第6話 未来を変える
りえにとって、この男がどうなろうが、もう結審したのだから、どうでもいいことだった。
だが、りえが、大学に入学してから、少しして始めたアルバイト先に、偶然であったが、その男が働いていたのだった。
もちろん、事故から7年経っているので、いまさらのことであった。りえも、相手もそんな因縁が自分たちにあったなど、知る由もなかった。
りえも、あの時の事故は、
「ただの交通事故だった」
という認識が強い。
あの時は、
「ひき逃げなんて卑怯な」
と思っていたが、きちんと、捕まって、裁判にかけられ、結審したわけなので、もう、いまさらこだわることもない、
その時の犯人としても、自分の中では、
「事故は仕方がないが、放置して逃げたことが悪かったのだ」
という認識は持っていた。
ただ、そのわりに、失ったものが大きすぎたという意識が強く、
「理不尽だ」
とも思ったが、実際に溜飲が下がってみると、自分が悪かったという意識もあり、離れていった人たちに、いまさら、何の未練もなかった。
「薄情な連中だ」
という意識はあるが、
「これも、仕方のないことだ」
という意識がないわけではないのだ。
りえは、大学に入ると、
「文芸サークル」
に入り。小説を書き続けていた。
中学時代から、少しずつ書いていたが、高校時代には、さすがに大学受験というものが控えていたので、ほとんどできないでいた。
それだけ高校生活のほとんどを、大学受験に使ったといってもいい。
そんな状態で、高校時代を送ってきたので、大学に入ると、一気に気持ちも解放され、
「友達をたくさん作って、大学生活をエンジョイしよう」
という夢を抱いていた。
大学に合格し、やりたかった、小説執筆ができるように、文芸サークルのも加入した。
だが、りえは、どちらかというと、欲深い方ではない。普通であれば、
「いろいろな新人賞に応募して、いずれは、物書きになりたい」
とまでは、思っていなかった。
せっかく書いたのだから、書いた作品は、応募することはしていたが、現実的に言って、
「新人賞が取れるなどとは思っていない」
と感じていた。
りえは、現実的なことを考えていた。
そもそも、小説を書けるようになるまでに、皆結構苦労をしたという。
しかし、りえの方はあまり苦労をしたという意識はない。それは、りえの性格的なものからの考え方のあのかもしれないが、実際に小説を書けるようになるまで、
「紆余曲折を繰り返した」
という感覚になったわけではないのだった。
普通の人は、そんなに簡単にはいかないという。
一緒に入部してきた人も、
「私、まだ、一度も最後まで書ききったことがない」
という。
そして、入部動機として、
「今までに、書きたいと何度も思ってきたんだけど、結局書ききることができなかったの。だから、サークルに入れば、それができるようになる気がして、入部してきたのよ」
というではないか。
それを聞いて、りえは、
「そんな動機だったんだ」
と感じ、正直、ショックな気がした。
動機としては、正直、甘いと思ったからだ。
「書ききることができないのは、それだけの覚悟と自信がないからなんじゃないかしら?」
と思ったのであって、実際に、それは当たっているのだが、もちろん、それを本人に直接言えるわけもないと思い、話だけを聞いていると、
「大丈夫なんだろうか?」
と感じるようになったのだ。
「大学生にもなって、そんな他力本願でいいのかしら?」
と思ったのだ。
りえは、なんでも、自分で決めてきたと自負していた。
それは、中学生でも、大学生でも変わりのないことで、少なくとも、人を頼るには、
「一人ではできない」
という意識がなければだめだと思っている。
だから、
「まわりとの感覚のずれ」
の正体が、他の人が感じているのが、
「一人でできること以外は、人に頼る」
ということの違いであった。
「できる、できない」
の違いで、こんなに感覚が違うのかと、りえは思ったが、
「そこに、自信と覚悟がいる」
と感じているのは、間違いのないことであった。
りえは、先輩からも一目いかれていた。
一つは、他の部を見向きもせずに、このサークルに入ってきたのは、それだけ、文芸というものと、真剣に向き合っているということだし、実際に、その才能というか、実力も、先輩たちが見て、
「皆が認める」
といってもいいレベルにいるように見えたからであった。
りえの作風は、完全に
「フィクションに特化」
している。
「ノンフィクションを書きながら」
という人も少なくない中で、りえは、
「フィクションを書き続ける」
ということをずっとしてきていたようで、
「これから先もかわりないだろう」
とまわりに感じさせたのだった。
ただ、
「フィクションに特化している」
といっても、話のすべてが、フィクションというわけではなく、自分の体験であったり、感じたことを、フィクションに織り交ぜるというやり方をしていた。
そして、彼女の中で、
「少しでも違えば、別の作品」
という発想があった。
もちろん、他人が書いた作品を真似るなどということは、絶対的なタブーだという思いは誰よりも強かった。
しかし、自分の書いた作品と酷似しているものは、いくらでも、書けると思っている。
導入部武運であったり、話の中で出てくる考え方や、エピソードといえるような話の中では、経験したことであったり、過去に書いた話であったりしても、
「結論」
というべき、言いたいことが違っているのであれば、それは全然OKだと思っているのだった。
そういう意味では、りえは文芸に対して、さほどの厳格さを持っていない。しかし、自分独自の考えは持っていて。それが心構えであったり、自分にとっての、
「指標」
というものであり、それが、自信と覚悟に繋がることで、自分の作品が輝くと思っていたのであった。
だから、書いている作品には、
「愛情を持っていた」
といってもいい。
ジャンルとしては、昔からと変わっているわけではなかった。
「SF小説」
であったり、
「ミステリー」
というのは、変わりはなかった。
「SF小説を書きたい」
と思ったのは、最初はアニメから入ったのだが、アニメを見ていて、
「これを小説という形で、ノベライズできればいいだろうな」
と感じたことからだった、
実際に、ノベライズしてみたが、実際に、自分が想像していたような作品には、なかなかならず、ノベライズに関しては、断念したが、実際の小説を読んでみると、思ったよりも面白く、興味をそそられた。
そちらの発想から、またしても、
「SF小説を書いてみたい」
と思い、やってみると、なかなか最初こそうまくはいかなかったが、断念するという気にはなれなかった。
やはり、一度断念してしまったという意識があるからで、実際にやってみると、
「意外と面白くなってきた」
と思えてきたのだ。
そもそも、最初の断念は、
「あきらめが早かったからだ」
と思った。
「見切り発信をしてしまった」
ということであろうが、その意識は、自分の中で、何ともいえない焦りのようなものがあったからだと感じていた。
「焦ったって、得なことにならない」
ということは、分かっていたつもりだった、
ひき逃げ犯の話を聞いた時、りえの中でも、
「逃げたりしなければ、前科が付くこともなかっただろうに」
という思いはあった。
男の方も人生を半分棒に振ったという話を聞いて、その男に同情などはなかったが、
「私もいつ同じ運命になるかどうか?」
ということを思うと、簡単に、忘れるということはできなかった。
「焦って判断を誤ると、どうなるか?」
ということが、頭の中をよぎったのであった。
りえは、その時だけは、人のことを、まるで自分のことのように感じて、それを自分の中の、
「反面教師にしよう」
と思ったのだ。
だが、それ以外では、反面教師というのは、なるべく持たないようにした、それは、
「焦りさえなければ、自分は、何とか思っていたことは、実現できるような気がする」
と感じたからだった。
「自分が、どれほどの人生を歩めるか?」
などということを考えるのは、大学生になったばかりで、当時はまだ未成年だった頃の自分には、そこまで考えるのは、ある意味。
「おこがましいことだ」
といえるだろう。
今の時代でこそ、成人というと、
「18歳」
と言われるようになったが、りえの頃は、
「20歳」
だったのだ。
正直、
「高校を卒業すれば、大人だ」
という意識もあったが、大学1年生で、それはいかがなものか?」
とも言えなくもなかった、
それを考えると、
「大学生というのは、中途半端な時期」
ということで、逆に、
「しっかりしないといけない年齢なのだ」
と思うようになったというのも、無理もないことなのかも知れない。
実際に、大学生になってから、思ったのは、
「自分も一歩間違えば、大学というのを、レジャーランドのような感覚になっていたかも知れない」
ということであった、
高校時代の先生の中には、大学受験と真剣に取り組んでいながら、時々戒めのつもりだったのか、
「大学というところは、自分がしっかりしていないと、フラッとレジャーランドのように感じる方に行ってしまって、今の努力が水の泡になりかねないこともあるから、そこだけは、肝に銘じるように」
といっていたのだ。
もちろん、受験生に、
「そんなことを言われても」
と思って、困惑されるのがオチだったのだろうが、先生としては、
「これだけはいっておかないといけない」
という思いがあったのは、間違いないことだったのだろう。
それを考えると、
「私は、何とか、レジャーランドにはいかなかったけど、その誘惑らしきものは、いくつかあったよな」
と感じた。
確かに、一つだと決まっていれば、意識さえしていれば、そこを乗り越えることで、事なきを得るといえるのだろうが、、実際に、そうではないということになると、
「そんなに簡単なものではない」
と思えた。
特に、3回目を感じた後くらいからだったが、
「こんなのが、無限に続いたら、たまらないよな」
ということで、レジャーランドどころか、大学というところは、
「底なし沼のような、誘惑が潜んでいる」
という、悪魔の住むところではないか?
と感じるようになったのだ。
しかし、それも、三度目を超えた時、自分の中で、
「次が来ても自分は大丈夫だ」
という自信が芽生えたのだった。
これは、自分は3回目だったが、人によっては、2回目かも知れないし、4回目かも知れない。
つまりは、
「個人差がある」
ということになるというものだ。
大学時代の最初の難関を乗り越えたが、そこから先は、誰からも何も言われていない。
逆に言われていることを乗り越えると、確かに自信というものが出てくるのだが、それ以上何かが出てくると、乗り越えられる自信というものが、どこかないような気がした。
「足りないとすれば、何が足りないのか?」
ということを考えると、
「そこに答えがあったではないか?」
ということに気づいたのだ。
それを気づかせてくれたのが、
「文芸サークルにおける、小説を書ききる」
ということであった。
「書ききるということに、自分が何を得たのか?」
ということを考えると、
「自信であった」
ということに違いはなかったが、それともう一つが、
「覚悟」
というものだった。
それを思い出すと、それ以降の大学生活の中で、
「予期せぬ出来事が起こったとしても、それをいかに乗り越えていくか?」
という指標がどこにあるのか? というと、それは、
「覚悟である」
ということだと分かったのは、逆に、
「まだ、書ききったことがない」
といっている人を見ることで、その人が、自分にとっての、
「反面教師だ」
ということに気づいたからだった。
反面教師というのは、いつの時期にとっても必要であり、自分がその存在に気づいているかいないかは分かっていないが、実際にいるということが分かってしまうと、
「そこで、覚悟というものを知ることになる」
と考えるのであった。
ということは、反面教師というのも、そうであるが、
「覚悟というものも、複数あったとしても、それはおかしなことではない」
といえると感じたのだ。
逆に、
「覚悟というものをたくさん持っていれば持っているほど、無限に存在する自分の可能性に対応できるだけの自分というものを形成できるのではないか?」
と感じるのであった。
小説を最初は、
「たくさん書きたい」
という思いと、
「認められる作品が書きたい」
という思いが交錯していた。
それはやはり、最終的に、
「小説家になりたい」
という思いがあったからに他ならないわけだが、
だからといって、ずっと、その思いを抱き続けるというのは、思っていたよりも、難しいことであった。
というのは、
「たくさん書きたい」
という思うと、
「認められたい」
という思いとが、どこか相対性のようなものだと感じるようになったからだ。
たくさんの小説を書いていると、
「書いている時に、たくさんの可能性が広がっている」
ということを感じながら書いている時というのは、無限に発想が生まれてくる気がしたのだ、
それこそ、
「しゃべっているように書ける」
と思うようになっていて、そうなると、
「たくさん書く」
ということに関しては、さほど難しいとは思わないが、これが、
「認められるものかどうなのか?」
ということは分からない。
そもそも、認められるというのはどういうことなのか?
それは、小説家になるということであり、それは、
「書きたい小説を自由に書けるわけではない」
ということを示していた。
プロになるということは、もちろん、商業化されるものを作るということであり、
「自分が書きたい小説」
あるいは、
「得意分野」
というのが、ブームであったり、時代に乗っかった作品というわけではない、
しかし、さすがに、SF小説家に、
「恋愛小説を書いてくれ」
という依頼がいくわけではない。
そんな依頼をしても、できるわけではないことは、もちろん、業界も分かっていることであろう。
それくらいなら、最初から、
「恋愛小説のプロに頼む」
というもので、それ以外の作家は、自分のジャンルでしか勝負はできないということになるので、結果として、
「いずれ焦ることになる」
といってもいい。
野球選手で、バッターが、
「相手に、自分の苦手なコースばかりを攻められるので、苦手克服ということで、克服の練習ばかりしていて、結果、自分のバッティングフォームを崩す」
ということは、ありがちなことであった。
確かに、苦手克服は、プロとしてはしなければいけないだろう、
かといって、「そればかりを優先してしまうと、せっかくの得意なコースを打つという、自分にとってのアピールポイントがなくなってしまうというのも事実であった。
要するに、
「プロ選手が、自分の個性というものをなくしてしまうと、特徴のない、いわゆる、器用貧乏な選手になってしまい、結果、中途半端に終わる」
ということになる。
せっかくプロになったのに、
「そんな選手いたっけ?」
というほど、印象に残らないという選手であれば、
「アマチュアのままの方がよかったかも知れない」
という人も少なからず、いたであろう。
「目立てばいい」
というわけではないのだが、
「せっかくなったのだから」
という気持ちが強くないといけないと思うのは、何かの、
「引き寄せの法則」
というものではないだろうか?
そもそも、引き寄せの法則というのは、
「純粋なエネルギーの存在による、ポジティブ思考」
というものであり、
「同種のエネルギーが、同種のエネルギーを引き寄せる」
ということのようだ。
だから、同じようなポジティブな考え方の人が、さらにポジティブな人を引き寄せて、さらに大きなエネルギ^となるというような、
「どこまでも、ポジティブな考えであった」
さらに、
「ネガティブな発想をも凌駕する」
といってもいいようで、それだけ力がポジティブになるといってもいいだろう。
あまりにも、都合のいい発想であるが、そこには、科学的根拠というものが、実証されていないようで、各種の本が出ているが、科学的な裏付けはないとされている。
ある意味、
「ものは考えようだ」
といってもいいのかも知れないが、それも悪いことではないといってもいいだろう。
少なくとも、
「ネガティブにばかり考えているよりもマシだ」
といってもいい。
そもそも、
「ネガティブにばかり考え始めると、徹底的に、悪い方にしか考えない」
というのは、昔から言われていることだった。
「どこまで行っても、悪いことばかり。だから、うつ状態にも陥るのであろう」
と考えられる。
「うつ状態だから、悪い方に考えるのか?」
それとも、
「悪い方に考えるから、うつ状態になるのか?」
これは、神経内科の分野から見れば、その答えは分かり切っていることなのかも知れないが、
「気の持ちようだ」
ということなのかもしれない。
ことわざにだってあるではないか?
「病は気から」
というように、それが真理ということであれば、
「悪い方に考えるから、うつ状態になる」
といえるだろう。
しかし、うつ状態が、実はその人の中に巣くうようになり、その人の性格として位置づけられてしまったら、その時点からは、
「うつ状態だから、悪い方に考える」
ということになる。
それがうつ状態ということの継続性というものであり。
「落ち込んでいくようになると、その状態から抜け出すということは、難しいといえるのではないだろうか?」
このようなうつ状態だから、
「うつ病だ」
という判断で片付けるわけにはいかない。
というのは、同じうつ状態であっても、病気は、うつ病だけではない。
「うつ状態になる時、その前に躁状態というのが、存在していて、この二つが、周期的に繰り返すことになる」
といわれる、いわゆる。
「躁うつ病」
と呼ばれるものがある。
今では、
「双極性障害」
という言葉で呼ばれているのだが、それは、
「うつ病:
のそれとは、まったく違っているといってもいいだろう。
しかも、
「躁状態からうつ状態、そして、うつ状態から躁状態」
と、まったく逆の作用に、いきなり飛ぶのだから、その距離は、ハンパではないといえるだろう、
そうなると、
「プラスからいきなりマイナス。マイナスからプラスになる」
というわけで、忘れていけないのが、
「その間に、ゼロと通る」
ということだ。
ゼロというのは、無限である、
「限りなくゼロに近い」
という発想を裏付けるものとしても考えられるということは、
「双極性障害」
というものを、
「無限ではない」
と考えるのと同じように、
「引き寄せの法則」
というのは、どうなのか?
と感じてしまうのだった。
「無限という言葉は、どこまで行っても、限界がない」
ということなので、
「引き寄せの法則」
というものには当てはまらないといえるのではないだろうか?
なぜなら、その発想というのは、
「そもそも、引き寄せの法則というのが。純粋なエネルギーの存在に裏付けられるものだからだ」
ということからきているのではないだろうか?
そんなことを考えていると、結果、最初の考えに戻ってきたりするものである。
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