今日の空も青かった

猫屋ちゃき

今日の空も青かった

 真っ黒で分厚い雲に覆われた空から、ものすごい量の雨が降ってきていた。

 雨粒ひとつひとつも大きくて、それが屋根を打つ音が響いている。

 私は美波と並んで昇降口から外をうかがって、どうしようか悩んでいた。


「雨、やばいね」


 美波が唇を尖らせて言う。さっきまで委員の仕事を残って一緒にやりながらおしゃべりしていたから、その唇は少し乾いている。


「うん。こんなにいきなりひどくなるとは思わなかった」


 いつもよりやや大きめに声を張らなければお互いの言葉が聞こえにくいほど、雨音が激しい。

 雨によって放課後の校舎に閉じ込められてしまった気分だ。


「これさ、止むまで待つとかいう話じゃなくて、帰れるうちに帰っとかないと道がやばいことになるんじゃない? なんだっけ……道路が……」

「冠水?」

「そう! 冠水! 冠水しちゃう前に帰ったほうがいいかも」


 美波はそう言いながら、でもまだ覚悟が決まらないみたいで昇降口の外へは出ない。

 私は、職員室に傘を借りに行くべきだろうかと考えた。

 でも、こんな天気だから貸出用の傘はもしかしたらすでに全部なくなっているかもしれないし、〝貸出用〟と油性ペンで大きく書かれた傘をさすのは絶妙に嫌だった。


「あ、見て! 誰か来た! たぶん、誰かの保護者だ! 傘持って迎えに来てくれるなんていいなぁ」


 美波に言われて雨でガザガザになった景色を眺めていると、確かに人が歩いてくるのが見えた。

 近づいてくるその人影は、すらりと長身だ。

 そしてちょっと、様子がおかしい。私の目にはそう見える。

 きちんと立って二足歩行で歩いてはいるものの、時折ぬらりとした動きがまじる。


「……お兄ちゃん」

「え? あれ、奈子のお兄ちゃん? 何でわかるの?」

「背、高いから」


 これ以上おかしな動きをされるのが嫌で、私は昇降口のガラス戸を開けて外に出た。

 ガラス戸越しではなく直接目で見ると、お兄ちゃんの姿はちゃんとしていた。

 すらりと背の高い、黒髪の、色白の肌が美しい青年。

 暗い空の下で見ると、その真っ白な肌はほのかに青白く光って見える気がした。


「奈子、傘持ってないだろうと思って迎えに来たぞ」

「ありがとう」

「お友達も一緒か」


 お兄ちゃんは私を一瞥してから、隣にいる美波に声をかけた。

 声をかけられた美波は、わかりやすく飛び上がる。


「は、はい! 小林美波です! 奈子ちゃんとはとっても仲良くしてもらってます!」

「そうか、ありがとう」


 元気よく応える美波に、お兄ちゃんは目を細めて微笑んだ。

 きれいな二重ラインの浮かぶ目をそんなふうにして細めると、目の前にいる相手はみんな、熱にうかされたみたいにぼーっとなってしまう。

 美波も例に漏れず、お兄ちゃんの顔を見てぼーっとなってしまった。


「美波ちゃん、迎えは来る?」

「えっ、いえ……」

「だったらこの傘使って。奈子は、俺と帰るから」


 お兄ちゃんはそう言って、私の水色の傘を美波に差し出す。

 美波は私に目線で「いいの?」と尋ねてきたから、私は気にしないでと頷いてみせる。


「ありがと! じゃあ、またね!」

「うん、また明日」


 帰る方向が違う美波は、手を振って元気に走り出した。いつも元気な子だけれど、今日は一段とはしゃいでいる。たぶん、うちのお兄ちゃんのせい。

 当のお兄ちゃんは、涼しい顔をしている。

 嘘みたいにきれいな顔だ。まあ、嘘なんだけれど。


「俺たちも帰ろうか」

「うん」


 私がじっと見ているのに気づいたのか、お兄ちゃんは不思議そうな顔で見てきた。

 だから私は何でもないと首を振って、傘に入るためにお兄ちゃんの隣に立つ。

 歩き出すと、お兄ちゃんは当然傘を私のほうに傾けてくれ、当然車道側を歩いてくれる。

 それでも、道路沿いを歩いているとき大きな水たまりのそばを速度を落とさず車が走り抜けたから、私たちは二人ともずぶ濡れになってしまった。


「さっきの、あれみたいだったな。奈子が乗りたがってるやつ」

「スプラッシュ・マウンテン?」

「そう」


 水を滴らせたお兄ちゃんは、楽しそうに笑っていた。

 盛大な水はねと夢の国のアトラクションを一緒にしないでほしいのだけれど、お兄ちゃんにとっては大差ないのかもしれない。

 ただ、私もまだ乗ったことがないから明確な違いなんて説明できなくて、もしかしてこんな感じなのかもしれないとも思った。


「おーい、水城! 今のすごかったな」


 背後から大きな声で呼ばれた。

 ジャバジャバジャバと、すごい足音で走ってくる人がいるなと思っていると、その人物は私たちの横までやってきた。


「大野くん! 傘は?」

「ない! 家族に電話したけど自力で帰ってこいって言われちゃってさ」


 走ってきたのは、同じクラスの大野くんだった。焼けた肌に白い歯を見せて笑っている。そんな彼は傘を持っていなくて、まるで滝行したあとの人みたいな姿になっている。


「水城はお兄さん迎えに来てくれたんだ?」

「うん」

「いーなー。じゃ、また!」


 たったそれだけ言うと、大野くんはまた勢いよく走っていってしまった。

 彼が走っていく後ろ姿を見守りながら、何だか心臓がドキドキしていた。

 きっと、突然後ろから声をかけられたからだ。それと、同じクラスでもあまり話したことがなかったからかもしれない。


「誰?」


 しばらくさっきの会話の余韻に浸っていたら、お兄ちゃんがこっちを見ていた。

 灰色がかった茶色の目が冷たくて、ちょっと怖い。

 人の前ではその美貌を余すことなく活用するためににっこりするのに、本来の姿はこういう顔なのだ。

 最初はそれがすごく怖かったけれど、もう慣れた。

 でも、油断してはいけない。


「同じクラスの大野くん。サッカー部の人気者。モテるよ」


 私は努めて何でもないように言った。事実、別に大野くんに対して何もない。でも、微塵も興味ないことをお兄ちゃんにわかってもらわないといけないから、感情が乗らないように言わないといけなかった。


「ふーん。人間のメスはああいうのが好きだよね」

「え? そうなの? 私、そういうのまだよくわかんないけど」


 お兄ちゃんがスッと目を細めて見つめてきたから、私は興味ないことを示すために目をそらした。

 知らない、興味ない、わからない、私はまだ中学生だから─この姿勢を貫くことが大事だと考えている。

 それからは、お兄ちゃんは何も聞いてこなかった。

 その代わり、家に帰り着くまで会話はなかった。

 そもそも、あまり会話がある家族ではないのだけれど。

 いつもは歩いて二十分くらいの道のりを三十分くらいかけて、家に帰り着いた。

 二人で住むには広すぎる一軒家だ。

 もともとが中古住宅だから古くなってきているけれど、お兄ちゃんの知り合いの人がたまに手入れにきてくれるから雨漏りなんかはない。


「あー、全身びしょびしょだ……特に靴が濡れるのが嫌なんだよね」


 濡れて妙な貼りつき方をしていて、靴から足を抜くのが大変だった。靴下がぺろりと剥けるみたいに脱げてしまったから、靴の中に取り残されて丸まったのを取り出さなくてはならなかった。


「やだなぁ。こんなふうに泥だらけになるのに、なんで学校指定の靴って白なの?」


 白のスニーカーは、泥水を吸って薄茶色になってしまっている。このまま乾いたらきっと、薄茶色のスニーカーになってしまう。

 それは嫌だと思うけれど、これから新聞紙を詰めて乾かしたりする前に一度洗うべきなのか考えて、私はしばらく玄関先でウロウロした。

 すると、隣でずっと見守っていたお兄ちゃんが手を伸ばしてきた。


「え、ちょっと……」


 お兄ちゃんは無言で、セーラー服の脇のファスナーに手をかけていた。脱がそうとされようとしているのはわかる。

 セーラー服のファスナーを上げると、今度はスカートに触れてきた。でも、ホックを見つけられないのかお兄ちゃんの手は迷子みたいにさまよって、なぜだか太ももに触れた。

 ひやりとした手が、少しずつ上に上がってくる。

 それがとても怖くて、私はとっさにお兄ちゃんから距離を取った。


「やめて。〝お兄ちゃん〟は、そういうことしないんだよ」


 私は驚いたのと怖かったのとで、ドキドキしながら言った。

 すると、お兄ちゃんは悪気はなかったのか、キョトンとしていた。


「そうか……難しいなぁ」


 お兄ちゃんはそれだけ言うと、靴を脱いで先に家に上がってしまった。

 私も、靴を洗うのはあきらめて家に上がり、濡れた靴下を洗濯かごに放り込んでからお風呂場に向かった。


(あの態度、まずかったかな……)

 あのあとも、普通に食事の支度を一緒にして、ごく普通の会話をしながら夕食を摂ったけれど、本当は気が気じゃなかった。

 お兄ちゃんを拒絶したみたいになってしまったことが、気がかりだったのだ。

 だから寝る前も不安で、落ち着かない気分だった。

 でも、まだ激しく降り続く雨音を聞いているうちに眠たくなってきて、気がつくと眠っていた。

 夢の中、空は青かった。

 空が青いのを確認して、私はひどくほっとする。

 厳密にいうと夢ではないのかもしれないけれど、眠ると私の意識はこの空の下にいる。

 もうかれこれ、三年以上になる。

 夢の中、私は湿った地面の上に立っている。ところどころ存在する水たまりには、空の色が映っている。

 眠りに落ちるといつも、私はその濡れた地面にいる。そこに佇んでいるとそのうち、得体のしれないものが足のあたりから這い上がってくるのだ。

 足から螺旋を描くように這いのぼってくるそれは、やがて私のお腹や胸のあたりにまできて、ギュウッと締めつけてくる。

 目を凝らすと、自分の体に太い縄みたいなものが巻きついているのが見える。その縄の表面には、うっすら鱗のようなものが浮いているのだ。

 初めて見たときはびっくりして、怖くて仕方がなかったけれど、この巻きついてくるものが私に危害を加える気はないのがわかってからは、怖くはなくなった。

 巻きついてくるものよりも気にしなければならないのは、空の色だ。

 今日の空は、濃い青色をしている。入道雲が浮かぶ夏の空。

 ここの空間の空の色は、現実の天気とは関係がないらしい。

 以前、空が真っ赤だったことがある。そのときは、いろいろと身の危険を感じた。

 だから、この空間に来たときは空の色を気にしている。

(機嫌、悪くないんだ……)

 そんなことを考えながら、雲が流れていくのを眺めているうちに、いつの間にか私の意識はどこかに沈み込んでいくみたいに深く深く潜っていった。

 そしていつも朝になる。


「昨日、傘ありがとね」


 朝、教室に行くと、先に登校していた美波に声をかけられた。

 今日も元気そうでほっとする。傘のおかげで美波が濡れずに帰れたのならよかった。


「どういたしまして」

「てかさ、奈子のお兄ちゃんってめっちゃかっこいいね! イケメンっていうより美形? って感じ」


 私がお礼を言って席に着くと、美波が来てはしゃいだように言う。すると、近くにいた子たちも寄ってきた。


「知ってる! 年が離れたお兄ちゃんってだけでも最高なのに、あんなに顔がきれいだなんて反則だよね!」

「最初見たときはきれいすぎてびっくりしたよね! あの俳優に似てる。なんだっけ……何年か前にドラマに出てめっちゃ人気出た人。あの人に似てて線が細い儚げな美形って感じ」

「わかる! 名前思い出せないけど、あの顔のきれいな人!」


 お兄ちゃんを見たことがあるクラスの子たちが、美波と一緒になっていかにお兄ちゃんがかっこいいか話している。

(似てるよね。まあ、そう作ったからな……)

 褒められ慣れているせいか、結局は私のことではないからか、こういう会話にはさほど感慨を覚えない。

 お兄ちゃんが美形なのはもはや当たり前のことだから。


「てかさ、奈子ってお兄ちゃんと二人だけで暮らしてるんだよね?」


 去年も同じクラスだった佐藤さんが尋ねてきた。ちょっと得意げな顔をしているのは、他の子たちは知らなくて自分だけが知っているかもしれない情報だったからだろう。


「え、そうなの?」

「お父さんとお母さんが事故で死んじゃって、そのあと遠くで暮らしてたお兄ちゃんが戻ってきてきてくれたんだよね? 確か、もう三年くらいになるんだっけ」

「えー、すごい! かっこいいだけじゃなくて奈子の面倒まで見てくれてるんだー!」


 美波が大げさに感激するから、そのあともしばらく、私の代わりに佐藤さんがお兄ちゃんに関して知っていることを話していた。

 私は黙ってニコニコしながらそれを聞いている。

 自分で話すよりも、こうやって誰かが話すお兄ちゃんの話を聞いているほうが私は幸せに暮らせているんだと実感できる気がするから。

 お兄ちゃんと暮らすようになるまでの私の人生は、本当の本当にゴミクズみたいだった。

 私はゴミクズ以下の両親のもとに生まれて、当然のごとく虐待されて育った。

 不潔で、痣だらけで痩せっぽちで、汚い野良犬みたい─私の小学生の頃を覚えている人がいたら、きっとこんな印象だと思う。

 ゴミクズ以下の両親に毎日暴力をふるわれて、食事もまともに与えられず、近所の人が見かねて口を出してくれてからは学校に行けるようになったけれど、他の子供の存在を知ってからのほうが私は不幸だった気がする。

 他の子たちは、毎日三食ごはんが食べられる。他の子たちは毎日お風呂に入ることができる。他の子たちは、親に褒められたり可愛がられたりしている。そうでない子も、少なくとも毎日殴られたり蹴られたりはしていない。

 子供の世話をせず、暴力をふるう親は最低なのだと知ってしまったことが、私の何よりの不幸の始まりだったかもしれない。

 見かねた担任の先生が児童相談所に通報して、職員が家を訪ねてきたことで私の人生は変わってしまった。

 両親は、私というわずらわしさから解放されようと、ある日私を山に連れて行った。そして、置き去りにした。

 そのときは私はすでに世間というものを愚かなりにも知り始めていて、彼らが事故を装って私を処分しようとしているのは理解できた。

 キャンプやハイキングに行って子供が行方不明になることなんてよくある。私も不幸にも家族で行った山で行方がわからなくなり、何日後かに変わり果てた姿で発見されるのだ。

 ゴミクズ以下の知能しか持たない彼らにしては考えたなと、そのとき私は感心した。そして、彼らが描いた筋書き通りに死ぬのも悪くないなと、自分の十年ぽっちの人生に見切りをつけてもいた。

 でも、死のうと思ってすぐに死ねるわけもなくて、お腹が空いて、胃がキリキリ痛んで、どんどん体の力が抜けていくのを感じながらノロノロ時間が過ぎるのを待つしかなかった。

 目を閉じて眠ってしまおうかとも思ったけれど、どうにも眠れなかった。山の中は何もなくて退屈なはずなのに、そのわりに何だか騒がしかったせいかもしれない。

 これで人生最後なのだと思うと、無性に遠くへ行きたくなった。自分の足でどこまで行けるのか試してみたくなったのかもしれない。

 あのときのことははっきり思い出せないけれど、私はどうにかして山の奥まで歩いていったのだった。

 そして、ボロボロの祠みたいなものと、干上がった池みたいなものを見つけた。


『何でもお願いしてごらん』


 そんな声を聞いた気がする。

 そのときにはもう本当に体力は尽きかけていたから、幻聴かもしれないと思ったけれど、私はその声に従ってお願い事をしたのだと思う。


「お兄ちゃんがほしい」

『お兄ちゃんってなに?』

「優しくて強くて頼りになって、私のことを絶対に守ってくれるの」

『ふぅん。それがおまえの願いか』


 何かが体をゆっくり締め上げていくのを感じながら、私は〝お兄ちゃん〟について語った。

 手に入るのならとびきりのお兄ちゃんがいいから、そのときテレビでたまたま目にした、流行りのドラマに出ている俳優みたいな容姿がいいと伝えたのだ。


『おまえの願いは叶えたよ。代わりに■■をもらうからな』


 山での記憶は、その言葉が最後だった。

 そのときはもう意識がほとんどなかったせいか、願いを叶えてもらう代わりに何を差し出したのか、よく覚えていない。

 次に目覚めたとき、私は自宅にいた。

 その傍らには、美しい男の人も。

 たくさんの大人がやってきて、両親が事故で死んだことや、遠方にいた〝お兄ちゃん〟が戻ってきてこれから一緒に暮らしてくれることなどを説明してくれていた。

 それ以来、私はお兄ちゃんと暮らしている。

 優しくて強くて頼りになる、俳優みたいに美しいお兄ちゃんと。


「あのー……水城、ちょっと……」


 誰かが呼ぶ声に、意識を現実に引き戻された。

 声がしたほうを見ると、廊下に大野くんがいた。ちょっと照れたみたいな困った顔をして、こちらに手招きしている。

 私や美波や佐藤さんたちがキャッキャとざわめく声を聞きながら、席を立って廊下に出た。

 他の人たちにも見られている気がして、少しドキドキしながら大野くんの前に立つ。


「なに?」

「いや、昨日さ、声かけたときに水城のお兄さん、ちょっと何か怒ってたのかなって……だから、声かけて悪かったって言いたくて」

「いや、別に……たぶん、怒ってはないから大丈夫」

「そうなの? にしても、きれーな人だな」


 特に用事はなかったのか、それだけ言うと大野くんは「へへ……」と笑って黙ってしまった。そのくせ、まだ教室に入る気配もないから、たぶん話は終わりじゃないんだろう。


「てかさ、水城は休みの日、何してんの?」


 唐突に、大野くんはそんなことを尋ねてきた。

 ちょっともじもじして恥ずかしそうにして。

 何でそんなこと聞くんだろうと思ったけど、彼の顔を見ていたらわかった。何でもないふうを装いながらも、私の様子をうかがっている。私のわずかな表情の変化も見落とさないと、そんなふうに思っているのが伝わってくる。

 この人は、別に用があって私に話しかけたわけじゃない。ただ単に、私と話がしたかったのだ。

 そう理解すると、さらに心臓がドキドキしてきた。

 普通になりたくて、周りの子たちを真似しようと必死に見ていたから、人の感情の些細な変化にも敏感になってしまった。

 大野くんが私のことを好きなのかもしれないと思うと、足元からふわふわしてくるみたいな、そんな変な気分になった。

 でも、これはいけないとわかる。もしこんな気持ちになったとお兄ちゃんに知られてしまったら、きっとまずいことになる。


「休みの日? 別に、特に何もしてないかな」

「そっか」

「うん。じゃあね」


 用がないならもう戻ることを言外に伝えて、私は廊下から教室に入った。同じクラスなのにこの戻り方は変だったかなと思うけれど、長話するのは何だか怖かった。


「何話してたの?」


 席に着くと、美波がまた寄ってきて小声で聞いてきた。


「うちのお兄ちゃんかっこいいね、だって」

「えー? それだけのためにわざわざ廊下から呼んだの?」

「わけわかんないよね」


 私はなるべく何でもないように言って、昨日の帰りの話に話題をそらした。

 車に水をかけられたのをお兄ちゃんがスプラッシュ・マウンテンと言った話をしたら、美波は信じられないくらい笑っていた。

 でも、ちょっとだけ彼女の体からヒリヒリした雰囲気を感じていて。それは放課後、帰る前に少し話すいつもの時間になっても続いていた。


「ねえ……奈子って、大野くんのこと好きだったりする?」


 何気ないふうを装っているけれど、きっとすごく勇気が必要だったんだろうなという気配をさせて、美波が聞いてきた。

 昨日とは打って変わって今日は晴れていて、雨音の代わりにうるさい蝉の声がしている。

 美波の全身からは〝緊張してます〟という空気がバシバシ出ていて、私まで緊張してきてしまう。

 私は、顔に出さないように、何と答えようかと言葉を探した。

 この返事を間違うと、きっと大変なことになる。

 だから、私はいろんな角度から考えて〝正解〟を探した。


「え? もしかして、美波って大野くんのこと好きなの?」


 悩んだ結果、私は努めて明るく、ワクワクした感じで言った。まるで、親友から恋バナを打ち明けられるのを楽しみにしているかのような、好奇心と期待が入り交じる雰囲気を全身から出しながら。

 美波は私の反応に一瞬びっくりした顔をしてから、安心したみたいに体の力を抜いた。

 それを見て、私は正解を選べたのだとこっそり安堵する。


「実は、ね……」

「え、うっそー。気がつかなかった! いつから?」

「一年の頃からいいなって思ってて、そしたら今年は同じクラスでしょ? だから、ちょっと頑張りたいなぁって……」

「そうなの? やだやだ! もっと早く言ってよ! 絶対応援するのに!」


 私は全力で、親友に恋バナを打ち明けられて喜ぶ中学生女子を演じた。その演技に違和感はなかったみたいで、美波はすっかりヒリヒリした感じをなくしている。

 照れてはいるものの、私を秘密を知った同士として扱っているのが伝わってくる。

 私が同じ男子を好きなライバルではないとわかったことで、彼女もすっかり安心したのだろう。

 ライバル認定されなかったことに私も安心して、バイバイして別れた。

 本当は、ちょっぴり嫌だったけれど、大野くんを好きだとしてしまうほうが美波のことを抜きにしてもまずいのはわかっていたから、これでいいのだ。

(空が、赤くなったら困るもんね)

 帰り道を歩きながら考えるのは、眠ったあとに意識がいつもたどり着くあの空間の空のことだ。

 何があったのか思い出せないけれど、一度だけ空が赤かったことがある。そして、そのとき確かお兄ちゃんの機嫌を損ねることをしてしまったのだ。

 あの空間とお兄ちゃんが関係しているのは間違いない。山で〝お兄ちゃん〟と出会うまで、あんなおかしな夢を見ることはなかったのだから。

 空が赤かったとき、私を締めつけるあの感触も激しかった。命の危険すら感じたほどだ。

 そのことで、お兄ちゃんの機嫌を損ねてはいけないと学習した。


「ただいま」

「おかえり」


 帰宅すると、今帰ったかのような雰囲気のお兄ちゃんに出迎えられた。たぶん、どこかに行っていたのだろう。


「仕事?」

「そう、いつものね」


 私の質問に、お兄ちゃんはいつものごとく曖昧に答える。

 両親が残したのはわずかばかりの遺産で、それは私の進学のためにとってあるのだという。

 だから、日々の生活費やら何やらは、お兄ちゃんが働いて得ているのだ。

 一体どんな仕事をしているのだろうと不思議なのだけれど、お兄ちゃんは時々人に呼ばれて話を聞きに行っている。お兄ちゃんを呼ぶ人はみんな、お兄ちゃんに話を聞いてもらうとほっとするらしくて、それに対してお金を払うようだ。

 全く意味がわからないけれど、お兄ちゃんの仕事は途切れない。おかげで私も、お金で困ったことはない。

 ちょっとうさんくさいと感じるけれど、お兄ちゃんいわく「占い師だって基本的には人の話を聞いて安心感を与えるものだろ。そういう意味では俺の仕事も同じだ」ということらしい。


「奈子、何かあった?」


 手を洗ってうがいをしてからリビングに行くと、お兄ちゃんがうかがうように見てきた。

 隠せていなかったのだと思って、私は何と返答するか悩む。

 下手に嘘をついたらバレて機嫌を損ねてしまうだろうかと考えるけれど、嘘を見抜けるかまではわからないのだ。


「実はね、友達に嘘ついちゃってさー」

「嘘って?」

「『好きな人いるの?』って聞かれたから、いないよって」


 軽めの嘘で様子を見てみると、特に表情の変化はなかった。でも、話の続きは気になるようで、視線で先を促してくる。


「別に私の好きな人を聞きたかったわけじゃなくて、ただ単に友達は自分の恋バナしたかっただけみたいだけどね。でも、大したことなくても友達に嘘ついちゃったから、ちょっとだけモヤモヤしてたの」


 ちょっと悩んでいるふうに言ってから、最後に少し困った顔でニコッとしてみた。そうすれば、大抵の大人が騙されてくれるのだ。思春期らしい悩みだと思ってくれるのだろう。

 でも、やっぱりお兄ちゃんには通じないみたいだ。

 じっと、ほの暗い目でこちらを見ていた。


「奈子の好きな人って……あの男子か? サッカー部のモテるやつ」

「え……」


 お兄ちゃんに尋ねられて、動揺が声に出てしまった。

 でも、こんなの想定内だ。


「違うよ! その友達……美波の好きな人が、まさに大野くんだったわけ!」

「じゃあ……奈子は誰が好きなんだ?」


 やっぱり、聞きたいのはそのことらしい。お兄ちゃんの目が怖い。

 答え次第ではきっと、大野くんが危ない。お兄ちゃんは、人間なんて簡単に消してしまえるのだから。

 私の両親をかつて事故に見せかけて殺したように。人間の命を奪うことくらいなんでもないのだ。

 私は大野くんが死んでしまうのは嫌だから、ここで思いきって嘘を言うことに決めた。


「えー…………お兄ちゃんだけど」


 たっぷり間を取って、私は拗ねたみたいに言った。ぷいっと視線をそらしてみせるのも大事だ。

 両親と暮らしていた頃と違って、私は不潔でもなければ痩せっぽちでも痣だらけでもない。そして、周りの人の反応を見る限りそこそこ可愛いのだ。

 美しい姿のお兄ちゃんにそこそこの可愛さがどれだけ通じるかわからないけれど、かわいこぶるのは大事だろう。


「なんだ、そんなことか。嘘なんかつかなくてもいいだろ」

「つくよ! 中学生にもなってお兄ちゃんが大好きなんて、恥ずかしくて言えないもん」

「わからんな、人間のことは」


 お兄ちゃんは解せないという顔をしつつも、あきらかに機嫌がよさそうだった。

 それを見て、こっそり安堵する。

 どうやら、お兄ちゃんは私の心の中までは読めないらしい。

 これまでも、何となくそうなのかもしれないと思っていたけれど、今ので確信した。

 お兄ちゃんには、私の嘘がわからないのだ。


「奈子、何かお願い事はないのか?」


 夕飯の支度に取りかかりながら、お兄ちゃんがそんなことを尋ねてくる。

 よっぽど上機嫌なのかなと思って一瞬油断しかけたけれど、こんな誘いに乗ってはいけないと思い直す。


「えー、ないよー。それに、お願い事したら何か取られるんでしょ? 私、差し出すものなんかないよ」


 笑顔で応じつつも、私は内心ひやりとしていた。

 お兄ちゃんは─目の前のこの存在は、三年前に山の中で私の願いを叶えてくれている。

 私の両親を殺して、お兄ちゃんになってくれるという願いを。

 たぶん、私はそのとき対価を差し出しているはずだ。当時の私に差し出せるものなんて命とか魂くらいしかなかったはずで、今は対価として渡せるものなど何も残っていないと思う。

 だから、お願い事の話なんてされるのは怖い。

 それなのに、お兄ちゃんは少し困ったような、優しい顔で笑った。

 薄くて形のいい唇は笑みの形に弧を描いているけれど、垂れた眉毛と目尻は困ったときの形だ。

 なんでそんな顔をされるのかわからなくて、私はどうしたらいいかわからなくなった。


「いらないよ。もうもらってるから」

「え?」

「忘れたのか?」


 『いらない』というのが対価の話だと、すぐにわからなかった。さらに『もうもらってる』なんて言われたら、ますますわからなくなる。

 『忘れたのか』と聞くということは、かつて私は自分の意思で何かを差し出して、願いを叶えてもらったということなのだろうか。


「え……わかんない」

「そうか。奈子は、何にもわかってないんだな」


 お兄ちゃんはちょっとあきらめたように笑って、夕飯作りを再開した。

 冷蔵庫から取り出されたのは、人参、玉ねぎ、鶏肉。ご飯を炊いているから、たぶん今夜はケチャップライスかオムライスだ。


「少し時間かかるから、眠ったらいいんじゃないか」

「……うん」


 お兄ちゃんに言われたら、何だか本当に眠くなってきてしまった気がする。

 美波のことでいつもより神経を使ったから、疲れたのかもしれない。

 目を閉じたら、水に沈んでいくみたいに、意識がスーッと薄くなっていく。でも、深くは眠りきらない感じがする。

 だからだろうか。夢を見た。


『差し出すって、何を? わたし、なにもないよ』

『なんでもいい。いらないものでも。邪魔なものなんかどうだ?』

『邪魔なもの?』

『そう。邪魔なものでも何でも、俺に差し出したら、おまえの願いを叶えてやる』

『邪魔なもの……■■でも?』

『ああ、いいな』


 体をぐるぐる巻きに締めつけられながら、あまり耳障りのよくない声と会話していた。

 これはたぶん、山での記憶だ。

 このあと私は締めつけられて、意識を失うのだ。

(そうか……このとき、空が赤くて……)

 夢の中でさらに意識を失って、気がつくとあの湿った地面と空しかない空間にいたのを思い出す。

 あのとき─願いを叶えてもらったとき、空は真っ赤だった。

 現実世界の夕焼けとは違う、べっとり溶け出したみたいな赤い空。

(空が赤くなるのって、もしかして……)

 あのときのことを思い出したくて、夢の中に深く深く潜ろうとした。

 でも、思い出すための何かが足りない。それに、体を締めつけられているせいか、潜ろうにもここからは動けないみたいだ。


「奈子、起きて。ごはんだよ」


 そっと体を揺り動かされて、目が覚めた。

 目を開けると、そこにはきれいな顔がある。

 異質で、嘘くさいほど整って歪な、私の優しいお兄ちゃんがいる。


「……うん」


 私はソファから立ち上がって、食卓に向かった。

 テーブルの上には、できたてのオムライスが並んでいる。


「嬉しい。オムライス大好き」

「だろ。毎日好きなものを作ってやるからな」

「うん!」


 私は嬉しくなって、ケチャップを手にしてお兄ちゃんのオムライスに大きくハートマークを描いた。それを見てお兄ちゃんは笑っている。

 お兄ちゃんはハート模様のケチャップを塗り広げることなく、スプーンで切り分けるみたいにして食べていった。

 それを見て、こんなお兄ちゃんが欲しかったんだよなぁと、しみじみと自分が願ったことを噛みしめる。

 夕飯を食べ終わる頃には美波や大野くんのことでモヤモヤしていた気持ちは晴れて、そのおかげかぐっすり眠れた。

 夢の中、今日の空も青かった。


 

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