聴こえ来ぬ。
鈴ノ木 鈴ノ子
きこえこぬ。
今年もまた夏がやってきた。例年通りにやってきたのだ。
一週間の着替えと寝具、そして食材を車に乗せて、私は今では住み慣れた自宅から、郷里の家へと帰りゆく。混雑していた高速道路から国道へそして県道市道へと至る道は、すれ違う車を徐々に減らしてゆきついには皆無となった。綺麗に舗装された道が悪路へと至りてしまえば、そこに懐かしの里の家がぽつんと見えた。
ダム湖畔沿いの一軒家、いや、ぽつんと残る一軒家、これが私の生まれ育った家だ。平屋造りの江戸時代から続く母屋のみ、昔は蔵や納屋などもあったが、管理が行き届かないので潰した。木の雨戸がしっかりと閉じられた母屋のみが残り、時より風に吹かれて揺れる雑草に覆われながら、静かに佇んでいる。
石組でできた長いスロープを車で駆け上がると母屋の脇、もともと蔵の在った場所へと車を止めて運転席から這い出る、そして背筋を伸ばしたのだった。
毎年の変わらずの一週間だ。
母屋の窓をすべて開け放ち、虫の死骸や埃、動物の痕跡を綺麗に片付けてゆく。土間を掃き、床を拭き、立てかけた畳を天日に干し、風呂釜を洗い、草刈をする。近くの小川のせせらぎと鳥たちの囀り、そして、近くにあるダム湖畔のキャンプ場で遊ぶ人々の声がときより聞こえてきては、暫し手を止めてそれに耳を傾ける。
この家にも人の声が溢れていた、そして数多くの思い出が蘇ってくる。
かつては小学校中学校と隣村の学校までを通学バスで通った。
かつては同級生たちと野山を駆けまわって遊んだ。
かつては、かつては、かつては、いくつものかつてはが、聞こえくるサウンドによって鮮やかに蘇っては消えてゆき、その度に手が止まるのだった。
山の影に陽が沈み、虫達がコンサートを開き始める頃にようやく落ち着いて過ごせる空間となった母屋の畳の上に腰を落ち着けた。家族で食卓を囲んだこの部屋に家財道具は傷だらけの丸テーブルが1つのみだ。隣の部屋は仏間だがすでに蛻の殻となっており、今は遠く離れた自宅にお祀りされている。ああ、天井から吊り下がるセルロイド傘を被った電燈もある。テーブルの上には王冠で封をされた瓶入りのオレンジジュースと日本酒の一升瓶がひとつずつ、コップは二つ、そして烏賊の珍味が少々、それに口をつけることもなく、私は開け放たれた長窓から草刈を終えた庭先を眺めた。
漆黒の闇と電燈の明かりの境界線に暫くすると白いスポーツシュ―ズだけが見えた。やがてシューズがこちら側へと一歩踏み出すと色白い足首が現れる、一歩、また一歩と涼み出でるとやがては漆黒の長い髪を風に揺らし白いセーラー服に紺色のスカートを履いた女子生徒が姿を現した。
「こんばんは、たっちゃん」
可愛らしいうりざね顔をした女子生徒が嬉しそうにそう言って微笑んだ。
「おう、こんばんは、みっちゃん」
私は片手を上げてあの頃のように挨拶をする。そして手招きをして呼び寄せる。礼儀正しく玄関から入ってきた彼女は、そのまま私の隣へと腰を下ろして、私の姿を見て微笑んだ。
「一段と老けたね」
「貫禄が出ているか?」
「どうかな、分かんないけど、白髪は増えたよね」
そう言って可愛らしく笑う姿に私は目を細めたのだった。
幼馴染で同級生、そして、初めての女となった最愛の人。
この母屋で口づけと互いの初めてを交わした。すべてを終えて布団に包まって互いに気恥ずかしさと心地よさを味淡いながら時より口づけを交わし、やがて彼女は鼻歌を歌った。
それは幼い頃から彼女だけの美しい歌詞で。
それは幼い頃から彼女だけの奏でるリズムで。
それは幼い頃から彼女だけの特別なメロディーで。
私も真似をしてみたが音痴のせいだろう、決して真似をすることはできずに、彼女の笑いを誘ったのだった。
『ねぇ、毎年、今日、この日は一緒に過ごそうね』
『う、うん』
手をしっかりと繋いで送り届ける道すがら彼女がそう言って微笑む、私も同じように微笑んで子供のように指切りをして約束を交わした。けれど、それが最後の約束となるなどとはその時は考えもつかなかった。
ただ、ただ、幸せに浸っていた。
夜半から降り続いた激しい雨、そして崩れた山肌の土砂が彼女の家を飲み込みながらダムの底へと連れ去ってしまったからだ。
あれから彼女はあの時の姿のままで約束の通りに私の前へと現れる。私も約束通りに迎え入れては共に時を過ごしていた。
「お酒注ぐね」
「俺も注ぐよ」
コップに並々と日本酒が注がれる。私もオレンジジュースの王冠を栓抜きで開けてコップへと同じように注いだ。とくとくとくと瓶先から音が鳴る。2人で顔を見合わせてその音に思わず笑った。
「「乾杯」」
コップが合わさりチンっと響き話に花が咲く。
やがて彼女は鼻歌を歌う。
聴こえているのに聴こえ来ぬ、あの懐かしいメロディーを。
聴こえ来ぬ。 鈴ノ木 鈴ノ子 @suzunokisuzunoki
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