特別編 貉(むじな)の化粧箱【第8話】
夏の終わりは、湿気が多い。髪の癖がひどくなる。玖矛は、手にした紙に視線を落とし、無意識に髪を撫で付けた。
連なる文字を目で追う。東の卿がまとめてくれた報告書だ。
顔を失っていた二十八名は皆、全員が元の顔に戻ったようだ。それは喜ばしいことなのだが、一方、東宮殿の中では依然として、騒動の原因を鳳晶の呪いだとする噂が絶えないらしい。
迅速に、火消しをせねばならない。つまりは、非常に厄介だ。
出掛かった嘆息を呑み込んで、玖矛は、波打つ黒髪を大きく掻き上げた。
「何をどう梳いても、その癖っ毛は変わらないと思うけど」
立てた几帳の向こうから、少々意地悪な声がする。紙束から顔を上げ、玖矛は苦く笑った。
「なんだ、暁。いつにも増して機嫌が悪いな」
「いったい誰のせいなのか、胸に手を当てて考えてみなよ」
がた、と几帳が揺れる。足先で小突かれた。
どうやら、たいそうご立腹らしい。城内市で傍を離れたうえ、件の顔無し騒ぎで〝心獣〟相手に立ち回ったのがまずかった。
先日、青晴の部屋に立ち入った折、その場に暁の姿は無かったはずだが――玖矛が刃を振るったことを、彼は明らかに知っている。おそらくは、廊下にでも控えていたに違いない。
いざというとき、玖矛を守れるように。
「……そういえば結局、城内市で肝心の品を買えなかったな」
「残念だったね。君はもう一生、市場になんか行けやしないよ」
尖った声が飛ぶ。玖矛は肩を竦めた。
「それは困るな。――――そなたに、何も贈れなくなる」
「……は?」
刺々しかった声色が、戸惑ったようなものに変わる。玖矛は、そっと微笑した。
「この際だから白状するが……東の卿への見舞いの品というのは二の次で、買わずとも良かったのだ。本当は、そなたに何か贈り物をしたかった」
いざ口にすると、小恥ずかしい。玖矛は意味も無く、うねる己の髪を一束摘まんで、指に巻き付けた。
城内市で、ぐずぐずと品を迷っていたのは、贈りたい相手が相手だったからだ。
何を贈れば、この不可思議な隣人は喜んでくれるのか、とんと見当が付かなかった。何せ、彼のいっとう好きな食べ物が何なのかさえ、自分は知らない。
その事実が、妙に口惜しく――そして、ほんの少し、寂しかった。
玖矛は、やや早口で言葉を続けた。
「私はそなたに、世話になってばかりだろう? 先般は私の浅慮で、ひどく心労もかけてしまった。私は、皇子だ。皇子とは本来、民に安寧を与えるべき存在であるにもかかわらず……このままでは、面目が立たぬ」
頭を振って弁解してみたが、応える声は無い。
黙殺されてしまうと、ますます恥ずかしくなってくる。沸き上がる羞恥をやり過ごそうと、玖矛は仕方なく、未だ緑の濃い庭へと視線を投げた。
すると、先ほどよりも大きく、几帳の揺れる音がした。驚いて振り向けば、暁が几帳の内側に滑り込んでいた。
「どうした」
思わず問うた。暁は日頃、玖矛に過度には近付いてこない。室内では殊に、すぐ隣にいたとしても、几帳を隔てて過ごすのが常だった。
今度は、暁が庭を見やる。目を合わさぬまま、玖矛に何かを差し出した。
晩夏の陽が、ちかりと瞬く。
硝子の如く透き通り、淡く色付いた金魚が、細長い棒の先に鎮座していた。
「飴細工か!」
玖矛は目を丸くして、精巧な飴を受け取った。以前に市中で見掛けて以来、ずっと欲しいと思っていたものだ。
手にした飴を、空に翳してみる。
藍を刷毛で引いたかのような、晩夏の高空。其処を、透き通った金魚が悠々と泳ぐ。
その様は、暑さなど吹き飛ばしてしまいそうに、軽やかで美しかった。
「好きにすれば」
ぶっきらぼうに言い、暁は背を向ける。玖矛は慌てて、彼の腕を掴んだ。
思えば今朝、暁は何処かへ出掛けていた。何か仕事をこなしてくるのだと、気に留めていなかったが。
「この暑い中、買いに行ってくれたのか」
「別に。僕の買い物のついでだよ。たまたま、屋台を見掛けただけ」
「ありがとう」
玖矛は素直に、顔をほころばせる。暁の紫の瞳が、ちらりと玖矛を顧みた。
「……心が腐るって、言ったよね」
「なに?」
「言った。心が腐るって。上面を舐め合うだけじゃ、駄目だって」
確かに、そんな話をした気がする。暁は落ち着きなく、左耳に揺れる耳飾りを弄った。
「……その。たまには、息、抜いたら。宮廷暮らしなんてさ、上面の舐め合いでしかないでしょ。困るんだよね。もし、君の気が触れでもしたら。とばっちりを食うのは、僕だから。まあ、だからって、あれこれ勝手に動かれるのは、いただけないけど」
暁にしては珍しく、時折つっかえながら、訥々と語る。
思いもよらぬ言葉に、玖矛は幾度も瞬きした。手元の飴を見下ろし、呟く。
「――――参ったな。また、そなたに与えられてしまった」
「あのさあ」
苛立ち交じりの嘆息が聞こえた。暁の長い人差し指が、不意に玖矛の額を押さえる。とんとんと額を突きながら、暁は言った。
「そういうの、全部要らない。皇子だから与えなきゃとか、世話になりっぱなしだとか、面目がどうのとか。……僕の前じゃ、君のどんな『上面』も意味無いよ」
生温い風が吹く。喧しい蝉時雨が、寸の間、止む。
「だって、僕は奪うだけだから。僕は、与える者なんかじゃない。僕はただ――時が来れば、君を殺す。ただ、それだけ」
深い紫の双眸が、真っ直ぐに玖矛を射抜く。それは研がれた刃にも似た、冴え冴えとした眸。貫かれたが最後、こちらの心の臓まで凍り付くかのような、恐ろしい眼差し。
その、はずだった。
だというのに、玖矛は笑った。口端が、緩やかに上がっていく。
心地良かった。
己が皇子だろうと、〝魔子〟だろうと、何であろうと、暁の態度は揺るがない。それが、心地良い。
――――嗚呼、なればこそ、己はこの殺し屋を気に入っているのだ。
ふっ、と息を零す。緋色の瞳を細める。
「分かった。では、そなたが私を葬る日まで、この飴細工は大切に愛でることにしよう」
何を贈れば、彼は喜んでくれるのか。彼がいっとう好きな食べ物は、何なのか。
何一つ知らないが、焦ることはない。
時間はまだ、たっぷりとあるのだから。
「はあ? 馬鹿じゃないの」
思い切り顔をしかめて、暁が毒づく。
「それこそ腐るでしょ。ていうか、あんまり置いとくと、溶けるよ」
心底呆れたように言って、暁は几帳の向こう側へと身を翻す。玖矛はしばらく悩んだ末に、ちろりと一口、飴を舐めた。
柔らかな甘さが、蝉の鳴き声とともに溶けていくのを、玖矛はいつまでも味わっていた。
貉の化粧箱(了)
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