天の海を知る

鈴ノ木 鈴ノ子

天の海を知る

 掴んだらふわふわとするであろうか。

 夏山の山頂で私は両手を高々に空へと伸ばした。掴めるはずなとないのに、空と私は実測距離を跳ね除け、天の海へと届きそうであった。

 歩くことをやめてしまった両足は、両側に車輪のついた椅子の足置きにひっそりとその身を置いていた。

 前後に車輪と惚れ惚れするサウンドを奏でた乗り物から、私が乗り換えて行く年月が過ぎたのだろう。実際には数ヶ月のことなのに……。天の海を泳ぐ綿雲と私の距離のように、遠からず遠くの記憶になってしまっている。

「和葉、足掛けはいる?」

「ううん、渉、寒くないから大丈夫だよ」

 綿雲のように柔らかくふわりと気持ちを癒す声が私の名を呼び、そしてありったけの優しい瞳と微笑みが私を気にかけてくれる。私はいつも通りの冷静さで彼に返事をした。

「今日はよく見えるね」

「うん、遠くまで一望できて気持ちいいわ。綿雲が楽しそうに泳いでるみたい」

「あはは、本当だね」

 私の乗り物を押しながら彼が朗らかに言って笑った。私もつられて笑い、そして彼に手を差し出した。

「握って」

「ん?いいよ」

 握られた手に暑さが宿る。暑さはやがて熱さになって、厚さとなって心に染み込み、私を支える一部へと溶けてゆく。

「ありがとう、連れてきてくれて……」

「約束だったからね」

 そう言って握り合う手に力が籠る。

 頭天の海を綿雲がゆっくりと波のように頭上で砕けて、辺りに明暗のコントラストを作り出した。

 灰色に染まった世界、取り残された私、ふと背筋と手に力が籠る、けれど、握られた温かなねつによってすべてが溶かされていった。ツーリング中の事故、瀕死の怪我の痛み、自暴自棄へと至った感情、リハビリの悪夢、退院の絶望と街ゆく人への羨望と渇望、過去への哀愁と苛立、心の蝕みと劣化、怒涛の荒波のなってちっぽけな私が飲み込まれそうになる度に、私の心と身体のもがき。苦しみ、足掻き、耐えていた。だが毎日毎日、この手を今掴む彼の癒し手によって、深い愛の海に誘われて包まれた。泡沫の哀れな泡は掬い上げられ、柔らかな手揉みを受けて綿になる。それらが集まりて私は荒波の上できた綿雲に包まれては天の海へと昇華した。

 天の海へと昇った先で私は海の上よりやや色褪せながらも一輪の花として微笑みを宿した。対を成してくれる花もまた同じように微笑みを見せてくれていた。

「天の海が見たい」

 私が花咲く前、海の上で怒涛の波飛沫を受けていた頃、意味も無く呟いたことを彼はしっかりと覚えてくれていて、ついに今それらは眼前に広がっている。

 天の水面の上をゆく綿雲の波、照りつける夏の太陽、磯の海藻のような山々の緑、澄んだ海水の空気。

 天の海に包まれて、最愛のぬくもりを感じては、真っ直ぐに見上げる。

 ぽっかりと綿雲の波間に空が見えた。

 深く深く青い青い空。

 全てを染める濃紺の空。

 私と彼を繋ぐ海の空。

「綺麗だね」

「うん、綺麗だわ」

 陳腐な言葉がぴたりと合う。

 私は活力が全身に満ち渡るのを感じていた。

 私は天の海を泳ぐ魚となった。

 

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天の海を知る 鈴ノ木 鈴ノ子 @suzunokisuzunoki

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