「ただいま」の声で夜中に目が覚めて
烏川 ハル
「ただいま」の声で夜中に目が覚めて
大学時代に俺が住んでいたのは
ドアを開けると、まずは短い廊下みたいな部分があり、その右側にバス・トイレ。左側にはコンロや流し台などが設置されており、一応ここがキッチンスペースなのだろう。
そんな「短い廊下」の先には、メインの居室となる6畳のワンルーム。この手の「一人暮らし用」にはありがちな間取りだった。
当時の俺の認識ではワンルーム・マンションだったけれど、厳密には「ワンルーム」でなく「1K」と呼ばれるタイプらしい。俺の部屋の場合、キッチンスペースの廊下と6畳の居室が曇りガラスの引き戸で仕切られていたので、それらが別々の空間という扱いになるそうだ。
世の中には「六畳一間」を「狭い」と感じる人もいるようだが、俺にとっては十分な広さだった。初めての一人暮らしともなれば、そこはいわば自分の城。よほど大きな問題が発生しない限り、どんな「城」でも満足だったのだろう。
大学4年間、俺は快適に暮らし続けたわけだが……。
一度だけ、ちょっと怖い目に遭遇したことがある。
その部屋で暮らし始めて3年目、蒸し暑い真夏の夜の出来事だった。
――――――――――――
大学時代の俺は夜更かしが多く、日付が変わってからベッドに入ることがほとんど。
しかしその夜は珍しく、日付が変わる前どころか10時には横になり、しかもすぐに眠りに
ただし、朝まで快適な睡眠というわけにはいかず……。
大きな叫び声を耳にして、まだ暗いうちに叩き起こされてしまう。
「ただいま!」
夢の世界から引き戻されるほど「大きな叫び声」だ。
反射的に枕元の時計に目をやると、蛍光塗料の塗られた長針と短針が
ちょうど「草木も眠る丑三つ時」と呼ばれる時間帯だった。
そして何よりも驚いたのが、声の聞こえてきた方向だ。外を歩いている人が発した声ならば窓越しのはずなのに、反対側から聞こえてきていた。
俺が住んでいる302号室の中、正確に言えばそのキッチンスペースからだったのだ。
――――――――――――
掛け布団を跳ね
キッチンスペースとの境界となる引き戸は
大学生というよりも社会人だろう。俺より少し年上っぽい女性だった。
端正な顔立ちに、軽くウェーブのかかった長い黒髪。カジュアルドレスらしき青いワンピースはノースリーブで、胸元も大きく
大学生の俺は当然その手の店とは無縁だけれど、それでも何となくわかるくらい独特な、水商売の雰囲気を漂わせていた。
彼女は流し台の方ではなく、こちらを向いていたので、俺と目が合う。
不思議そうな表情を浮かべるその顔には、見覚えがあった。何度かエレベーターで一緒になった女性だ。
記憶を辿れば、俺が3階から乗り込む時には既に乗っていたり、俺が3階で降りた後もまだ乗っていたり。つまり同じ階の住人ではなく、4階か5階のはずだった。
だから、その点を問いただしてみる。
「部屋を間違えていませんか? ここは302号室ですよ」
「あら、ごめんなさい。私、402号室に住む者でして……」
そんな説明よりも、早く出ていって欲しい。
口には出さなかったけれど、顔には表れていたのかもしれない。
俺の気持ちが通じたらしく、彼女はもう一度「ごめんなさい」と頭を下げてから、くるりと背を向ける。胸元だけでなく、背中側も露出面積の激しいワンピースだった。
――――――――――――
そのまま302号室から出てくれたのだろう。
俺はすぐにまた横になったので「出ていく」瞬間そのものは見ていないけれど、人の気配が完全に消えていた。
扉を
そのように好意的に解釈して、勝手に納得する。
俺は睡眠に戻るつもりだったが、人と話したせいか、ちょっと眠気が覚めてしまったようだ。
ちょうど尿意も
その瞬間、ハッとする。思わず独り言を口にするほどだった。
「あれ? 俺はドアの鍵、きちんと閉めていたはず……」
もうトイレどころではなかった。
慌てて確認しに行けば、確かにドアは施錠されている。
長い黒髪の彼女が出て行く際に、鍵を掛けたわけではない。合鍵の
「ならば彼女はどうやって、鍵の掛かったドアを出入りしたんだ……?」
事ここに至り、ようやく俺はきちんと目が覚めたらしい。
先ほどトイレへ行こうとしてハッとしたつもりだったが、あの時点では、まだいくらか寝ぼけていたのだろう。
この瞬間、やっと俺は思い出したのだ。
402号室に住む女性が先月、ベランダから落ちて亡くなったという噂を。
(「ただいま」の声で夜中に目が覚めて・完)
「ただいま」の声で夜中に目が覚めて 烏川 ハル @haru_karasugawa
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