ボーアの鏡

宮原知大

時限爆弾

「小説コンクール。マジで応援してんだからな?頑張れよ。」

「ありがと。」田所君からの激励に期せずして口元がほころぶ。

「大庭が受賞したら俺もついでに有名になれそうだしな。俺、あの大庭葵の幼馴染なんですよーって言える。俺の株も上がるんだから絶対優勝してほしい。」

「エゴじゃん。喜んで損したー。てか、今執筆中。集中力途切れるとまずいんだよ、何か用事?」

「あ、そうそう明日の花火大会鈴木と加藤も来るってさー。OK?」

 えー。

 心の中では拒絶しながらも口では全然OKだよー、と言っている。ちぇ、鈴木に加藤。ちょっとは空気読んだらどうなんだ。

「じゃ、また明日。4時な?忘れんなよー。」


 切れた通話画面をスワイプして執筆作業に戻る。

 ―…花火大会、か―

 そういえば私が田所君と初めて話したのも花火大会の日だった。

 あの日、私は中学受験の塾に行っていた。そのお陰で花火の開始時刻に間に合いそうになかったのだ。

 それでも息を切らしながら会場に向かおうとする道すがら、ゆっくり歩いている田所君に会った。あの時は小学校のクラスも違ったし、全然話したことなかった。

「何してるの?」急ぎ歩きをしながら聞く。「何?って、花火大会に行くだけだけど。」「花火大会?じゃあ急がなきゃじゃん、もう始まっちゃうよ?」


「ところがそうでもないんだな。」

 田所君の口元に浮かぶ、不敵な笑み。

 そのまま彼は花火大会の会場とは真逆の方角へ歩いてゆく。

「ちょっと、そっちじゃないって…」「特等席があるんだよ、来る?」


 半信半疑ながら、今更急いだところで間に合うというものでもなさそうだった。


 田所君の後ろ姿についていくとやがて小さな町工場にたどり着いた。驚く私を尻目に田所君はさびれた工場を悠々と歩いていく。「ちょっと、私有地じゃん。」

「うん、まーね。でも管理人がぐうたらしてるお陰で全然見つからないんだ。俺の秘密基地。」

 なにそれ、と言いながら気が付く。八王子は凸凹だらけの町でここは高い大地のへり。確かにここからなら川辺の花火はすごくきれいに見えそうだ。

 でも…「ここが特等席?周りの木が邪魔で花火、見えないよ。」

 田所君はまた微笑む。「ここじゃない、あそこ。」彼が指さしたのは直径1メートルぐらいの煙突の上だった。高さは5,6メートルはあろう。「本気!?てかなにこれ」

「焼却炉だよ、毎日朝六時くらいにここの業者が使うんだけど他は用無しでさ、お前も一緒に登ろうぜ。」

 ―この町に焼却炉なんてあったんだ。

 なに馬鹿な事言ってんのよ、って言いながらもついて行ってしまう、私も勉強ばっかりの日々に疲れていた。

 小型焼却炉には工事点検用の梯子がついていて、上るのは思ったより楽だ。煙突の先には傘のように鉄の覆いがついていて、ギリギリだけど二人座れる。


「すご、めっちゃきれい。」眼下には宝石を散らしたような夜景が広がっていた。闇の中に、どこまでも。


「だろ?」田所君は自分の手柄みたいに嬉しそうだ。

 ほどなく花火が始まる。


 町の花火大会だから、大して大規模でも、壮大でもない。

 一つ、花火がひゅうと打ちあがってパチリと弾ける。次の花火までに少し間があって

 また、ひゅう、パチリ。

 形式的で、ありがちな夏の風物詩。


 …でもなぜだろうか。今まで見たどんな景色よりも、美しかった。



 ―あと三千字。

 パチン。卓上ライトを消すと小さな私の部屋に闇が満ちた。

 肩を回して、原稿用紙の端を揃えていると文字が読めることに気が付いた。窓から青白い光が差している。月の明るい夜だった。

 電灯の消えた私の部屋に、入れ替わるように月影が颯と差す。振り返れば影法師が黄昏時みたいに長く伸びていた。ドアのほうまでずっと、ずっと。

 窓の隙間から吹き込んでいた夜風が、ふっと凪ぐ。


 何だろう、あれ。


 静寂の中で、私の影法師の向こうに一冊、本が落ちている。

 椅子を立って近づくと雨上がりに本を読む女性の横顔の描かれた雑誌があった。

「小説大洋」

 手に取るとずしりと重い。月明かりに照らされ、うら若い女性の顔がふっとこっちを向いた…ような気がした。この雑誌…。そういえば去年のコンテストの受賞作品でも研究しようかと思って取り寄せたのだ。

 ―あれ…こんなところに片付けたっけ。―

 何かの拍子に落ちてしまったのだろうか。表紙の表面を手で撫ぜると、霧雪のように埃が舞う。月光を返照しながら続くはずのその降下が…突然止まる。


 風が吹いている。つい先ほどまで凪いでいたのが嘘のようだ。

 瞬間。思わずして、首筋が凍る。夏には似合わない冷たい風だった。風に吹かれてページがパラパラとめくれて行く。私は我に返って風を吹き込む窓へ向かい、ぴちりと閉めた。


 ふと見れば、片手の雑誌は小説の紹介ページを開いていた。




「ボーアの鏡」作者は宮原知大。


 …

「小説コンクール。マジで応援してんだからな?頑張れよ。」

「ありがと。」田所君からの激励に期せずして口元がほころぶ。

「大庭が受賞したら俺もついでに有名になれそうだしな。俺、あの大庭葵の幼馴染なんですよーって言える。俺の株も上がるんだから絶対優勝してほしい。」


 …


 4行読み進めたとき違和感を覚えた。

 今さっきの自分を思い出す。田所君と話していた私。田所君の言葉に思わずにやけてしまった私。胸騒ぎがして、ページを数枚繰る。


 …

 4行読み進めたとき違和感を覚えた。

 今さっきの自分を思い出す。田所君と話していた私。田所君の言葉に思わずにやけてしまった私。胸騒ぎがして、ページを数枚繰る。


 …


 その文章は、今、私が思ったことと全く同じ。

 鼓動が早くなる。「4行読み進めたとき違和感を覚えた?」…なぜこの小説は私が思ったことを知っているの?


 …

 鼓動が早くなる。「4行読み進めたとき違和感を覚えた?」…なぜこの小説は私が思ったことを知っているの?

 …


 …!

 思わず雑誌を閉じた。

 思考が混濁する。思わず窓際に駆け寄り、部屋中のカーテンを閉めてしまった。

 ―ストーカー?誰かに監視されてる?

 ―夢?もしかして私、ちょっと疲れてる?


 真っ暗闇の中、卓上ライトをつけ直す。

 こんな妙なことが起きるなんて。

 …1年前の小説コンテストの受賞作品が今の私自身を描いているなんて、そんなことはまず間違いなく、ありえない。ありえないはずだ。

 頭を何度も振って目を覚ます。光源の下、目を瞬いてから雑誌の元のページをもう一度開く。


 …

 思わず雑誌を閉じた。

 思考が混濁する。思わず窓際に駆け寄り、部屋中のカーテンを閉めてしまった。

 ―ストーカー?誰かに監視されてる?

 ―夢?もしかして私、ちょっと疲れてる?

 …


 夢じゃない…、やはり間違いない。この小説は確かに私を描いている。

 そう思うとさっきとは違う、嘔吐前の悪寒のようなものに襲われた。


 でも…なぜ?私が今何を考えているのか。そんなことはこの本が印刷されたときには分からないはずのことだ。この小説は活字媒体、ネット記事みたいにすぐに書き換えたりすることはできない。分からないことは書けないはず…。


 でも…なぜ?私が今何を考えているのか。そんなことはこの本が印刷されたときには分からないはずのことだ。この小説は活字媒体、ネット記事みたいにすぐに書き換えたりすることはできない。分からないことは書けないはず…。



 ―…誰かと話したい。―

 こんなに人の声が聞きたくなったのは初めてかもしれない。

 ともかく無性に不安で、どうしようもなかった。

 家族の名前が浮かび、すぐに消える。そうだ、今日家族は出張でいないのだ。

 どうしてこんな時に限って、と思いながらスマホを手に取る。私の話を聞いてくれそうな人…スマホをスクロールする指が止まる。

 田所君…。

 ―いや、さっき電話したばっかじゃん。―

 そんな気もしたが、逆に夜遅くに電話してまともにこんな妙な話を聞かせて大丈夫なのは幼馴染の彼だけだということにも確信があった。

 しばらく迷ってから、結局受話器のマークを押す。



「もしもし?どうしたの?さっき用事は話しただろ?暇電なら切るぞー。」

 いかにも眠たいといった口調で田所君は言う。 

「お願いちょっと聞いて、私、今凄い変なっていうか、怖い本を見つけちゃって…」

「怖い本?」

 田所君はちょっと笑って言う。

「お前どうしたんだよ、ホラー映画とかそういうの得意って昔言ってたじゃん。あ、もしかして強がりだったか?」

 スマホの向こうから笑い声が聞こえる。

「そういうのじゃなくて…ねえ、ほんとに変なの…。」

 私の声を聞いて笑い声が止まった。

「えっと…どういうこと?」

 私は一つ深呼吸をして通話をビデオ通話に切り替える。

「…この小説、私のことを書いてるみたいなの。」

 ボーアの鏡の一ページを見せながら言うと、田所君は苦笑いするような、何とも言えない顔をした。小馬鹿にしようか驚こうか、迷っているのだろう。

「嘘だと思うのは分かる。でも…これ見て。」

 私は「もしもし?どうしたの?」から始まる一連の文章を画面越しに見せた。自分が思い違いをしているかもしれない、なんてことはもうどうでもよかった。

 彼が「何だよ、全然普通の小説じゃん!」と言ってバカにしてくれたら、むしろそれで良かった。

 しかし、暫くの沈黙の後こちらへ向き直った彼の顔は、明確に引きつっていた。

「確かに、俺の言った言葉だ。」

 田所君はしばし押し黙るようにして考えてから、もう少し先も見せて、といった。


 …

「嘘だと思うのは分かる。でも…これを見て。」

 私は「もしもし?どうしたの?」から始まる一連の文章を画面越しに見せた。

 …


「でもさ、その小説って印刷された物じゃん?何で俺の言うことがあらかじめ書かれているんだ?」

 そう、問題は何で私の思うことがあらかじめ書かれているのか、だ。私達には自由意思がある。それはこんな小説で縛れるものではないはずだ。

「ねえ、この今の私たちの会話の数行後にさ、ほら『なあ、大庭、お前その物語の先、読んだのか?』って田所君の言葉がいきなり書かれているんだけど、これ、言わないようにできない?」

 画面の向こうで田所君が手を打つ。

「あ、なるほど、やってみるよ。てかさ、田所君って呼び方やめろよな、幼馴染じゃん。」

「男子には平等に君付けなの、そんなことより…」

 そのときだった。画面をのぞき込む田所君の目が突然何かに気が付いたように見開かれた。その視線はボーアの鏡に注がれている。こちらに向き直り、絞り出すように、言う。

「大庭、お前、その物語の先、読んだのか?」

 田所君の一言に、私はハッとする。この物語の先…。

「まだ読んでないけど…私の未来って全部ここに書かれてるってことだよね。それって、もしかして…」

 何か気が付こうとしていたことを口に出そうとするよりも先に思い出す。

「ねえ、私達、何か忘れてない?」

 数行前を読み返して気が付く。


 …

「ねえ、この今の私たちの会話の数行あとにさ、ほら『なあ、大庭、お前その物語の先、読んだのか?』って田所君の言葉がいきなり書かれているんだけど、これ、言わないようにできない?」

 …

 二人ともそんなに馬鹿ではなかったはずだ。なのにどうして、忘れていたのだろう。

「ラプラスの悪魔…。」

 頭を抱えながら田所君は何かを懸命に考えている。

「大庭、とりあえずまず雑誌を出した会社に電話を掛けて、何とか宮原知大の連絡先を教えてもらうんだ。この小説のトリックについて明確な答えを持っているのは作者の宮原知大しかいないと思う。ああ、あと、一つお願いがある。その小説の先をちょっと俺に読ませてほしい。そう、画面に映してくれればいい。」

 スマホの前で私は雑誌のページを捲っていく、活字の列がどこまでも並んでゆく様子が無性に怖くて私は目を背けていた。見る勇気がわかない。

 暫く液晶板の向こうへ小説を見せていると、最後のページまで行かないうちに「あ…ありがとう」と田所君が言った。


 再びこちらへ向き直った彼の顔は青ざめ、何か…強い衝撃を受けたように見えた。

「ごめん、あの…。俺、探し物してくるわ…またな!」

 唐突に田所君が言う。

「え、またな?えっ、ちょ…」

 戸惑う間もない。聞き返そうとする頃には通話が途切れていた。

「…何なの。」

 掛け直そうかとも思ったが、やめる。

 彼はボーアの鏡を読み、そして電話を切った。

 彼は一体何を読んだのか、一体…。

 そうだ、この小説の後半には私の未来が書かれていて、彼はそれを読んで”何か“に気が付いたのだ。

 唾を飲み込む音が、ごくりと静寂に響く。

 それでも私はもう一度、雑誌に触れる…。


 …

「…やめて!」私は叫ぶ。しかし彼は鉄パイプを構えた。振り上げられた鉄パイプが一厘のためらいもなく私の頭に向かって振り下げられる。体を捻るが間に合わない。

 ―だめだ…―

 …

 煙突が見える。私の視界はぼんやりとかすんで、やがて何も見えなくなる。すべてが遠のいてゆく感覚…。

 …

「田所君…何で?」

 …


 目を瞬く。どういうことかわからない、私、私が…?

 眩暈がする。

「うそ!」

 かろうじて私はページを繰ってもともと開いていたところへ戻った。このまま読んだら気が狂いそうだった。

 ―私が、死ぬ?―

 そうか、そういうことなのか…。

 私の未来が続いているはずのこの小説は、小説コンテストの制限文字数から考えて長くてあと数万字で「終わる」ということ。


 そして、私の未来が全部ここに書かれているとするなら、この小説の終わりが意味するところ。それはおそらく…私の人生の終わり。

「死ぬ…ってこと?」

 口に出すとその事実の重みと果てしなさが同時に理解された。死ぬ。遠くにあったその言葉が今、私ののど元に突き付けられている。


 ―やだっ―


 雑誌の裏表紙には文究社の文字があった。急いで電話番号を検索する。


「はい、文究社の高橋です。」

 受付係の女の人はかなり眠そうだった。

「こんにちは、大庭葵って言います。小説大洋という雑誌に、文究社で行われた小説コンテストの作品が掲載されていて、それが『ボーアの鏡』という名前なんですけど、これが、何というか私の…」

「ボーアの鏡?」高橋さんが動揺した声で聴く。

「ボーアの鏡に何か?」

 今度は彼女の方が落ち着きがない。

 彼女によれば、ちょうど今朝、宮原知大を名乗る男が電話をしてきたという。

 彼は「もし、ボーアの鏡のことで相談してくるような人がいたら、自分の電話番号を教えるように」と伝えてきた、とのことだった。

 彼女は口早に宮原知大の電話番号を告げるとそそくさと会話を打ち切った。「なんで宮原知大は…」私が聞き返そうとする頃にはもう、電話は切られていた。


 宮原知大の電話番号を打ち込み、受話器のマークを押す。なんとしてでも彼に問い詰めなければならない。

 3,4秒の間があって、宮原知大が出た。

 まさか一度の電話で出るなんて思ってなかったから、心臓が大きな音を立てた。どんな人物なのだろう、恐る恐るスマホを耳に寄せる。スマホの向こうから聞こえてきたのは…静寂だった。

「もしもし、こんにちは、宮原知大さんですか?

 私、大庭葵って言います。貴方の書いたボーアの鏡という小説について、質問したいことがあって…」

 通話の向こうで、鉛筆か何かを走らせる音が聞こえた。暫くの沈黙が流れる。

「あの…」

「宮原です。こんばんは。随分遅かったですね。」


 …遅かった?


「質問したいことは大体わかります。例えば…そうだな、ボーアの鏡が終わるときその読者がどうなってしまうのか、とかでしょうか。」

 背筋がぞくっとする。

「どうなってしまうんですか…?」

「僕に電話する以上何となくのだとは分かっているのだと思いますが…あなたの意識そのものを描く『ボーアの鏡』にとって、書くことができない状態になります。」

 平坦な言葉が無造作に私を貫く。

「つまり、死ぬ、ということですか?」

「うーん、端的に言うとそうですね」

 唾をごくりと飲み込み、宮原の前で取り乱してはいけないと自分に言い聞かせる。彼を刺激して万が一怒らせでもしたら一巻の終わりなのだ。

「それで、どうしたら助かることができるんでしょうか。…教えて下さい。」

「はは、もちろんあくまで一手段ですが教えることはできます。そのために電話番号を伝えるよう言っておいたんです。

 ただし。今日今ここで伝えることはできません。」

 顔の筋肉がこわばるのを感じる。

「なぜ?」

「まず一つ、私はあなたに直接会って取材をしたい。もう一つ、電話の回線というのは予想以上に筒抜けなものだから…要するに、盗聴されやすい。これはちょっとした発見でしてね、念には念を入れたいといいますか。」

 私が何も言わないのを確認してから宮原は続けた。

「ですから明日、あなたが不安ならなるだけ早い時間に実際に会いましょう。最寄り駅はどこですか?」

 これは一種の交換条件なのだと気づいた。


 南八王子、というと宮原は「それは近くてよかった。」と笑って言う。

 駅のそばに小海屋というお店があるのでそこで会いましょうと伝えて、待ち合わせ場所が決まった。

「忠告だけれども。明日まで絶対にその小説をこれ以上読まないで下さい。あと考え事もやめたほうがいい。すぐに寝ることです。貴方が何か考えるごとにその小説はどんどん進行してしまう。…考え事をしながら死ぬ、なんていやでしょう?」

「それはわかりました。で、でも…この小説から、そう、脱出する方法はちゃんと存在しているんですよね?」

 私が念押しで聴くと、明瞭だった宮原の口調が急に濁った。

「これまでの事例から推察し、最もそれらしい方法を試します。」

「これまで?」私は思わず食って掛かった。

 これまでもボーアの鏡の「被害」にあった人たちが存在したというなら、彼らは一体どうなったというのだ。…みんな助からなかった、とでもいうのだろうか。

「ええ、この際正直に言いましょうか。確かにあの小説をまともに読了して生き残った人を私は知らない。確かにボーアの鏡の終わりは文字通り、読んだ人自身の『終わり』だ。しかし方法はあるはずなんです。」

 気まずい沈黙がスマホ越しに流れる。


 そのまま宮原知大は通話を切り。室内に再び静寂が還る。

 はあ。思わずため息が出てしまう。

 よそよそしい三畳間の天井を眺めながら、さっき読んでしまった小説の断片を思い出した。振り上げられる鉄パイプ…。私は猛烈に不安になって、父の部屋へ入り、サバイバルナイフを見つけた。物々しいけど、護身の道具にはなりそうだ。リュックサックを持ち出して、奥のポケットに入れる。

「ボーアの鏡にとって、書くことができない状態になります。」と宮原は言った。


 私は本当に死んでしまうのだろうか。あれは、私の死の描写なのだろうか。私は死ぬのか。死ぬってどんな感じなのだろう、死ぬって…。

 …だめだ、到底眠れそうにない。

 そういえば、と、不眠症のお父さんが睡眠薬を棚にしまっていたことを思い出す。

 リビングの奥の棚。黄色い瓶に、白い錠剤が入っている。自分の部屋に持って帰ると暗闇の中で滑らかなカプセルが小さく光った。一粒取り出して、飲み込む。薬瓶は一応リュックに入れておくことにした。

 ―使用直後幻覚、服用後数分で副作用として直近数日の記憶に関する薬物性健忘の恐れあり、一日1錠、か―


 そのとき私の頭に何かがひらめいた。

「ボーアの鏡」考えてみれば不思議なタイトルだ。何をモチーフにしたのだろう。

 頭の中で「ボーア」という言葉を検索する。そういえば高校で「ボーア戦争」という戦争があったのを習った気がする。でもあの小説がその戦争と何か関係があるとも思えなかった。

 ならば「ボーア」とは、誰か人の名前なんじゃないだろうか。

 ちょっとした天啓を得てスマートフォンを開く。闇の中に液晶体の放つ不愛想な光が浮かび上がる。

 いくつかの検索候補の中に、それらしいものを見つけた。「ニールス・ボーア」。

 デンマークの物理学者だった人物だ。「量子力学」という不思議な学問を創設した人物の一人であるようだった。

 難解そうな紹介サイトを覗いてみれば、案の定意味不明、奇怪を極める数式が並んでいて目がくらむ。書いてある内容も量子縺れだのなんだのよくわからなかったけれど、最後に書いてあった文章が私の心を引き付けた。

「量子力学の世界において、我々の世界の常識は通用しないのだ」

 やはりあの小説のタイトルはニールス・ボーアという人にちなんでつけられているのだ、と確信した。私達の常識の中で、あんな妙なものは存在しうるはずもない。

 量子の世界では、現実の在り方というのは必ずしも一定ではない。と、そこには書かれていた。それは、他の物との相互作用によって、その時々において「決定」されるものなのだという。どうにも納得しがたかったし、それがこの小説となんのかかわりがあるのかも推察しがたかった。けれど、「その時々」という言葉が頭の中でこだまする。その時々において…つまるところ現実とは必ずしも一定ではない。とするなら未来もまた一定ではないはずで。それを一つの物に限定するためには…そうか。何か…。


 しかし、それが明確な形をとる前に急速な眠気が襲ってくる。例の睡眠薬の効き目は私の予想を超えて強かった。

 吸い込まれるように、私は眠りに落ちていった。



 翌日、小海屋の前にたどり着いたとき、そこにはすでに一人、小柄な青年が立っていた。こんなに暑いのに薄手のコートのようなものを着て、眼鏡をかけている。

「宮原さんですか!?お待たせてすいません。」

 荒い息の私が声をかけると

「いえ、私もちょうど来たところですから。」

 と涼しい声で言う。その言葉に嘘はないようで、首筋には全然汗が浮かんでいない。昨日の電話と言い、まるで私の行動を見透かしたみたいだ。

「さ、中で話しましょう。」言ってから少し空を仰いで、彼は一つ咳払いをした。

「…てか、同い年なんだから普通の口調で話さない?」彼の提案に少し面食らう。

 でも同時に、少しほっとしている自分がいる。


「この小説は量子力学に着想を受けて書いたんだ。…論理のみでこの効果を創り出すには随分苦労したけどね。」

 他には誰も客がいない店内で宮原は言った。

「量子力学?!」その言葉に目を見開く。

 ―やっぱりそうだったんですか。―

 という言葉が口をついて出てきそうになったが必死でこらえた。

 なにしろ宮原知大はこの小説を明確な意志を持って書いたのだ。…おそらくは、それが人を殺しかねないということも知った上で。

 手の内を明かすわけにはいかない。

「そう。二重スリット実験、って知ってる?」

 私が首をかしげると、宮原は両の拳をテーブルの上に出して見せた。

「僕らの世の中の物質は原子で作られてるってのは学校で習うけど、この原子はさらにもっと小さな量子によって作られている。例えば電子とかね。僕のこの指の上に一個電子があると思って。」

 宮原は左の人差し指を立てて見せた。

「二重スリット実験の要旨はこの電子を真っ直ぐ壁に向かって飛ばす。っていうものだ。」

 右手を開いて左に掌を向ける。人差し指はゆっくり左手の壁に近づいて、やがてくっつく。

「電子はただ直進して、粒子として壁に到達することになる。問題はここからなんだけど、もし僕と大庭さんがここにいないときにこの実験を行ったらどうなると思う?」

「私達が見てる見ていないに関わらず電子は直進するんじゃない?」

 宮原が小さく首を振る。

「ところがそうはいかない。実はこの状態で実験を行うと電子は波として壁に到達するんだ。つまり、私たちが電子を観測することで、電子の行動が変わる。ってこと。」

「それって…」

 ありえない、と言おうとすると宮原は手でそれを遮った。

「二重スリット実験で大事なことはもう一つある。私達に観測されていないときに電子は波の性質を見せると言ったけれど、これはつまり電子の位置や在り方に様々な可能性があるってことだ。しかし観察されるやいなや電子がどこにあるのかは即座に決まってしまう、現実の決定といえるような事態が発生しているんだ。この効果は例えば実験を行おうとしていた科学者が心の中で観察することを強く意識しただけで起こったなんて話もある。」


 私は話の筋が分からなくなって何か言おうとする。


「さてと、僕が言いたかったのは要するに、この小説も同じなんじゃないか、ということ。」

「どういうこと?」

「さっきの話は電子が、外部から観察されることで位置が一つに定まる、というものだった。この話をよりマクロな、より大きい規模の話に拡大してプロットしたのがこの小説なんだよ。つまり、君の意識といまや君と一心同体みたいな状態のこの小説を合わせて電子とみて考えるとね、それがこの小説における観測、つまり意識されないうちは電子と同じようにこの小説は『波』としてふるまうんだ。要するに君の状態はいわば決定されていない状態になる。


 そこでは君が死ぬというのは可能性の一つに過ぎない。君が生き残る未来だって、あるいはこの小説にそもそも出会わなくて済んだ世界の未来だってある。」

 宮原が指を一本立てて見せた。

「つまり、読まれて意識されるという『観測』の起こっていない限りこの小説は君の未来を決定する力なんて何も持ってないんだ。」

「ちょっと待って。」

 聞きたいことが山ほどある。

「まずその小説を読んだ人は基本的に私だけだわ。それは…一部は友達に見せちゃったりしたけど。

 さっきあなたは私とボーアの鏡は合わせて量子力学の中の電子のようなものだって言った、でもそれなら私は外部の観察者には当たらないんじゃない?」

 ほう、と宮原は言った。

「君は頭がいいね。」

 その言葉の中に皮肉のような、小馬鹿にするようなものを感じて勃然とする。ニヒルで冷たい何かがその言葉にはあった。

「そう、君がもし本当に確固たる大庭葵であるならその通り。でも僕はさっき『君の意識』って言葉を使った。ボーアの鏡はあくまで君の表層意識と同じものなんだ。例えば君はあの小説を読んだとき部屋の中をうろうろしたり不安になってあちこち見まわしたかもしれないけど、その全部がそこに書かれてたわけじゃないだろ?」

 確かにその通りだった。慌てていて気が付かなかったけれど、私の内で起こっている脳の活動だとかごく小さい感情の変化とか、意識されないものはボーアの鏡には書かれていない。

「人は誰しも意識の世界の後ろに巨大な無意識の世界を持っている。ジークムント・フロイト以来の常識だよ。

 無意識は確かに君の行動に大きな影響を与える。あるいは支配しているという点で君自身といえるが、しかし、君の意識が入り込めないという点で他人に近しい。他人でも自分でもない。観察者でありながら観察者ではない。普通の量子力学ではありえない立場に立っているのが君の無意識なんだ。その君の無意識は今、ボーアの鏡を強く意識している。ひいては君の『死』をね。それが観察効果としてボーアの鏡に作用することでそれは君の現実を一つの物に固定する。そして君は死ぬ。君はその小説通りの未来へのレールに、自ら期せずして乗り込んでいるわけだ。

 だけど君がボーアの鏡全部を観察者…他人に読ませなかったのは幸運だった。おかげで助かる道がある。

 僕の仮説ではね、君の無意識はこの小説を媒介して君の未来に影響を及ぼすことができるはずだ。この物語の登場人物が君ならば、君を操っているという点で無意識もまた登場人物。しかし同時に君自身が意識されない他者なのだからこの小説を観察者として『読む』ことができる存在でもある。…つまるところ君の無意識はいわば筆者の目線を持っているわけだ。登場人物自身は小説の流れを自分では変えられない。けれど筆者は変えられる。自由自在だ。君の無意識こそがこの小説の鍵なんだよ。

 なあ大庭さん、これは重要な戦いでもある。この小説がほんとに君の無意識に影響されているのだとしたらね、これは大きな人類の進歩になる。

 なにしろこの小説の筆者たる無意識を操作できさえすれば、望んだままの現実を全ての人が手に入れられるようになるのだから。これは僕の大義なんだ。」

 宮原の顔が歪んだ。笑っているのだ。

「さ、君の望む未来を教えてくれ。」

 私が戸惑っているのをよそに彼はこちらを嬉々として見つめている。顔を強張らせ、脂汗を出しながらこちらをのぞき込むこの男が、心底恐ろしかった。

 私が、この小説に出会わなかった未来がいい、というと宮原は少しがっかりしたのか、ため息をつき。わかった。とつぶやいた。

 でも口元にはあの笑いともつかない不気味な表情がはりつけられたままだった。


「さて。と、いうことで、君の無意識を少しばかりいじくる必要がある。いいね?」

 有無を言わせぬ言い方に、私は頷くしかない。

 宮原は小さく咳払いをした。


「材料調達だ。」

 宮原が手をこちらへ差し伸べていた。「ん?」怪訝な顔で宮原は事もなげに返す。

「睡眠薬だよ。昨日そのリュックに入れたんだろ?」


 宮原の手に白い錠剤が握られて…その手が私の方へ、近づいてくる。


 それっきり、何も分からなくなった。


 朦朧、縹渺、模糊…


 ―君には何の問題もない。君は少し承認欲求が強いだけの普通の女子高生で、あるかどうかも分からない自分の才能を試すために小説コンテストに応募しようとしている。


 ―君はそのコンテストの傾向を確かめるために一冊の雑誌を買った。若者は往々にして移り気なもので長らく忘れていたが昨日久しぶりに読んでみたのだ。


 ―君が読んだのは実際何の変哲もないしがない高校生の書いた恋愛小説だった。君は退屈してしまってまだ読み終えもしないうちから居眠りをしていて、奇妙で怖い夢を見た。多分疲れていたからだろう。夢の内容は忘れてしまった。

 

 ―君は最近知り合った宮原知大という男を信奉するようになっている。小海屋という喫茶店でばったり出くわしたのだ。君は今までこんなに話の合う人物がいただろうか、と驚いている。何しろ君の周りの人物と言ったら…


 ああ、眠い。このまま眠ってしまいたい。


 ―君は宮原知大の計画に賛成だった。今の人間はどこか空虚で、世界はつまらない。そう、人間はいつだって世界という主人に隷属してきた。人間の持つ高尚な想像力も感情も何もかも。世界は人間に現実という軛を課したのだ。私達の望む世界を手に入れなければならない。だから君は世界を変えたい。この理想をもっと広めなくては。

 未来を私たちの、手の中へ…。


「…だめだ」鈍いエコーのかかったような声が聞こえる。


「だめだ!」今度ははっきりと…。


「…誰?」自分が暗闇の中にいることに気が付く。頸が重い。でも、振り返りたい。


 ―踏みとどまらなくてはいけない。―


 目を覚ますと、外から差す日が黄色くなっていた。

「ん?やけに早かったじゃないか。」

 焦点の合わない目で男のほうを見る。

 男はコーヒーをすすりながら横目にこちらを見ていた。手元には、一面メモが取られたノートが握られている。ええと、この人の名前は…。そう、宮原さんだ。私が最近知り合った人で、とても話が合う。そう、たしか。

「1時間…睡眠薬が足りなかったか。…いや、自己覚醒?」

 その人は私のリュックを無造作に開けると、中から一冊の雑誌を取り出した。「大庭さん、この本に載っていた『ボーアの鏡』っていう作品、知ってる?」

「ボーアの鏡」?何だったっけ、どこかで、聞いたことがあるような。…いや、気のせいかもしれない。

 そのまま彼は私に雑誌の1ページを見せて、読むように促した。


 どこかで似た文を見たような気がする。

 目の前の男がにやりと引きつった笑みを浮かべる。

「知らないだろ?それはそうだ。読んだこともないんだから。」

 どこかで?…いや、似た文じゃない。全く同じ、全く同じ文を読んだことがあった。

 瞬間、体からすっと熱が抜ける。

 そうだ、目の前の男は宮原知大。彼はあろうことか私に薬物治療を仕掛けようとしたのだ。

 睡眠薬の過剰摂取。その昏睡効果を使って私の記憶を錯乱させ、私の無意識からボーアの鏡という小説の文脈を取り除こうとする試み。そして私を、支配しようとした。私の命を人質にして。

 そうか、それがこの男の目的だったのだ。

「ボーアの鏡。…覚えている。私はこの文章を知ってる。」

 目の前の男の顔が今度は醜くゆがむ。


 初めからこの男は私を助ける気などなかったのだ。

「…ふざけないで!」

 私は宮原の肩を突き放した。そのまま小海屋のドアをけり開けて外へ走り出る。


 ―ふざけるな。―


 宮原知大にしてみれば私など実験用のモルモットにすぎないのだ。

 ああ、頭が痛い、睡眠薬のせいだろう。足がまともに回らない。もうあと十数分もしたら、本格的に薬が効いて、私は否が応にも倒れてしまう。いや、小説の終わりの方が先だろうか?


 それでも走り続けていたかった。

 後ろから宮原が追ってくる足音が聞こえる。

 私は走り続けた。

 走って、走って、走って。ついぞ行き止まりになったのは小さな工場の中だった。

 昔田所君の「秘密基地」だった場所。眼前には毎朝六時にだけ仕事をする小型焼却炉が建っている。その煙突が、金色に輝いていた。


 夕陽があたりに差す。


「大庭さん。もう一度考えよう。きっと助かる手段はまだあるはず…」

「…いい。」私は断固として言った。


「私はあなたの奴隷になりたくない。」

「僕が?君を?何だってそんなことを言うんだ。僕は君を助けようとしてるんだ。それともここで死にたいっていうのか?」

「私は…。」

「君はもう自分ではどうしようもない事態に巻き込まれているんだ。君はこのままではあと数千文字で死ぬだろう。ああ、言ってしまおうか。君は僕に助けを求める事しかできやしないんだ。」

 宮原の顔は醜く歪んでいた。嗤っているのだ。

 いや…違う。私はようやく気が付いた。宮原は嗤っているのではない。嗤っているように見せかけているのだ。

「…あなたは自分でもこの小説がいいものだなんて微塵も思ってない。さっきから変だよ、喋ると目をそらすし、狼狽えてる。大義のためならもっと堂々とできるでしょ?違う?」

 宮原が大きく目を見開いた。

「話をそらさないでくれ、今は君の話をしているんだ。」

「あなたは人殺しだ。」

 宮原は私のつぶやきに明確に狼狽えた。それが何より真実を語っていた。

「それでもあなたはこの小説に執着してる。この小説を書いた自分を認めたいんじゃない?この小説で真っ先に犠牲になったのはきっとあなたの近しい人。親か、友達か、それは知らないけど。でも多分警察も友達も、まさかあなたが『殺した』なんて思わない。だって小説で人を殺すなんてできるはずないもんね。だから誰もあなたを疑うことはない。だからあなたはこうやってのうのうと生きてられる。」

 いつの間にか口が止まらなくなっていた。

「あなたはそんな自分と向き合えないんでしょ。弱いから。自分が大切な人を殺したなんて言えないし、でもそんな自分を認められない。だからこじつけの夢を作って自分が正当だったって思いこもうとしてるんだ。でもそんなの偽物だよ、本当に自分をごまかせるわけない。あなたは人を殺したんだ。

 …あなたは人殺しだ!」

「違う、僕は…ただ…」

 宮原が歯軋りをする。

「なるほど。…分かった。他の誰かかと思っていたけど違うみたいだ。君の人生の終わりをもたらすのは…僕みたいだ。」

 宮原の足元には鉄パイプが落ちている。工場の内部に人影はない。私はハッとする。うつろな目をした宮原がゆっくりとこちらへ近づいてくる。夕陽に照らされたその顔に苦しみの色はない。ただ憎悪、それだけだった。

「…やめて!」


 しかし彼は鉄パイプを構えた。振り上げられた鉄パイプが一厘のためらいもなく私の頭に向かって振り下げられる。体を捻るが間に合わない。


 ―だめだ…―


 ひょうと空を切る音とともに肩に激痛が走る。腰が抜けて動けない。たすけて、叫ぼうとしても息が少し漏れただけだった。

 宮原がもう一度鉄パイプを振りかぶり、上段に構えた。


 その瞬間。

 リュックの中から、私の手元に固いものが落ちた。

 ―サバイバルナイフ…―

 ボーアの鏡の終わり。それは本当に私の死だけを意味するのだろうか。小説の終わりが私の終わりだと誰が決めたのだ。この小説の終わりは…。


 現実の在り方というのは必ずしも一定ではない。と、そこには書かれていた。それは、他の物との相互作用によって、その時々において「決定」されるものなのだという。


 宮原知大は無意識を操ることで私は救われるんだと言った。むしろそれを操ることで理想の未来を手に入れることも可能なのだと。でもそれはボーアの鏡と共生、いやあるいは支配されるということだ。


 では、ボーアの鏡から脱出するためにはどうすればよいのか。

 ―そうか。―

 刹那私は気付いた。田所君も私も、誰もこの小説の本当の終わりを見たわけではない。

 この小説の「終わり」も私の頭の中だけにあるのだ。その「終わり」を私が意識するのは

 他ならぬ私自身の記憶、私の過去がボーアの鏡の存在を、強く私に訴えるからなのだ。

 それならば…。


 ―そうだ、私は、生きたい―

 量子力学も何も、私を損なわせてなるものか。


 サバイバルナイフを手に取り、強く握った。

 宮原が鉄パイプを振り下ろす前に間合いの内側へ飛び込む。そのまま抜き身の刃を滑らせ、宮原の腹部へ深々と突き刺した。

「うっ…」

 鈍い音を立てながら、鉄パイプが地面に落ちる。

 血を流し、傷口を押さえながら、宮原知大は崩れ落ちた。

 彼の眼は真っ直ぐこちらを見ていた。


「…君が正しいのか。」

 その目に寂しさの色があることに、私は危うく気づかないところだった。彼の小柄な肉体がコンクリートの地平の上に落ち、そこに夕陽が長く差した。強い眩暈がする。

 もう目の前の男は絶命していて、そして私は生きていた。


 そうか、私は勝ったのか。

 遠のく意識の中で、私は「小説大洋」と睡眠薬とをリュックから取り出した。目がくらみ、立っていられなくなる。

 ―まだ倒れるわけにはいかない。―

 紙面を引き裂いて、焼却炉の焼却口へ放り込む。明日の正午には、ボーアの鏡は誰にも知られずに紅蓮の炎に包まれることになるだろう。…二度と、誰にも読まれることもなく。


 焼却口にもたれると、眠気と疲れが一気に押し寄せてくる。その時初めて気が付いた。宮原のそばに一冊の本が落ちている。彼が落としたものらしかった。

「小説大洋」。見慣れた表紙。私は最後の力を振り絞って地面を這って、それを開く。

 そこにもこんなタイトルの小説があった。


「ボーアの鏡」

 冷汗が頬を伝う。

 これをきっと、彼は最後まで読んだのだ。

 そうか、それなら彼が私の行動を見澄ましたように活動できたことにも納得がいく。そして彼はおそらく知っていたのだ、今日自分が死ぬ、ということを。

 亡骸の顔はちょっと笑っているように見えた。


 薬瓶を手に取り、白い錠剤を山ほど出す。

 ―服用後数分で副作用として直近数日の記憶に関する薬物性健忘の恐れあり。―

 無機的なラベルが瞼をよぎった。

 私は意を決し、一口に睡眠薬を飲み込んだ。


 ボーアの鏡が私の無意識にある限りきっとその終わりは私そのものの終わりだ。

 だからボーアの鏡から抜け出すにはそれを私が完全に忘れ去ることが必要で、そのうえで私が一切意識せぬまま、例えば焼却炉の炎によってあの小説が葬り去られるならば、ボーアの鏡の終わりは一つの小説の終わりに過ぎない。


 次、目を覚ますときには、私はこの男のことを忘れ去っているんだろう。そう、何もかも。

 だから私は手を合わせて、宮原知大へ祈りを捧げた。申し訳程度かもしれないけれど、それが私にできた全てだった。


 煙突が見える。私の視界は徐々にぼんやりとかすんで、やがて何も見えなくなる。全てが遠のいてゆく感覚…。











 長いトンネルを超えた先のような、眩い閃光に、私は薄く目を開けた。

 ―眩しい…―

 心地のいい振動が私を揺らしている。暖かい何かに身を寄せながら、よかった。と心の中で呟く。でも、なぜだろう、何で私はこんなに安堵しているのだろう。


 ぼんやりと自分が誰かのうなじに頬を当てているのだと気が付く。

 …誰か?私はこの人の匂いを知っていると思った。男子で、幼馴染で、何だかんだ優しくて、私にとって大切な…


 田所君だと気が付くまで数瞬かかった。

 びっくりして危うく飛び上がりそうになる。その時初めて、今自分が田所君の運転する原付バイクに乗せられているのだと気づく。

「田所君…何で?」

「お前が見せてくれた時、例の小説に煙突が金色に輝いてる、って書いてあるところがあったから、近場で煙突のあるところを探して一昨日から全部回ってたんだ。でもまさか、小型焼却炉のことだとは思ってなかった。…遅れてごめんな。めっちゃ時間かかった。」

 田所君の横顔は本当に申し訳なさそうに見えた。


「…にしてもあいつ、自分の死体の処分の仕方まで例の雑誌の奥付に書いてやがった。最初っから読んでみたけど可哀そうなもんだな。家族と親友が、アレのせいでみんな死んでしまったらしい。死に場所を探してたんだ、あいつは。」

「死体?死に場所?」何のことだかさっぱりわからない。

「宮原知大のことだよ…って、忘れてるんだったか。」きょとんとする私を後ろ目にみて、田所君は一瞬空を仰いだ。

 朝日だった。透き通った光が道路を金色に照らしている。

「私、何してたんだろう。全然思い出せない。」

「実はな、俺にもよくわかってない。」

 田所君の背中がふっと揺れた。笑ったんだろうか、表情は分からない。

 鳥たちがきれいな編隊を組んで空を渡ってゆくところだった。


 そろそろ朝も終わりだ。


 田所君の背中に顔をうずめると、バイクの振動に交じって田所君の心臓の音が聞こえる。心なしかその音はちょっと早いような、そんな気がした。表情を見ようとして少しのぞき込んだら、顔をそらされてしまった。

 ふふ、ちょっと笑ってしまう。この世界も案外、捨てたもんじゃない。


 向こうではあの焼却炉の煙突が朝陽を受けて金色に輝いていた。

 長い坂道を、二人っきりで下る。私の人生がこれからもつつがなく、続いてゆきますように。

 そう、小さく祈る。


(了)

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ボーアの鏡 宮原知大 @ailish0410

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