、再び布団に入ろうとした。

 そして、なにやら足許に段差があることに気づいた。

 がばっと起きあがって布団をめくる。すると足側に風呂敷包みが置かれていた。なんだ? と眉をひそめながら昭夫は敷布団の下にあったそれを取り、結び目を解いてみた。

 包まれていたのはポロシャツとズボン、ランニングシャツとトランクスに靴下という、朝から昭夫が探していた着替え一式であった。

「……なんでこんなところに?」

 わけがわからずまたもや首を傾げたが、とりあえず着替えを済ませようと、昭夫はそれを持って洗面所に向かった。


 さて。着替えができたのならと、昭夫はコンビニに向かって歩いていた。

 コンビニでお茶っ葉を買おう。なんならおにぎりかなにかを買って帰って食べてもいい。外食は好きではないが、コンビニは仕事で出た先でよく利用していたこともあり、おにぎりも食べ慣れている。

 お茶があの調子ではコーヒーも飲めないだろう。多少冷めてしまうかもしれないが、最近のコンビニのコーヒーは下手な喫茶店よりも旨い。なにか適当に緑茶のパックと、おにぎりとコーヒーを買って帰ろう。おかずはあのまま食べればいいのだし、それでとりあえず問題はない。





 午前十時。やっと食事をすることができてほっとした昭夫だったが、自分で淹れた緑茶を啜るとなんともいえない渋い表情になった。なんだこれは。ただ苦いだけの、香りもなにもないお湯だ。こんなものはお茶じゃない。

 やはりコンビニで三百円くらいで売られているティーパックのお茶はだめだ。これならまだペットボトルを買ったほうがましだったかもしれない。しかし冷たいお茶は好きではない……。しょうがなくテイクアウトしたコーヒーを飲むが、こちらも冷めて味が変わってしまっていた。昭夫は不味いお茶を半分ほど飲むと、ししゃもやだし巻き卵の皿とおにぎりのゴミをテーブルに放置したまま、居間に移動した。

 煙草を一服しながら新聞を読む。いつもならこの時間は妻もここにいてテレビを視ているのだが、昭夫はニュースと時代劇以外のテレビ番組を好まなかった。朝のニュースバラエティやトーク番組など、どれもお笑いタレントや若いアナウンサーとアイドルが騒いでいるだけで、なにがおもしろいのかさっぱりわからない。やかましいだけだ。

 それにしても、妻はいったいどこに出かけているのだろう?

 それに、いったいなぜ服をあんなところに置いたのだろう。まるで隠すみたいに。とりあえず着替えることができてやれやれだったが、他にも服はたくさんあるはずだ。それらはいったい、どこに仕舞ってあるのか。

 苛々と膝をゆすりながら、昭夫は奇妙な不安を感じ始めていた。――帰ってくるだろうか? ふとそんなことを考え、まさかと首を振る。こんなとき、ふつうなら携帯電話で連絡をとるのだろうが、妻は携帯電話を持っていなかった。昭夫が持たせなかったのだ。

 妻が、私も携帯を持っていたほうが便利だと云ったとき昭夫は、専業主婦でずっと家にいるのになんだってそんなものが必要なんだと一蹴した。昭夫自身が携帯電話をあまり有難く思っていなかった所為もある。あんなものができてから何時いつでも何処にいても仕事が追いかけてくるようになったし、有難がって使っている奴らはゲームとSNSばかりやっている。ろくなものではない。

 おまえは家にいて、なにかあったら自分に電話してくればいい。昭夫はそう妻に云い聞かせていた。妻が外に出るのは普段の買い物程度。自分から用があって、家にかけた電話を妻がとらなかったとしても、頃合いを見てかければ必ず連絡はつく。

 ――まさか、いま何処でなにをしているのか、いつ帰るのかと訊きたくなるようなことが起こるなど、これまで想像もしたことはなかったのだ。

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