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夏期講習の前半戦が終了し、いったん短い休講期間に入った。が、その間も普段の授業は通常どおりおこなわれていた。ふたりで受けている授業は英語だけだったが、曜日によっては別の授業の終わる時間が一緒になり、帰宅するタイミングがかぶることがあった。
「ケンタ、宿題やったか」
「ぜーんぜん」
「だよな、俺も」
寄り道したコンビニで、アイスを食べながら話をする。かたわらのガラスから漏れる店の明かりによって雑に切り取られた闇の中、水色の棒つきアイスを持ったマコトが笑っているのが見える。向かい合わせに置かれた自転車のかごに入った、塾用のかばんへ目を向ける。自分ものには社会、マコトのものには数学の問題集などがおさめられているはずだ。
「俺、本当に受かんのかな」
かすかな風が吹き、じっとりとした暑さと湿気がTシャツや皮膚の上をすべる。黙ったまま僕は自分のかばんを開け、家に帰ったらちびちび飲もうと思っていたコーラのペットボトルをマコトへ差し出した。
「やる」
「え、いいの」
ありがとう。彼はそう言って先ほどと同じ、いや、それ以上の笑みを自分の顔に浮かべなおした。いやいやそんなに喜ぶなよコーラごときでと思いつつ、僕はなぜかうずうずとしだした体を持て余して、コンビニへと入店した。コーラのペットボトルをレジへ持っていき会計を待ちながら、僕は右手の指をこすり合わせていた。それを渡すときに意図せず触れてしまった、マコトの汗ばんだてのひら。店の外を見ると、暗がりの中に立つ彼の姿はぼうっと浮かんで見えた。こちらへ顔を向けているようだ。表情まではさすがにわからない。
店を出て自転車のところまで戻ると、彼は数枚の小銭をこちらへ差し出してきた。別にいらんって、と手で制し、持ってもらっていた自分のぶんのカップアイスを受け取る。バニラ味のそれは大半が溶けており、その甘ったるい汁は舌によく絡んだ。
「ん、なに」
「いやあ、なんでも」
マコトと視線がかち合う。彼は目をそらしたが、またすぐに顔の向きを元に戻した。
「いや、あのさケンタ。なんだかんだ、俺たちちゃんと仲良くなれてよかったな、と思って」
「ああ、そうだね。僕も、マコトとこうして遊んだり帰りに寄り道したり、そういうことができるようになってよかったと思う」
強い不快感はなかったにせよ、距離が近いのに微妙な関係を続けているのには得も言われぬ気まずさがあった。だから、こうして友達らしくいられるようになったことは、たしかにとても嬉しかった。溶けた白い塊をすくって口に運びながら、店先に吊り下げられているブラックライトを眺める。ばち、ばち、と光の粒がその周りで弾けている。その横に、夜の闇とは異なる暗がりが広がっている。そこにあるはずの粘液をまとったおうとつは見てとれない。が、うごめく音だけはしている。いやあ、しかし、本当に蒸し暑いな。服の裾をはためかせて風を自分に送りながら、僕はそこから目をそらす。コンビニの光が届かない、住宅街の細道が視界に広がった。
その瞬間、丸い形に寄り集まった光の粒が、夜空にぱっと広がった。すこし遅れて、内臓を叩くかのようなにぶい音もそれに続く。花火だ。僕とマコトのつぶやきが重なる。間を置いて、色や形の異なるそれはつぎつぎと花開いては消えていく。
「すごい。そうか、お祭りか。今年は行けなかったな」
「今から行っちゃおうか」
「いやいや、あれ方角的に隣町のやつだよ。無理だよ、もう間に合わない」
「あー、まあそうか。しゃーないな。本当に、しゃーない」
マコトがアイスの棒を噛み折る。そこに『あたり』の文字はない。もう捨てろよ、ほら。そう言いながら、僕は真っ二つになったそれを受け取ろうとする。
そのとき、こちらへ近づいてくる人影に僕たちは気づいた。ゾンビのようなおぼつかない足取りをしている。普段ならすぐに道をゆずるなり距離をとるなりしているような風貌だった。
が、今回ばかりは事情が違った。僕もマコトも、その場から動けなくなった。
「ゆ、ユウリ先生。ど、どうしたんすか」
先に口を開いたのはマコトのほうだった。よく見てみると、その人影はたしかにユウリ先生だった。授業のときよりもくだけた服装をしており、つんとしたアルコールのにおいを全身から放っている。
「あ、ん、だれ、ってあれわりい今日バイトだったっけ塾、んあ、ちがう、マコトぉ、ケンタぁなんでここに、やばおれなんで、今度こそクビか、え」
「ケ、ケンタとマコトですけど先生違います、今日は授業じゃないですよ」
「え、ん、そう。ならいいや。ねむい、ねむいねむいくそ、ふざけやがってあいつらなにが内定だ研修だーだよくそ、くそ、おれはじゅくこーやってていそがしくて、まあ関係ないか、こんなんじゃないのに、あぁ」
そうぼやきながら先生は地面に手をついた。どうする、と視線だけでマコトに問いかけるが、彼からも困惑をはらんだ視線が返ってきた。そもそも、なぜ先生がここに? この酔い方から察するに今日は塾のシフトではないようだったが、だとしたらこの町にくる必要がない。通っている大学も、こんな郊外ではなく、都心のほうにあるもののはずだった。
「かえる。家かえるよおれ、マコト、ケンタ、すみませんつれてってください。歩けね、あるきたくない、どこにもいきたくない」
そこまで考えたところで、彼自身の言葉で疑問はあっさりと解ける。家、この辺なんですか? そういえば知らなかったなと思いつつ聞き返すと、彼はがくがくと頭を縦に振った。
「マコト、どうする」
「まあ、つれてくしかないだろうな。こんな状態で放置しておけないよ、夏とはいえ。先生、先生、道案内できますか」
「ふぁい」
ふやけた肯定の言葉と共に、先生はぴっと両腕をこちらへ伸ばしてきた。まるで抱きついてくるのを待っているかのような姿勢だ。目もぎゅっと閉じており、唇も心なしか突き出されているようにも思えた。両肩をそれぞれ半分ずつ受け持ち、僕とマコトは泥酔した情けない大学生を運び始める。今の彼には先生という肩書は似合わない。ぐずぐずでだらしのない、ただの男でしかなかった。本当にそうだったら、どれほどよかったか。
●
案内にしたがい一五分ほど歩くと、僕たちは古びた外観のアパートにたどり着いた。通っている中学校の学区外のため馴染みは薄かったが、何度か前を通ったことはあった。ペンキの禿げた外階段をのぼり、二階の角部屋に彼のポケットから取り出した鍵を差し込み中に入る。台所を抜け、ガラス戸を引き開ける。空のペットボトルや脱ぎ散らかした衣服をまたいで進み、窓際に置かれたベッドに彼を寝かせる。許可を得てエアコンをつけるが、自分たちより背や体格のいい男を運んだせいで、かいた汗はなかなか引かない。おでこや首筋を腕でぬぐいながら、僕たちは顔を見合わせる。
「どう、するか」
「まあ、帰ったほうがいいだろうな。親から連絡もきてるし」
僕たちはおのおの携帯を確認する。もう夜の九時を回ろうとしているところで、僕にも母から連絡が入ってきていた。そろそろ帰ってくる? ご飯残してあるよ。やんわりとした質感の文面から目を離し、ベッドの上へ目を向ける。どうあっても届かない、触れられないはずの存在が、手を伸ばせば届く距離にうずくまっている。耐えがたいいらだち、体のうずきのようなものを感じて、僕は携帯をズボンのポケットにねじ込んだ。目を合わせたマコトも、同じようにしてその四角い板を見えないようにしていた。
かばんを持って靴を履き、家に帰る。後日、このことを笑い話にする。やるべきことはわかっていた。でも、ベッドの上で真っ赤な顔をした先生から、どうしても離れることができない。英文を読み上げる先生。僕たちと軽口を叩き合う先生。マコトの頭をなでる先生。今まで見てきたどの彼とも一致しない、その姿。僕とマコトはもう一度顔を見合わせる。その瞳はどこか遠くを見つめている。どちらともなく、手と唇が触れる。火傷しそうなほどの熱がそこに広がった。だめだよ。だめだって。誰かがそんなことを言う。でも、もう止まらない。
僕たちふたりであらわにした先生の裸は、いつも『昼寝』のときに想像していたものよりもずっと、迫力と肉感があった。が、てのひらで触れるとマコトの体と同じようにあったかいところと冷えたところがあったり、舌をはわせるとすこしの塩辛さと汗のにおいがふんわりと香ったりした。
頭がくらくらする。状況に理解が追いつかない。でも、僕もマコトも、もう野暮なことは言わなかった。ううん、ああ、とうなる先生のあちこちに僕たちはかみついていく。蛍光灯に照らされた室内はこの上なく明るいのに、目を固くつぶる先生と、かたわらで彼の体へ吸いつくマコトの姿しか見えない。そのほかは、ぬるぬるとうごめく闇に閉ざされている。
どこかへ落ちている。今度は錯覚などではなかった。深く酔っ払っている先生に、どれだけ理性と意識が残っているのかはわからない。このあとどうなるのかもわからない。それでも僕は、ひたすらに焦がれ続けたその体にしがみつこうと、中へ入りこもうと躍起になっていた。が、思い描いたような気持ちよさはやってこない。あるのはもどかしさだけだ。カーテンを締め切った部屋の中で、なにかを埋めあい、なぐさめあうふたり。それと似ている。いや、もしかしたらそれよりもひどい。なんでだよ。そう叫びたくなった。
「ケンタ、けんた」
が、頭をもたげかけたその衝動は、マコトの手によって顔がぐいっと引き寄せられたことによって立ち消えになった。先生の腹へ押しつけた胸元にぬくもりを感じながら、僕は口内に差し込まれるマコトの舌を受け入れる。ぬるぬるとそれを回しながら、彼はなおも僕の名前をもごもごと連呼する。体がこわばるのを感じる。が、それは徐々に弛緩していった。先生のうなり声が小さくなり、かわりに僕たちのあげる声があたりを満たす。思わず自分の股間へ手を伸ばしかける。それを、すんでのところで思いとどまる。
「ふぁ、なんだ。お腹すいたのか。すいそう、どうやって、開けたんだ。今日はだめだよ、もどれ、もどれって、もう」
折り重なって深い口づけをする僕たちの下で、先生がよくわからないことを言いながら右腕を掲げる。そのてのひらはゆるく握られ、人差し指だけがぴんと伸ばされている。マコトの唇を押し返してその方向を見ると、そこにはラックの上に置かれた青いふたの水槽があった。水が半分ほど入ったその中には、なにか大きくて太い、黒いものがうごめいている。なに、あれ。マコトが僕の耳元でささやく。あの湿った黒い穴によく似ていたが、透明な箱の中を動き回るそれには、たしかな実体があった。
「だめだって、今日は酒のんじゃったんだから、でもごめん、おなかすいたよな。でもさ、むりなんだよ。がまんできなくてごめん。つらくて、あ、ああ、ほらだめだって」
お前、ヒルだろ。今のおれの血飲んだら、死んじゃうよ。そう言いながら、先生は腕についた大きな絆創膏を外した。その下には、丸い輪郭をした比較的新しそうな傷と、白い線のようになってふさがった傷跡がいくつも浮かんでいた。種類によっては買うことができると聞いたことがある。人の血で育てることができるとも。本物は初めて見たが。
「アルコール。今はさ、血にそれが入っちゃってるからさだめなんだよ、それにこの前あげたばっかりだよ。まったくがまんしろよな、かわいい、かわいいやつだなぁこの、このぉ。あ、ああ、お、お前の、お前のせいでさあ、こっちはろくに酒もたばこもできない、できなくなった! でも、でもかわいいよ、好きだよお前。だいすき。あいしてる。アイラブユー。もう、おれだけのからだじゃなくなったんだよな、そうだよな」
その言葉を最後に、彼はすやすやと寝息を立て始める。水槽の中のヒルは、なおも口のような部分を水槽へ押し当てながらうごめいていた。しがみついていたマコトの体から、僕は腕を放そうとする。が、彼から強い力をかけられてそれはかなわない。唇をこじ開けて何度も出入りしてくる舌の感触を感じながら、僕は部屋の天井に目を向けた。そこにはうねうねとした木目が広がっている。蛇や魚、その他の生きもの、それにヒル。あらゆる姿で、彼らはこちらをにらんでいた。目だけを動かし、僕はあの穴を探す。見つからない。
桃の間引きは初夏におこなわれる。小学二年生のとき、僕は初めてその現場に居合わせた。いじめられたり勉強についていけなかったり、というような理由は特になかったが、なんとなく学校へ足が向かなくなってしまったのだ。で、気がつくと僕は父方の実家がある長野行きの新幹線に乗せられていた。自然の中でいったん過ごしてみたらどうか、という両親の提案からのことだったが、その言葉にうなずいた結果そうなったのかはよく覚えていない。
桃は育てるときに栄養を集中させるため、基本的に一本の枝にひとつしか実を残さない。そのため、そこへぶら下がっている未成熟の桃たちは、そのほとんどがもぎとられてしまう。夏休みに祖父母のもとへ遊びにくると出されたり、行けなかった年は家に送られたりしてきていた桃しか見たことのなかった当時の僕は、その光景に大いに困惑した。
「それ、すてちゃうの」
「ああ、生やしたままにしておいたらよくないんだよ」
「みんな大きくなるかもしれないのに?」
「違うんだよケンタ、強くておいしそうなやつをもっと大きくするために、こうするんだよ」
麦わら帽子にゴム手袋をした祖父と祖母は、手際よく青い果実を選んではもぎとっていく。放られたそのうちのひとつを手に取る。細かな産毛と、枝に食らいついていたと思しき茎のちぎれた跡の感触が、てのひらへ伝わる。切り花みたく水につけておけば、この桃たちも大きくなるのではないか。僕はふたりに頼み込んでいくつか実を持ち帰り、茎の部分が水にひたるようにしてタライの中に置いておいた。スイカを食べたり勉強をしたり近くの川へ遊びにいったりして日々を過ごし、その青い実がぷっくりとふくらむのを待った。
やがて時が過ぎ、両親のもとへと帰る日がやってきた。タライはとっくに片付けられ、腐って虫のたかった桃もすでにごみへ出されていた。家へ戻り、僕はふたたび学校へ通い始めた。三年生からは、小学校を卒業するまでずっと皆勤賞を取り続けた。
ズボンや下着を脱がずことにおよんでしまったため、僕たちはなんとなく前かがみになりながら先生の家を後にした。そのまま、おたがいに一言もしゃべらず家路へつく。分かれ道でしばらく立ちつくしていると、マコトが口を開き、手を振った。
「じゃあ、また明日英語の授業で」
「うん、またな」
「ぜ、ぜったいだぞ」
「ど、どしたの、わかってるって」
「そ、そう。ならいいけど」
どのような結果が出るかは考えたくなかった。でも過ぎたことは戻らない。戻せない。ひとりきりでとぼとぼと歩きながら家に帰りつき、ただいまーと言いながら玄関で靴を脱ぐ。それでも、今さっきまで見ていた先生の姿は色濃く脳裏に焼き付いていた。都合のいい妄想も健在だった。あんなことを、しておいて。
「あら、おかえり」
「寄り道してたのか」
リビングに入ると、ソファーにもたれかかっていた両親がこちらを見ていた。うん、とうなずきながら、着替えるために自室へ向かう。股のあたりがぐっしょりとよごれたズボンたちをそのまま洗濯かごに入れるのははばかられた。その部分が見えないようにしてとりあえずベッドに放り、適当な部屋着を着て階下へ降りる。とにかく、のどがかわいていた。台所へ向かい、冷蔵庫を開ける。そこで、見慣れないびんが棚に収まっているのに僕は気づく。が、中身には見覚えがあった。というか、ついこの間、僕が食べつくしたはずのものだった。
「ねえ、冷蔵庫の中のこのびん」
「ああ、間引いた桃のシロップ漬けだって。おじいちゃんが送ってきたのよ。なんか今年から作り始めたんだって」
「そう、なんだ」
「そうらしいよ」
びんのなかで静かに冷やされうずくまる青い桃。よく見ると、リビングのローテーブルにはそれが盛られた小皿と、フォークが置かれていた。ケンタも食べるか。あれ、でもこの前塾の先生から同じものもらってたよね。両親の言葉を聞き流しながら、手に握った携帯の画面を開く。
『ケンタ、その』
『メッセージの送信を取り消しました』
『電話、できたりする?』
マコトからのメッセージを、既読をつけずに読む。先生からは、なにも送られてきてはいない。よく冷えたびんを取り出し、ふたをあける。桃を指でつまむと、冷たさが僕の指をあぶった。離してしまわないよう、必死に力を込め続ける。
かみつく(でも離す) 大滝のぐれ @Itigootoufu427
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