閉幕の時 〜俎嵓・燧ヶ岳(柴安嵓)〜
早里 懐
第1話
今振り返ると今回の山行における計画を狂わせた出来事は全て私の身に降りかかった災難の前触れだったのかもしれない。
そんな気がしてならなかった。
目が覚めたのは午前3時半を回ったところだった。
アラームは午前2時半にセットしていた。
つまりは1時間程寝坊したことになる。
布団から飛び起きて洗面台に直行した。
まだ目が半分しか開いていない。
完全に目を覚ますために水で顔を洗った。
立冬を過ぎ暦の上ではすでに冬が始まっているが、全国各地の気温はいまだに夏日を観測している。
連日様々なメディアがこの異常気象を躍起になって報じている。
しかし、私のような山登りを趣味としている人間としては少しばかりこの異常気象を歓迎している節もある。
何故ならこの時期は装備を万全にして登らなければならない山も夏山同等の装備で登れるからだ。
私は山登りを始めてから尾瀬の木道を歩く日を心待ちにしていた。
しかし、私の住む地域から尾瀬までは遠い。
そのようなこともあり後回しになっていた。
しかしながら、自由に過ごせる1日が巡ってきたのだ。
それが今日だ。
前述した異常気象も私の背中を後押しした一つの要因だ。
この日を逃したら尾瀬は来シーズンまでお預けだ。
よって、私は登ることにした。
福島県そして東北以北の最高峰。
更には日本百名山の一座。
そう。
尾瀬の名峰こと燧ヶ岳に。
計画はこうだ。
まだ通行が可能な県道沼田檜枝岐線(11月6日から冬季通行止めになる)で御池駐車場に向かう。
その後、御池登山口から燧ヶ岳を目指す。
登頂後は見晴新道を下り、尾瀬ヶ原を経由して御池駐車場に戻るコースだ。
各所での休憩を加味して私の足では8時間で見積もっていた。
よって、遅くても午前7時には登山をスタートするつもりだった。
そこから逆算して私は午前2時半にアラームをセットしたのだ。
しかし、目が覚めたのは午前3時半過ぎだ。
急いで支度を済ませた。
1時間の遅れであれば休憩を削れば明るいうちに下山できる。
そう思いながらハンドルを握り御池駐車場を目指して走り出した。
今日は1人だ。
いつも車の中でマシンガントークを繰り出す妻はいない。
よって、某音楽サブスクリプションで90年代の曲を流しながら運転した。
1時間程走ったところでガソリンが半分以下であることに気づいた。
昨日のうちに給油を済ませておけば良かったのだが失念していたのだ。
現在地は白河市で時刻は午前5時だ。
メインストリートを走行したが営業しているガソリンスタンドは無い。
少しばかり不安に駆られたが、まだガソリンが4メモリはある。
ここで開店を待つよりも現地に向かった方が良いと判断し先に進んだ。
後の振り返りで判明したが白河市には数軒24時間営業のガソリンスタンドがあった。
経路からは少しばかり外れるがここで給油しておくのが正解だった。
しかし、私は先に進んでしまったのだ。
南会津に着いた頃にはガソリンのメモリが3つになっていた。
某大手燃料メーカーのセルフスタンドの看板を見つけ安堵したが、それも束の間、目の前まで行くとまだ開店していないことに気づいた。
時刻は午前6時半だ。
楽観的な私はさらに先に進むことを決断した。
国道289号線をひたすら西に進む。
しばらくすると国道401号線との分岐にたどり着いた。
ガソリンタンクのメモリはまだ3つだ。
しかし、ここから御池駐車場までの距離を考えると道中での給油は必須だ。
このような状況に置かれているが、通り沿いにあるガソリンスタンドはまだ営業していない。
そうこうしているうちにガソリンのメモリは2つになった。
最後の望みとしていた道の駅檜枝岐を越えたところにあるガソリンスタンドも営業時間外だった。
万事休すだ。
時計の針は午前7時40分を指そうとしていた。
ここで初めて私は今まで通り過ぎてきたガソリンスタンドの営業開始時刻を調べた。
もう少し早く調べるべきであったが、どこかは営業しているだろうという楽観がそれを邪魔した。
調べた結果、約20km戻ったところのガソリンスタンドであれば営業を開始していることが判明した。
結果としてそこで待機していればよかったのだ。
念のため営業を開始しているか電話でも確認した。
すでに営業はしていた。
私は来た道を約20km戻り給油をする決断を下した。
約50分のタイムロスだ。
しかし、これは私の楽観的な性格がもたらしたことである。
給油を済ませて御池駐車場にたどり着いた。
時刻は午前8時半だ。
計画が狂った。
しかし、自業自得だ。
予定していたコースでは日が暮れる恐れがあったため、御池登山口から燧ヶ岳のピストンコースに急遽変更した。
しかし、この時はまだ下山時に遭遇する災難を知る由もなかった。
準備を整えて出発した。
このルートはぬかるみが酷いとの情報があったが、この時期は雪解け水がないことと、直近で大雨が降っていないため、そこまでは酷くなかった。
しかし、急登だ。
登り始めるとすぐに大きな岩と折り重なる木の根を越えるコースが待ち構えている。
所々木製の階段が整備されているが朽ちて崩壊している箇所もある。
踏み抜きに注意しながら慎重に進んだ。
しばらく進むとご褒美が待っていた。
広大な湿原。
広沢田代だ。
特に左側に散りばめられた池塘群が癒しを与えてくれる。
この癒しが急登で蓄えた太ももの乳酸を分解して消し去ってくれるのだ。
この広い湿原を独り占めして歩いている。
これ以上の幸せというのはあるのだろうか?
決して大袈裟ではない。
このような思いが心の奥底から込み上げてきた。
広沢田代を過ぎると再度樹林帯の急登ゾーンに突入する。
まさしく飴と鞭だ。
東北以北の最高峰は飴と鞭の使い分けがとても上手い。
トレッキングポールを上手く活用し、全身の力を使って急登に挑んだ。
そして私はその勝負に勝った。
ウイニングロードを歩いた先に熊沢田代が待っていたのだ。
視界が開けた。
きっとこの景色はこの世のものではない。
今まで生きてきた中でベスト3に入る絶景だ。
広大な湿原の中に延々と続く木道の一本道。
左右に配置された大きな池塘。
木道が消えゆく先に鎮座する俎嵓の山頂。
先ほど広沢田代で自問自答したこれ以上の幸せはすぐ近くにあった。
私の中の幸せランキングがすぐに更新された。
まさしく、熊沢田代は先ほど広沢田代で感じた幸せを軽く越えてきたのだ。
気づくと何枚も写真を撮っていた。
全て同じ画角で変わり映えはしない。
しかし、何枚も撮ってしまうのだから不思議だ。
この絶景を存分に脳裏に焼き付けながら木道を進んだ。
束の間の時間だった。
しかしながら感動はひとしおだった。
熊沢田代を越えると最後の鞭であるガレ場の急登が待ち構えている。
途中で行動食を取り、一気に登った。
登り切ると熊笹ゾーンとなる。
足元に十分注意しながら進んだ。
俎嵓の山頂は静寂に包まれていた。
眼下には尾瀬沼が見えた。
熊笹ゾーンから太陽が隠れてしまったため、初めはモノトーンに近い風景だったが、しばらくすると太陽光による尾瀬沼のライトアップショーが始まった。
観客は数人だ。
静かな歓声が挙がる。
私もそんな観客達に紛れて、しばし見惚れることにした。
こんなショーは滅多にない。
どんなに大枚をはたいても見ることはできないのだから。
どんなショーにも終わりは訪れる。
厚い雲が太陽を包み込みショーは終わった。
それはまるで登山シーズンの閉幕も同時に告げているようだった。
しばらく余韻に浸った私は福島県最高峰の柴安嵓を目指した。
柴安嵓へは一度下り登り返すことになる。
目で見える限り結構な急登だ。
しかし、開けた景色の中で繰り返されるアップダウンは私にとって苦痛ではない。
柴安嵓への登りはまさしく天空へ昇って行く感覚だった。
近くに存在する空を目掛けて登っていく。
柴安嵓の山頂も俎嵓同様、静寂に包まれていた。
登山シーズンのピークを過ぎたため、登山者が極端に少ないのだ。
眼下に見下ろす尾瀬ヶ原も茶色一色となっていた。
これから訪れる長い冬を越すため、冬支度を始めているようだった。
人の気配がしない広大な湿原は、どことなく寂しさが漂っていた。
いつしか登山者で賑わう尾瀬も経験してみたいなと思いつつ、しばらくの間福島県の最高峰を堪能した。
時刻は11時だ。
一度俎嵓まで戻り、心を無にして30分ほど尾瀬沼を鑑賞し下山した。
事故は下山時に起きる。
下山は細心の注意を払うべきだ。
登山を始めて約1年半の私はそのことを身をもって体験することになった。
私は燧ヶ岳の登山に満足しながら足早に下山していた。
足下が見えない熊笹ゾーンに入った。
おそらく油断していたのだろう。
それは突然私の身に降りかかったのだ。
人は唐突な出来事が起きると一瞬何が起きたのかわからなくなる。
気づいたら斜面に体を預け熊笹を握り締めてぶら下がっていた。
熊笹で足下が見えずに右足を踏み外し、2m程斜面を滑り落ちたのだ。
咄嗟に熊笹を握ったため、ことなきを得たが危なく斜面を数m滑り落ちるところだった。
必死に這い上がり登山道に戻ることができた。
登山は自然を相手にしている。
どのような道でも一瞬の油断が命取りになる。
とても貴重な経験ができた。
その後は細心の注意を払って下山し、御池ロッジで山バッチを購入し帰路についた。
行きがけはガソリンの残量が気がかりでそれどころではなかったが、南会津の紅葉は最盛期を迎えていた。
何度か駐車スペースを見つけては自然の彩りを満喫した。
この色とりどりの南会津の山々は私の後ろ髪をこれでもかと引っ張って離さない。
できることなら1泊して翌日も登山を楽しみたいが明日は仕事だ。
また来年お邪魔しますと伝えて国道401号線を北上した。
そういえば、昼ごはんを食べていない。
気づいたらお腹が空いていた。
ちょっと遅めの昼ごはんは何食べようか?
そうだ。少し寄り道をしよう。
私はガソリンの残量を確認した。
お腹の中は空っぽだがガソリンタンクは満タンだ。
よし。
どこまででも行ける。
閉幕の時 〜俎嵓・燧ヶ岳(柴安嵓)〜 早里 懐 @hayasato
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