いつまでの森

@ninomaehajime

いつまでの森

 樹海で首を吊った。

 繁茂はんもする樹木の底で、浮いた足のつま先の下で苔が生えた木の根が這いずり回っている。事前に軽く調べたところによると、千年以上前の大噴火によって溶岩に覆われた。その上に今の大森林が形成されたという。固い地面に根が潜ることができず、結果として地表に根がのたうつ奇妙な景色が生まれた。

 よく育った赤松の枝に首吊りのための道具を結んだ。地面から少し浮かんだ根を足場にし、首をくくったまま飛び降りた。ちょうどブランコの要領で体が揺れ、行き場を失くした足が空を蹴った。首に縄目が刻まれ、苦しさのあまりに喉を掻きむしった。涙を流した目を剥き出しにし、頸動脈が圧迫されて窒息にあえいだ。やがて小首をかしげた姿勢のまま、だらしなく舌を垂れた状態で絶命した。

 そのはずだった。体は動かず宙に浮いたままで、醜い死に顔を晒しているだろう。にも関わらず、まだ意識が残っている。苦しみは感じない。腐敗が始まらず、絶命直後の状態を保ったまま首を吊っている。

 大いに戸惑った。話が違うと思った。死ぬまでの苦痛を乗り越えれば、楽になれるはずだった。なのに、現実は指先一つ動かせず、樹海に魂が取り残されている。死体かどうか判断に迷っているのか、虫が服の下を這っても死肉をかじったりしない。一頭の鹿が通りかかり、しばらく目が合うと身をひるがえした。

 日が昇り、また沈む。鬱蒼うっそうとした景色しか見えず、気が狂いそうだった。西洋の宗教では自殺は大罪だという。無宗教だったはずなのに、自分は気づかないまま地獄に落ちてしまったのか。己の宗派もわからない神さまに問いかけても答えが返ってくるわけもない。

 どちらにしろ、生きた人間が偶然通りかかる可能性は皆無に等しかった。ここまで来るのに使ったレンタカーなら発見されるかもしれない。その借り手が失踪しているとあれば、警察は捜索してくれるだろうか。ごくわずかな可能性が実を結ぶまで、正気でいられるか自信はない。

 ここは光が遠い。折り重なる枝葉に阻まれて、奈落の底にいる心地がした。このまま枝にぶら下がって風に揺れ続ける。そのたびに、頭の上で繊維せんいが軋む音がした。

 誰か助けて。この叫びが届くことはないだろう。喉が圧迫されて声が出ない。時折野生動物が通りかかっても、すぐに逃げていくだけだ。樹海のあちらこちらに穴を空けているという溶岩洞窟を通って、蝙蝠こうもりの一団が視界をさえぎった。

 幾日過ぎただろう。今は夜だろうか。ねじくれた樹形じゅけいの輪郭が薄っすらと見える。頭上で翼が羽ばたいた。次いで黒くつややかな羽根が一枚、顔の前を舞う。鴉にしては大きく、樹海に棲息しているものだろうか。

 漫然と思考をしていた私は、木立に揺れる明かりに気づくのが遅れた。靴底で小枝を踏みつけて砕ける音。誰かが近づいてくる。信じ難い思いだった。

 お願いします。私は必死に願った。夜の樹海を訪れる人間などまともなはずもない。それでも一筋の光明にすがるしかなかった。どうか、私に気づいて。

「そんなにがならなくても聞こえてるよ」

 面倒臭そうな男性の声が聞こえた。懐中電灯の明かりが夜を裂いた。死に顔を照らされて、瞳孔が開いた目に光が沁みる。

「あんた、いつまでそうしているつもりだ」

 私の眼前に現われたのは、制服を着た中年の男だった。 



 どこかに所属している職員だろうか。枯草色の地味な制服を着ていた。制帽を被り、丸い眼鏡をかけている。軍手を嵌め、その手には懐中電灯が握られていた。黒い長靴を履き、ちょうど私が足場にした木の根に腰を下ろす。億劫おっくうそうに片手を垂れた。

「あんたさ、誰にも見つからないところで死ねば迷惑がかからないと思ったんだろ。よくあるんだよね。こうして探しに来る身にもなってほしいよ」

 急に現われた四十代ほどの中年男性は、女の首吊り遺体を前に愚痴り始めた。私は戸惑った。その振る舞いはまさしく狂人のたぐいだ。ただ、先ほどからの言動からしてこちらの意図が通じている様子だった。

「ああ、聞こえてるよ。うるさいぐらいにね。あんた、樹海に入る前に看板は見なかったのか」

 耳に指を突っ込んで、痩せた中年男性は言った。懐中電灯に晒された私の死体は、ちょうど小首を傾げていただろう。

「『あなたの心の隙間に寄り添います』……自殺防止のために設置された看板だよ。あそこに電話してくれたら、うちのスタッフがすっ飛んでいったんだがね」

 思い返せば、錆が浮いた立て看板を見た気がする。まるで怪しいセミナーの誘い文句だと思った。

「そう言ってくれるなよ。うちの熱心なスタッフが必死に考えたんだ……まあ、センスがないのは同感だがね」

 片頬を歪ませる。

 改めてこの奇妙な状況を不思議に思った。夜中の樹海で、首を吊った女の死体とくたびれた中年の職員が向かい合っている。当事者ながら、頭の中で疑問符が飛び交っていた。

 どこかでふくろうの声がする。懐中電灯で片手を塞がれたまま、中年男はもう片方の手で器用にポケットをまさぐり、そこから煙草を取り出して火を点けた。赤熱した先端から紫煙を漂わせる。生前、喫煙者は嫌いだった。職場の嫌いな上司が、喫煙禁止にも関わらず体から煙草の臭いを濃く発していたからだ。

「そりゃ悪いね。喫煙者には肩身が狭い世の中で、こうしたときしか満足に吸えないもんでね」

 口から煙を吹かす。

「さて、そろそろ規定に従って説明しようか。まず、あんたは死にぞこないだ」

 いきなり大概な物言いだった。こちらの憤懣ふんまんが伝わったのか、男はこちらを見上げる。

「あんたもどうして死に切れないのか、不思議に思ってたろ。たまにいるんだよ、あんたみたいに死にぞこなって、魂がその場に留まり続けるやからが。誰も彼もがそうなるわけじゃない。ただいつまでも放置すると、生者を道連れにしようとする厄介なものになる。だから、俺みたいな専属のスタッフが派遣されるわけだ」

 面倒なことにね。どうにも一言が多い。あまり好きになれない男性だと思った。

「そりゃどうも。こちらも別にあんたに好かれようとは思ってない……自分の考えが伝わるのがそんなに不思議かい。意思疎通ができなけりゃ仕事にならないからな」

 指で挟んだ煙草をこちらに差し向ける。

「俺のことはどうでも良いんだよ。問題はあんただ。いつまでもこの世に留まられちゃ困るんだ。だから、きちんと死んでもらわないといけない」

 まるで悪役の台詞だ。その皮肉が面白かったのか、中年の男は丸めた背を揺らす。

「引導を渡しに来たんだから、ある意味間違っちゃいないな」

 ひとしきり笑った後、丸い眼鏡を向けた。その奥の眼差しは光を反射して、よく見えない。

「あんたが上手く死ねないのは、未練があるからだ。それを取り除かない限り、この世に魂が残り続ける」

 私の未練とは何だろう。そんなものが残っていれば、この場で首を吊ってなどいない。男は制帽の上から頭を指で叩く。

「それもそうだ、語弊ごへいがあったな。正しくは、死んでも忘れられない想いだ。こいつがある限り、くさびとなってあんたの魂をこの世に繋ぎ止める」

 未練と何が違うのだろう。私にはわからなかった。

「人間にとって何が大事なのか、俺にもよくわからんよ。とにかく、あんたにはそれがあるはずだ。その想いを奪ってしまえば、あんたは晴れて死ねる」

 妙な物言いもあったものだ。想いを奪うとはどういうことだろう。私は眼下に座る男を見下ろした。懐中電灯を片手に、煙草を指に挟んでいる。

「まあ、とにかく話してみなよ。どうして首をくくるに至ったのか、その経緯をさ」

 指先の煙草を振り、居酒屋で相談に乗る程度の軽い口調だった。私はまるで気が進まなかった。自殺を決意した理由を、この軽薄な男に話してどうなるのだろう。

 制帽の男は笑い声を上げた。

「軽薄とは言ってくれるね。だがその理由を教えてくれなきゃ、あんたはいつまでも宙ぶらりんだぜ」

 こちらを見上げた表情は口の片端を吊り上げ、酷薄こくはくに見えた。

「それともここで永遠に死にぞこなうつもりかい。いつまでも、誰にも見つからないままさ」

 明らかな脅し文句だった。赤松の枝に全体重を乗せながら、渋々といった心地で自殺した事情を思い返す。丸眼鏡の男が握る懐中電灯の光は、なぜか枝と首を繋ぐ空間を注視していた。

 首の上で、少しずつ紐の繊維が千切れる音がした。



 数年前、私は上京した。

 大手とは言わないまでも、中堅の会社に就職した。事務職に就き、仕事に励んだ。社会人としての生活は思ったより順風満帆だった。最初こそ失敗が続いて先輩に叱られたけれど、同時に支えられもした。少しずつ新人という意識が抜けていった。

 風向きが変わったのは、元いた上司が定年退職してからだった。新たに管理職に就いた男は経営者の縁者か、比較的若く、ただ横暴だった。社員の失敗を許さず、自分の意向が絶対だった。発注を間違えた社員を全員の前で怒鳴り散らし、結果としてその人は来なくなった。

 おそらく私もそうするべきだったのだろう。何が気に入らなかったのか、その男に目をつけられた。仕事に難癖をつけられ、重箱の隅をつつかれた。失敗を犯そうものなら、鬼の首を取ったかのように皆の前であげつらわれ、社会人失格の烙印らくいんを押された。

 悪循環で今までできていたはずの仕事が上手く行かなくなった。職場の雰囲気は最悪で、厄介事に関わりたくなかったのか私の味方はいなかった。

 勿論もちろん、転職を考えた。実家の両親には心配をかけたくなかった。決して裕福とは言えない生活で大学に行かせてもらい、上京の費用を負担してくれた。その恩に報いるためにも、逃げ帰るわけには行かなかった。

 簡単には転職先は見つからず、途方に暮れた。精神的に追い詰められ、思考が暗い方へと転がっていた。家で過ごすひとときだけが、その感情に蓋をしていられた。

 大きな不幸があった。仕事に見逃しがあり、上司から罵声を浴びせられているあいだも耳には入らなかった。もういいや。心を支えていた軸が、不意に折れてしまった。

 死ぬなら一人が良かった。できれば死んだことも悟られないまま、社会から静かに消えたかった。首吊りに必要な道具を用意し、樹海へ向かった。

 後は、このざまだ。

 溶岩洞窟を群れが通り抜けたのか、蝙蝠の鳴き声がけたたましく響いた。樹海の中へと立ち返る。足元を見下ろすと、制服の男は退屈そうに欠伸あくびをしていた。木の根に腰かけたまま、短くなった煙草の灰を地面に落とす。

 何なのだ、この男は。言われた通り胸中を明かしたというのに、この態度があるだろうか。こちらの怒りが伝わったのか、私の首吊り死体を見上げる。

「ああ、悪いね。こういう仕事をしていると似たような話ばかり聞くもんだからさ、どうにも眠くなっちまう」

 声帯が動いても絶句したことだろう。死にのぞんだ女を前にしても、一切の気遣いもない。やはり人間など信用できないと後悔の念に駆られた。

「人間、ね」

 何がおかしいのか、丸眼鏡の男は笑う。指に挟んだ煙草の煙をくゆらせた。

「俺からしてみれば、おかしいのはあんたたちさ。そんなに嫌だったならどうして住処すみかを変えない。とっとと逃げ出せば良かったのさ。挙句の果てにくたばっちまったら世話ないね」

 まるで動物の縄張り争いのような言い方だ。人間の社会はそこまで単純ではない。私は腹が立って仕方なかった。この男には、人の心がない。

「うちのスタッフからもよく言われるよ。でもさ、あんたも悪いんだぜ」

 懐中電灯を顔面に浴びせられる。表情筋が機能していたなら、顔をしかめていたことだろう。

「あんたの話には、肝心なところがすっぽり抜け落ちてるだろう」

 何の話だ。怪訝に思うと、丸眼鏡の男は言葉を重ねた。

「最初から気になってたんだよ。あんた、何でそんなもので首を吊ったんだ。ホームセンターで長くて頑丈なロープを購入すれば良かったろうに、今にも千切れそうじゃないか」

 この男の言っていることがまるでわからなかった。彼は立ち上がり、長靴の底で煙草の火を踏み消した。大の男がこちらに近寄ってくるのを見て、生理的な嫌悪感を覚えた。

「死体をどうこうする趣味はないよ、っと」

 浮かんだ足のつま先の下で、中年の男は何かを拾い上げた。軍手でそれを握り、私の眼前で振ってみせた。

「首を吊る間際まで握っていたんだろう。こんなものが、そんなに大事だったのかい」

 開いた瞳孔に映ったのは、赤い犬の首輪だった。



 どうして忘れていたのだろう。私にはかけがえのないものがあった。

 降りしきる雨の日だった。仕事から帰ると、玄関のドアの前で白い子犬が蹲っていた。捨て犬だろうか、全身がずぶ濡れで薄汚れている。こちらを見上げる眼差しは弱々しく、全身が震えていた。

「あんたは、その子犬を家に入れた」

 そうだ。このまま放置すれば、保健所に連絡されるかもしれない。だから家に入れて、濡れた体をタオルで拭いてやった。よほど衰弱していたのだろう。子犬は抵抗しなかった。小皿に牛乳を入れて差し出した。鼻をひくつかせ、舌を出して飲んだ。

 近所の動物病院へ連れて行った。命に別状はなく、十分な食事と水を与えれば回復するだろうと言われた。ただ、獣医師から苦言を呈された。

「その子を飼う気がないなら、情が移る前に手放した方が良いよ」

 その通りだった。最初は里親に出そうかと考えた。貸家で暮らしており、大家は良い顔をしないだろう。一晩、子犬を毛布にくるませて過ごした。あどけない寝顔を眺めて、不思議な心地になった。

 上京して一人暮らしに慣れたとはいえ、孤独感はあった。例の上司がやってくるまではそれなりに人間関係は良好だった。ただ仕事上の関係に過ぎず、地方を飛び出して遊び慣れていない自分には友達らしい友達もいなかった。朝方、頬を舐められて目が覚めた。少し元気を取り戻した子犬の顔がすぐ近くにあり、くすぐったかった。

「で、結局その子犬を飼うことに決めたわけだ」

 大家との交渉はやはり苦労した。難色を示され、動物を飼うことのあらゆる不都合さを説かれた。こちらの熱心な説得の末、渋々といった態度でようやく許可が下りた。大きな吠え声を上げさせるなどの近所迷惑になることは避け、できる限り物件を傷つけないこと。これらの条件が守られない場合、立ち退きを覚悟しなければいけなかった。

 幸い子犬は大人しい気質で、滅多なことでは吠えなかった。赤い首輪を与え、その毛並みからシロウと名づけた。私たちの共同生活が始まった。

 想像以上にペットを飼うことは大変だった。例の動物病院で飼い犬の登録を行ない、狂犬病などの予防接種を受けなければならなかった。病院でかかる費用は勿論、朝に早起きをし、残業で疲れ果てて帰った晩にも散歩に連れていった。

 だけど、一人きりで過ごす時間よりもずっと充実していた。名前を呼べば、尻尾を振って反応を返してくれる。シロウはすくすくと育ち、立派な白い柴犬となっていた。職場の環境が激変してからも、心身ともに疲弊した私を慰めてくれたのはあの子だった。

「だが、大きな不幸があった」

 ああ、どうしてシロウが腫瘍しゅように侵されなければいけなかったのだろう。風呂で洗っているときにしこりを見つけ、背筋が凍った。すぐに病院に連れていき、診断を受けた。検査の結果、リンパ腫だと告げられた。現代の医学では手術を受けても根治こんちに至らず、症状の緩和が治療の目的となるという。

 私が悪いのだ。仕事の些事さじにかまけて、この子の世話をおろそかにした。後悔とともに、シロウと残された日々を静かに過ごした。抗がん剤治療と食事療法を続けて、あの子は二年を生きた。

 シロウの最期を看取った私は、生きる気力が消え失せてしまった。

「――それが、あんたの手放せない想いか」

 声がした。くらい樹海の中で中年の男がシロウの赤い首輪を握り、佇んでいる。丸眼鏡の下に表情が隠され、その面貌は得体の知れない鳥類にも思えた。

 死後硬直した四肢が動いた。宙に吊り下げられたまま、ぎこちなく手を伸ばす。止めて、それをらないで。

「そうだ」

 冷徹な声音が告げた。

「それほどまでに大事なものでなければ、意味がない」

 枝と首をかろうじて繋ぎ止めていた犬のリードが、完全に切れた。



 丸眼鏡の男は、木の下に落ちた女性の首吊り死体を見下ろしていた。懐中電灯で照らすと、その細い首には飼い犬の散歩に使っていただろうリードが巻きついている。このか細い紐で成人女性の体重をよく支えられていたものだ、と妙な感心の仕方をする。

 もう女性の声は聞こえない。

 ここから先は自分の管轄ではない。事務所に連絡すれば、別のスタッフがこの死体を回収しに来るだろう。きっと憐れみながら、泣きながら丁重に運ぶのだろう。

 男は不思議でならなかった。そこまで悲しいなら、この仕事を辞めてしまえば良いのだ。なのに、いつまで続けるのだろう。

「いつまで、いつまで――」

 赤い首輪を握り締めた彼は、何度も繰り返した。

 樹海の中で大きな羽音がした。黒い影が上空へと飛び去り、そこにはもう制服の男はいなかった。残されたのは女性の亡骸と、黒い羽根だけだった。

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