いつまでの森
@ninomaehajime
いつまでの森
樹海で首を吊った。
よく育った赤松の枝に首吊りのための道具を結んだ。地面から少し浮かんだ根を足場にし、首をくくったまま飛び降りた。ちょうどブランコの要領で体が揺れ、行き場を失くした足が空を蹴った。首に縄目が刻まれ、苦しさのあまりに喉を掻き
そのはずだった。体は動かず宙に浮いたままで、醜い死に顔を晒しているだろう。にも関わらず、まだ意識が残っている。苦しみは感じない。腐敗が始まらず、絶命直後の状態を保ったまま首を吊っている。
大いに戸惑った。話が違うと思った。死ぬまでの苦痛を乗り越えれば、楽になれるはずだった。なのに、現実は指先一つ動かせず、樹海に魂が取り残されている。死体かどうか判断に迷っているのか、虫が服の下を這っても死肉を
日が昇り、また沈む。
どちらにしろ、生きた人間が偶然通りかかる可能性は皆無に等しかった。ここまで来るのに使ったレンタカーなら発見されるかもしれない。その借り手が失踪しているとあれば、警察は捜索してくれるだろうか。ごくわずかな可能性が実を結ぶまで、正気でいられるか自信はない。
ここは光が遠い。折り重なる枝葉に阻まれて、奈落の底にいる心地がした。このまま枝にぶら下がって風に揺れ続ける。そのたびに、頭の上で
誰か助けて。この叫びが届くことはないだろう。喉が圧迫されて声が出ない。時折野生動物が通りかかっても、すぐに逃げていくだけだ。樹海のあちらこちらに穴を空けているという溶岩洞窟を通って、
幾日過ぎただろう。今は夜だろうか。ねじくれた
漫然と思考をしていた私は、木立に揺れる明かりに気づくのが遅れた。靴底で小枝を踏みつけて砕ける音。誰かが近づいてくる。信じ難い思いだった。
お願いします。私は必死に願った。夜の樹海を訪れる人間などまともなはずもない。それでも一筋の光明に
「そんなにがならなくても聞こえてるよ」
面倒臭そうな男性の声が聞こえた。懐中電灯の明かりが夜を裂いた。死に顔を照らされて、瞳孔が開いた目に光が沁みる。
「あんた、いつまでそうしているつもりだ」
私の眼前に現われたのは、制服を着た中年の男だった。
どこかに所属している職員だろうか。枯草色の地味な制服を着ていた。制帽を被り、丸い眼鏡をかけている。軍手を嵌め、その手には懐中電灯が握られていた。黒い長靴を履き、ちょうど私が足場にした木の根に腰を下ろす。
「あんたさ、誰にも見つからないところで死ねば迷惑がかからないと思ったんだろ。よくあるんだよね。こうして探しに来る身にもなってほしいよ」
急に現われた四十代ほどの中年男性は、女の首吊り遺体を前に愚痴り始めた。私は戸惑った。その振る舞いはまさしく狂人の
「ああ、聞こえてるよ。うるさいぐらいにね。あんた、樹海に入る前に看板は見なかったのか」
耳に指を突っ込んで、痩せた中年男性は言った。懐中電灯に晒された私の死体は、ちょうど小首を傾げていただろう。
「『あなたの心の隙間に寄り添います』……自殺防止のために設置された看板だよ。あそこに電話してくれたら、うちのスタッフがすっ飛んでいったんだがね」
思い返せば、錆が浮いた立て看板を見た気がする。まるで怪しいセミナーの誘い文句だと思った。
「そう言ってくれるなよ。うちの熱心なスタッフが必死に考えたんだ……まあ、センスがないのは同感だがね」
片頬を歪ませる。
改めてこの奇妙な状況を不思議に思った。夜中の樹海で、首を吊った女の死体とくたびれた中年の職員が向かい合っている。当事者ながら、頭の中で疑問符が飛び交っていた。
どこかで
「そりゃ悪いね。喫煙者には肩身が狭い世の中で、こうしたときしか満足に吸えないもんでね」
口から煙を吹かす。
「さて、そろそろ規定に従って説明しようか。まず、あんたは死にぞこないだ」
いきなり大概な物言いだった。こちらの
「あんたもどうして死に切れないのか、不思議に思ってたろ。たまにいるんだよ、あんたみたいに死にぞこなって、魂がその場に留まり続ける
面倒なことにね。どうにも一言が多い。あまり好きになれない男性だと思った。
「そりゃどうも。こちらも別にあんたに好かれようとは思ってない……自分の考えが伝わるのがそんなに不思議かい。意思疎通ができなけりゃ仕事にならないからな」
指で挟んだ煙草をこちらに差し向ける。
「俺のことはどうでも良いんだよ。問題はあんただ。いつまでもこの世に留まられちゃ困るんだ。だから、きちんと死んでもらわないといけない」
まるで悪役の台詞だ。その皮肉が面白かったのか、中年の男は丸めた背を揺らす。
「引導を渡しに来たんだから、ある意味間違っちゃいないな」
ひとしきり笑った後、丸い眼鏡を向けた。その奥の眼差しは光を反射して、よく見えない。
「あんたが上手く死ねないのは、未練があるからだ。それを取り除かない限り、この世に魂が残り続ける」
私の未練とは何だろう。そんなものが残っていれば、この場で首を吊ってなどいない。男は制帽の上から頭を指で叩く。
「それもそうだ、
未練と何が違うのだろう。私にはわからなかった。
「人間にとって何が大事なのか、俺にもよくわからんよ。とにかく、あんたにはそれがあるはずだ。その想いを奪ってしまえば、あんたは晴れて死ねる」
妙な物言いもあったものだ。想いを奪うとはどういうことだろう。私は眼下に座る男を見下ろした。懐中電灯を片手に、煙草を指に挟んでいる。
「まあ、とにかく話してみなよ。どうして首をくくるに至ったのか、その経緯をさ」
指先の煙草を振り、居酒屋で相談に乗る程度の軽い口調だった。私はまるで気が進まなかった。自殺を決意した理由を、この軽薄な男に話してどうなるのだろう。
制帽の男は笑い声を上げた。
「軽薄とは言ってくれるね。だがその理由を教えてくれなきゃ、あんたはいつまでも宙ぶらりんだぜ」
こちらを見上げた表情は口の片端を吊り上げ、
「それともここで永遠に死にぞこなうつもりかい。いつまでも、誰にも見つからないままさ」
明らかな脅し文句だった。赤松の枝に全体重を乗せながら、渋々といった心地で自殺した事情を思い返す。丸眼鏡の男が握る懐中電灯の光は、なぜか枝と首を繋ぐ空間を注視していた。
首の上で、少しずつ紐の繊維が千切れる音がした。
数年前、私は上京した。
大手とは言わないまでも、中堅の会社に就職した。事務職に就き、仕事に励んだ。社会人としての生活は思ったより順風満帆だった。最初こそ失敗が続いて先輩に叱られたけれど、同時に支えられもした。少しずつ新人という意識が抜けていった。
風向きが変わったのは、元いた上司が定年退職してからだった。新たに管理職に就いた男は経営者の縁者か、比較的若く、ただ横暴だった。社員の失敗を許さず、自分の意向が絶対だった。発注を間違えた社員を全員の前で怒鳴り散らし、結果としてその人は来なくなった。
おそらく私もそうするべきだったのだろう。何が気に入らなかったのか、その男に目をつけられた。仕事に難癖をつけられ、重箱の隅をつつかれた。失敗を犯そうものなら、鬼の首を取ったかのように皆の前であげつらわれ、社会人失格の
悪循環で今までできていたはずの仕事が上手く行かなくなった。職場の雰囲気は最悪で、厄介事に関わりたくなかったのか私の味方はいなかった。
簡単には転職先は見つからず、途方に暮れた。精神的に追い詰められ、思考が暗い方へと転がっていた。家で過ごすひとときだけが、その感情に蓋をしていられた。
大きな不幸があった。仕事に見逃しがあり、上司から罵声を浴びせられているあいだも耳には入らなかった。もういいや。心を支えていた軸が、不意に折れてしまった。
死ぬなら一人が良かった。できれば死んだことも悟られないまま、社会から静かに消えたかった。首吊りに必要な道具を用意し、樹海へ向かった。
後は、このざまだ。
溶岩洞窟を群れが通り抜けたのか、蝙蝠の鳴き声がけたたましく響いた。樹海の中へと立ち返る。足元を見下ろすと、制服の男は退屈そうに
何なのだ、この男は。言われた通り胸中を明かしたというのに、この態度があるだろうか。こちらの怒りが伝わったのか、私の首吊り死体を見上げる。
「ああ、悪いね。こういう仕事をしていると似たような話ばかり聞くもんだからさ、どうにも眠くなっちまう」
声帯が動いても絶句したことだろう。死に
「人間、ね」
何がおかしいのか、丸眼鏡の男は笑う。指に挟んだ煙草の煙をくゆらせた。
「俺からしてみれば、おかしいのはあんたたちさ。そんなに嫌だったならどうして
まるで動物の縄張り争いのような言い方だ。人間の社会はそこまで単純ではない。私は腹が立って仕方なかった。この男には、人の心がない。
「うちのスタッフからもよく言われるよ。でもさ、あんたも悪いんだぜ」
懐中電灯を顔面に浴びせられる。表情筋が機能していたなら、顔をしかめていたことだろう。
「あんたの話には、肝心なところがすっぽり抜け落ちてるだろう」
何の話だ。怪訝に思うと、丸眼鏡の男は言葉を重ねた。
「最初から気になってたんだよ。あんた、何でそんなもので首を吊ったんだ。ホームセンターで長くて頑丈なロープを購入すれば良かったろうに、今にも千切れそうじゃないか」
この男の言っていることがまるでわからなかった。彼は立ち上がり、長靴の底で煙草の火を踏み消した。大の男がこちらに近寄ってくるのを見て、生理的な嫌悪感を覚えた。
「死体をどうこうする趣味はないよ、っと」
浮かんだ足のつま先の下で、中年の男は何かを拾い上げた。軍手でそれを握り、私の眼前で振ってみせた。
「首を吊る間際まで握っていたんだろう。こんなものが、そんなに大事だったのかい」
開いた瞳孔に映ったのは、赤い犬の首輪だった。
どうして忘れていたのだろう。私にはかけがえのないものがあった。
降りしきる雨の日だった。仕事から帰ると、玄関のドアの前で白い子犬が蹲っていた。捨て犬だろうか、全身がずぶ濡れで薄汚れている。こちらを見上げる眼差しは弱々しく、全身が震えていた。
「あんたは、その子犬を家に入れた」
そうだ。このまま放置すれば、保健所に連絡されるかもしれない。だから家に入れて、濡れた体をタオルで拭いてやった。よほど衰弱していたのだろう。子犬は抵抗しなかった。小皿に牛乳を入れて差し出した。鼻をひくつかせ、舌を出して飲んだ。
近所の動物病院へ連れて行った。命に別状はなく、十分な食事と水を与えれば回復するだろうと言われた。ただ、獣医師から苦言を呈された。
「その子を飼う気がないなら、情が移る前に手放した方が良いよ」
その通りだった。最初は里親に出そうかと考えた。貸家で暮らしており、大家は良い顔をしないだろう。一晩、子犬を毛布にくるませて過ごした。あどけない寝顔を眺めて、不思議な心地になった。
上京して一人暮らしに慣れたとはいえ、孤独感はあった。例の上司がやってくるまではそれなりに人間関係は良好だった。ただ仕事上の関係に過ぎず、地方を飛び出して遊び慣れていない自分には友達らしい友達もいなかった。朝方、頬を舐められて目が覚めた。少し元気を取り戻した子犬の顔がすぐ近くにあり、くすぐったかった。
「で、結局その子犬を飼うことに決めたわけだ」
大家との交渉はやはり苦労した。難色を示され、動物を飼うことのあらゆる不都合さを説かれた。こちらの熱心な説得の末、渋々といった態度でようやく許可が下りた。大きな吠え声を上げさせるなどの近所迷惑になることは避け、できる限り物件を傷つけないこと。これらの条件が守られない場合、立ち退きを覚悟しなければいけなかった。
幸い子犬は大人しい気質で、滅多なことでは吠えなかった。赤い首輪を与え、その毛並みからシロウと名づけた。私たちの共同生活が始まった。
想像以上にペットを飼うことは大変だった。例の動物病院で飼い犬の登録を行ない、狂犬病などの予防接種を受けなければならなかった。病院でかかる費用は勿論、朝に早起きをし、残業で疲れ果てて帰った晩にも散歩に連れていった。
だけど、一人きりで過ごす時間よりもずっと充実していた。名前を呼べば、尻尾を振って反応を返してくれる。シロウはすくすくと育ち、立派な白い柴犬となっていた。職場の環境が激変してからも、心身ともに疲弊した私を慰めてくれたのはあの子だった。
「だが、大きな不幸があった」
ああ、どうしてシロウが
私が悪いのだ。仕事の
シロウの最期を看取った私は、生きる気力が消え失せてしまった。
「――それが、あんたの手放せない想いか」
声がした。
死後硬直した四肢が動いた。宙に吊り下げられたまま、ぎこちなく手を伸ばす。止めて、それを
「そうだ」
冷徹な声音が告げた。
「それほどまでに大事なものでなければ、意味がない」
枝と首をかろうじて繋ぎ止めていた犬のリードが、完全に切れた。
丸眼鏡の男は、木の下に落ちた女性の首吊り死体を見下ろしていた。懐中電灯で照らすと、その細い首には飼い犬の散歩に使っていただろうリードが巻きついている。このか細い紐で成人女性の体重をよく支えられていたものだ、と妙な感心の仕方をする。
もう女性の声は聞こえない。
ここから先は自分の管轄ではない。事務所に連絡すれば、別のスタッフがこの死体を回収しに来るだろう。きっと憐れみながら、泣きながら丁重に運ぶのだろう。
男は不思議でならなかった。そこまで悲しいなら、この仕事を辞めてしまえば良いのだ。なのに、いつまで続けるのだろう。
「いつまで、いつまで――」
赤い首輪を握り締めた彼は、何度も繰り返した。
樹海の中で大きな羽音がした。黒い影が上空へと飛び去り、そこにはもう制服の男はいなかった。残されたのは女性の亡骸と、黒い羽根だけだった。
いつまでの森 @ninomaehajime
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