うかつなあなた

香久山 ゆみ

うかつなあなた

 ピンポーン。

 インターホンの音に、玄関へ出る。ドアを開けると、スーツ姿の男が嘘くさい笑顔を貼り付けて立っている。私がドアを引こうとすると、男は革靴をドアの隙間に滑り込ませる。

「待ってください、奥さん。怪しい者じゃあないんです」

 閉まりかけたドアをぐいとひき開けて、男が名刺を差し出す。

 ――知育学習教育研究調査会認定 ○○出版株式会社

    営業部 課長 山田 太郎 住所・電話番号

 名刺を受け取った私は「はあ」と間抜けな声を出す。身元がはっきりしているなら、話くらいは聞いても大丈夫かしら。そう考えた表情が出ていたのか、男は身を乗り出し、ずんずん上がり框まで押し入ってきた。

「今日はね、学習教材のご紹介に来たんですよ」

 男が話し始める。大きな鞄から参考書を取り出し、ずらずら並べていく。

「あの、あの」

 立て板に水のごとき男の話の合間を窺って、口を挟もうとする。何度目かの挑戦のあと、「どうぞ奥さん」と、男はようやく私に話す機会を与えてくれた。

「あのですね、うちには子どもはいないんです」

 やっと言えた、私は息を吐いた。しかし。

「はい、そうですか。でも、いつかはお子さんをお考えでしょう。その時に備えた準備は早いに越したことはないんですよ。それに、親はね。子どもが生まれてからではなく、生まれる前から勉強するべきなんです」

 私の発言など意に介さないというように、男は説明を再開する。もはや私に挟む口などない。なにせすごそうな教育研究会認定の出版社の人が言うのだもの。実際、男の言う通りなのかもしれない。説明を終えた男が、書類を差し出す。

「さあ奥さん。こちらにサインと印鑑をお願いします」

 二枚複写になった書類を広げ、私の手にペンを握らせる。

「あの、でも」

「大丈夫です。ないとは思いますが、万一教材に不満を感じるようなことがあれば、特別にキャンセルできるようにして差し上げます。先程お渡しした名刺まで連絡ください」

 それでも書きあぐねる私は、書類を読むふりをして、時間稼ぎの小さな抵抗。あら? 複写の一枚目と二枚目で文章がちがう部分がある。尋ねようとして顔を上げた私を遮るように、男が一枚目の上から手で押さえた。

「ああ、奥さん。時間がない。僕は次の約束があるんですから。早くお願いします。書類はあとでゆっくり読んで。気に入らなければあとからキャンセルできるんですから」

 男に急かされて、私はおろおろとペンを運ぶ。ええと。名前を書く。印鑑は、と、どこだったかしら。すると男が口を挟む。

「そこの、玄関の鍵入れの横の引き出しじゃないですか。なければ、リビングでしょう」

 印鑑が見つかり、書類に押印すると、男はそそくさと家から出て行った。私は大きく息を吐く。後悔よりも、やっと出て行ってくれたという安堵の方が大きかった。

 その日は、その後も、保険のセールスレディや、消防署の方から来た人や、白蟻駆除の業者が来て、将来のための保険の必要性や、消火器による防災対策や、白蟻には定期的に駆除剤を撒くと予防効果覿面てきめんだとか、そんな説明を受けて、私はそれらの書類に印鑑をついた。いずれもあとからキャンセル可能だというし、ちゃんと名刺をもらっておいたから、まあ大丈夫だろう。

 ようやく日も落ちて、もうこれ以上は誰も来ないだろうと、一安心してお風呂に入っているところに、インターホンが鳴った。慌てて玄関に出ると、宅配便。早速学習教材が届いたらしい。

「重いので、中まで運びましょう」

 宅配便の男が言ってくれるが、どうも視線が合わない。視線を辿って思い当たる。そうだ、慌てて下着もつけずに薄いワンピース一枚で玄関に出たのだ。「さあ、運びましょう」、男が重ねて言う。爽やかな笑顔、宅配業者の制服、名札もつけている。まあ大丈夫だろう、私は男を玄関に上げる。ドアを閉めるや、男は荷物を放り出し、私を組み伏せた。じたばたもがいてもスカートの裾が捲くれるだけで、どうにもならない。と、玄関ドアが開く。男がぎょっとして振り返る。

「あ、あ、ご主人ですか。これはその、物が倒れてきたのを庇おうとしてですね、その」

 ごもごもと男が言う。主人が帰ってきたようだ。顔を青くした宅配便の男は、逃げるように主人の横を擦り抜けて飛び出していった。

「大丈夫か」

 主人が差し出してくれた手を取り、起き上がる。今の経緯と、ついでに、今日の訪問販売の話をすると、本当にお前は迂闊な奴だと、主人が溜め息を吐く。

「まあいい。どうせ書類に書いた名前は本当の名前ではないのだから。契約は無効だ」

 そう。私が書いたのは私の名前ではない。迂闊な私は、自分の本当の名前すらも忘れてしまって。主人に与えられた名前で生活している。

「夕飯にしよう」

 主人が私の頭に手を置き、リビングに向かう。私はぼんやりと主人の背中を見つめる。

 彼が私の庇護者。だけど。だけど、迂闊な私は、彼が私の結婚相手だということすら、本当は覚えてはいないのです。

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