第7話 大団円

「無限と無限大の関係」

 というものを考えたことがあった。

 どちらも、

「限りがない」

 という意味では同じようなものだという解釈ができるだろう。

 しかし、厳密にいえば、少し言葉としてのニュアンスが違っている。

「無限大というのは、特に大きさについて語る」

 というものであり、

「無限というのは。数量やその程度について語るものだ」

 という発想であった。

 そう考えると、

「学問として考えた時、数学的な発想が、無限大というもので、物理学や化学という方向へと考える場合は、無限という言葉を使うといってもいいかも知れない」 

 といえるだろう。

 だから、

「無限大というものが、数量であるとすれば、無限が質量」

 といってもいいだろう。

「数と質」

 ということを考えると、どちらの方が、考えやすいかというと、無限大の方であろう。

 ただ、考えやすいというだけで、その発想に、少しでも限界を感じると、その先に進まなくなってしまうといえるのではないだろうか?

 だから、無限というものは、あくまでも、数列というものの羅列だと考えると、その先に見える無限にこそ、何かの限界があるのではないか?

 という発想であった。

 だが、数学というのは、ある意味分かりやすいところがあり、

「補助線を引くことで、分かりやすくなる」

 という発想が芽生えてくるというものであった。

 それは、

「面積を求める時などに使われるやり方で、そこには、れっきとした大きさというものが証明されることになる。

 だから、補助線のように、分かりやすいものを使って、その無限大というものも、どこか証明できる何かが存在していると考えれば、

「一度行き詰ったとしても、そこから先の突破口というのは、分からないわけではないだろう」

 という意味で、

「架空数値」

 あるいは、

「虚空数値」

 といってもいいのではないだろうか?

 実際には、無限大には、∞という形で表されるものだということであるが、それが複数存在し、それぞれに、存在意義があると考えると、いずれは、証明されることもあるであろう。

 物理学においても、

「質量」

 という考え方であるが、これは、昔からの学者が考えてきた。

「不変の法則」

 などという数多くの定義で、かなりのものが証明されていきている、

 実際に、

「数学との関係」

 ということになると、難しいという発想も、当然のごとくにあったりする。

 しかし、数学における。

「無限大」

 という発想のように、楽天的に考えることは難しいのではないか?」

 と考える。

 つまりは、

「数学であれば、引き寄せの法則が成り立つのかも知れない」

 というのは、

「補助線のようなものの考え方があるからだ」

 ということになるのであれば、そういう発想のない物理学では、どのように引き寄せの法則のようなものを解釈すれば分からない」

 というものであった。

 そこで、りえは、別の考え方を持っていた。

 その発想というのは、あくまでも、

「虚空物理学」

 と自らで名付けた。

 普段から見えている物理学というものが、現実のものであり、りえの考えている発想は、さらに漠然としたもので、

「虚空」

 あるいは、

「架空」

 とまで言っていいものであった。

 普段から、自分が描くとすると、そこにあるのは、

「フィクションでしかない」

 という発想に近いものだといえるであろう。

 数学における、

「補助線に近い」

 というものを、考えたのが、物理学における、

「プラスアルファ」

 のようなものだといえるのであった。

 これは、元々、りえの中にあった、

「耽美主義」

 という発想からくるもので。

「耽美主義」

 というのは、

「モラルや倫理に基づくことのないものとして。美を最優先として考える学問であったり、表現だったりする」

 というものであった。

 つまり、たとえば、探偵小説などの中で、いわれる前述の、

「変格派」

 と呼ばれる小説で、

「猟奇殺人」

 であったり、

「異常性癖」

 と呼ばれる、聞いただけで、耳を塞いで、目を覆いたくなるような言葉であっても、それらであっても、

「美という要素」

 があるとするならば、それは立派な耽美主義だということになるのだった。

「プラスアルファと補助線はどこか共通点があるのだろうか?」

 ということであるが、

 補助線というのは、数学あるいは、そこに図形というものが絡んでくると、見えていないだけで、実際にはそれが表れているという発想であった。

「プラスアルファ」

 というものも同じ考えで、

「見えていないが、実際にはそこに存在しているもの」

 といえるのではないだろうか?

 それが、人間に対して

「都合のいい存在」

 という発想からくるものが、一種の、

「妖怪」

 であったり、

「幽霊」

 というものの存在だといえるのではないだろうか?

 それらは、

「人間に対して都合よく考えるための、超自然現象というものに対しての、一種の答えのようなものだ」

 と考えると、それはあくまでも、

「人間の発想のプラスアルファだ」

 といえるのではないだろうか?

 それを考えると。

「幽霊や妖怪の存在というのも、人間にとって、都合よく解釈するためのものだ」

 といえるのではないか?

 自然現象に対しての都合が、

「幽霊であり、妖怪」

 なのだ。

「幽霊というものは、主に。人間の魂であったり、先祖の守護、さらには、恨みをもって死んだ人間が、この世でさまよって、復讐を企てている」

 と言われるものである。

「妖怪というと、人間の魂以外のものが、建物や別の動物に憑依することで、人間に何かを訴えたり、その存在を示したりするというものである」

 と考えると、

「幽霊の方が、たちが悪いかも知れない」

 といえるのではないだろうか?

 妖怪であれば、その存在を示しているだけで、人間に攻撃的なものが少なかったりするだろう。

 しかし、人間がかかわっている幽霊であれば、

「同じ種類なだけに、幽霊の考えが分かるというもので、怨念などが終着していたりすると、乗り移られたり、下手をすると、本人の命が危うくなってしまうことだってあるということだ」

 それを思うと、

「人間ほど恐ろしいものはない」

 と言え、その際に、その恐怖が無限に続くということを考えると、

「無限というものは、本当に恐ろしいものだ」

 といえるのではないだろうか?

 それが、

「補助線というものなのか、プラスアルファなのか、下手をすれば、どちらも、人間にとっては、必要のないものではないか?」

 といえるだろう、

 補助線というのは、

「学問には必要不可欠なものだ」

 と考えると、ある意味、

「これほど恐ろしいものはない」

 という考えが浮かんでくるのではないだろうか?

 下手をすれば、

「学問は、本当に必要なのだろうか?」

 とも思えてくるが、

「学問というものは。人間の向上に必要なもので、あるのは、間違いないだろうが、そrを不可欠と考えると、どうしても、無限という発想になってくる」

 人間にとって、無限や無限大というものを証明することはできない。

 特に数学などのように、整数が、きちんと刻まれた数字によって、作られているというもので、それが、実際には、

「時系列」

 というものにも結び付いてくると考えると、

「その先にある別次元」

 としての時間軸を考えた時。最終的に行きつく先は、

「無限という発想であろう」

 そして、人間には、無限というものが、必要なのかどうか?

 と考えれば、

「決して必要ではない、そうでなければ、寿命というのもないはずだから」

 といえるかも知れない。

 だが、

「人間、寿命というものがなかったら、どうなるであろうか?」

 ということを考えると、

「いつまでも生き続けるのであれば、それでも、生まれるという行為が繰り返されるのであれば、ただ、増え続けるだけになる」

 そうなってしまうと、

「自然の摂理」

 あるいは、

「輪廻転生」

 などという、仏教思想からであろうが、当たり前のように語られていたことも、実際にはありえないことになってしまう。

 これも、結局、

「無限ではない世の中を証明する意味で、考えられたことであり、人の死というものを厳かに感じるようになったからであろう」

 もっといえば、

「幽霊の存在といってもいい、魂だけの存在である、怨霊の正体は、自然現象を証明するための、一種の都合のいい発想である」

 といってもいいだろう。

 そんなことを考えていると。

「プラスアルファというものは、組み合わせによってこそ、力を発揮するものであり。その発想は、限界の先にあるものではないか?」

 というものであった。

 さらに考えられるのは、

「無限の先に無限というものが、果たして存在するのだろうか?」

 というものであった。

「無限の先の無限」

「その間に、プラスアルファというものが存在するとすれば、プラスアルファであったり、補助線のようなものも、無限と同じではないか?」:

 という発想であった。

 りえは、その発想を思いついた時、ひき逃げに遭った時の、

「罪状の発想」

 を思い出した。

 こちらは、最後には都合よく、事を治めるということに繋がってくるのだとすれば、

「無限というものが、都合のいいという発想と、切っても切り離せない」

 という関係にあるといって過言ではないだろう。

 そう思いながら、小説を考えていくと、いくらでも、発想が浮かんでくるというものだった。

「一気に数作品のプロットが、同時に書けそうだ」

 というくらいに感じられ、その正体が、都合のいい発想ということだった。

 無限にかかわる話というものが、結局、

「都合のいい発想」

 となると、この先にあるものが、

「交わることのない平行線が究極の考えだ」

 と思えるようになってくるのだった。

 やはり、最後まで都合のいい発想が重なって。最後には答えが見つかる。それが、

「限界否定説」

 であるというのは、実に皮肉なことに違いない。


                 (  完  

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都合のいい無限理論 森本 晃次 @kakku

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