特別編 貉(むじな)の化粧箱【第7話】
「こちらです」
琳明が、雑舎に並ぶ一つの部屋の前で立ち止まる。苑は首肯し、戸を軽く叩いた。
「突然にすまない。博宝局局長の万千田という。訳あって、持ち物を確認させてほしい」
しばしの沈黙の後、女の固い声音が返ってきた。
「……申し訳ございません。体調が思わしくなく、日を改めていただけないでしょうか」
その言葉に、苑は視線を鷲にやる。どう思う、と無言で問えば、部下は眉根を下げて首を横に振った。
怪しいが、確証が無い以上、無理強いするのは難しいのでは――ということだろう。
一理ある。面倒だが、此処はいったん退いて、出直した方が良いかもしれない。嘆息し、苑は「分かった」と言い掛ける。
が、苑の背後から伸びてきた誰かの手が、もう一度、戸を叩いた。
「すまぬな、青晴。しかし、事は急を要していてな。開けてはくれぬか。私からも頼む」
肩越しに振り返る。額から絹布を垂らし、顔を隠した玖矛が立っていた。
本当に来たのか、と呆れる苑に小さく笑んで、皇子は付け加えた。
「ああ、私の名はな、玖矛という」
予想だにしない来訪に驚いたのだろう。悲鳴じみた声の後、バタバタと騒がしい音が続く。ややあって、勢いよく戸が開けられた。
大きな吊り目がちの瞳をした青晴が、玖矛、苑、鷲、さらにその後ろに控える琳明を順に見る。青晴は琳明の姿に眉を動かしたが、すぐに目を伏せ、身を引いて出入り口を開けた。恭しく平伏する。
「狭く、散らかっておりますが……」
構わぬ、と言って、玖矛が部屋に足を踏み入れる。続いて中に入り、苑は瞠目した。
――――青臭い松脂に、梅の香を混ぜたような匂い。
それが、蒸した部屋いっぱいに、むうっと充満している。
常人では嗅ぎ取れぬ者も少なくない、特殊な匂いだが――苑と鷲は、揃って袖で鼻を覆った。低い声音で、苑は「油くさいな」と呟く。
この匂いは、証だ。この小さな部屋に、博宝局が回収すべきあるものが存在していることを、如実に示している。
苑の表情を察した玖矛が、さり気なく部屋の隅に立つ。苑は室内をぐるりと見回した。特段、変わった物はないように見える。行李に衣桁、文机。
だが、机上に置かれた物に、苑は目を留めた。
桜模様が流麗な、木製の化粧箱。
桜花の部分は、土台とは別の白木を嵌め込んで仕上げられている。浮き立つ白が、嫌に毒々しく見えた。
「ちょっと、見せてくれ」
断って、苑は化粧箱に触れようとした。瞬間、視界の端で何かが身じろぎする。
天井に、いる。
とっさに腰に手を伸ばし、苑は舌打ちした。玖矛の御前とあって、平素なら佩いている太刀を表で預けたままだ。小さな影が、音も無く滑空してくる。
「伏せろ!」
鋭い声に、皆、反射的に身を屈める。頭上で刃が煌めいた。ぎぃやぁっと、醜い咆哮が上がる。
痩せた穴熊のような〝獣〟の身体を、懐刀を手にした玖矛が貫いていた。
短い前足に、長い後ろ足。毛並みは、茶と白のまだら模様。
顔を失くした者たちの夢枕に立った、奇妙な〝獣〟が、現実に立ち現れていた。
「こういうとき、私は逃げねばならぬのだがな」
絹布のせいで顔は見えないが、玖矛は笑っているのだろう。声音に笑みが滲む。
「どうにも、身体が勝手に動いてしまう」
「……無茶しないでくださいよ」
苑が嘆息した瞬間、天井を仰いだ鷲が「万千田さん!」と引き攣れた声を上げた。
「〝
鷲の指した先を目で追う。うぞり、と天井が蠢いた。
否、天井だと思っていたものは全て、茶と白のまだらの毛皮だった。
「ひぃっ」
気付いていなかったのか、天井を見上げた青晴が戦慄く。青晴は頭を抱え、蹲った。
「ご、ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい……」
壊れたように、青晴は謝罪の言葉を口にした。その肩を、琳明が戸惑いながらもそっと抱く。その間に、苑は再び、化粧箱に目を走らせたが――
天井に貼り付く〝獣〟たちが、一斉に毛を逆立てた。
まだら模様が、ばらばらと降り注いでくる。
琳明が悲鳴を上げて、青晴の身体を抱き締める。何やら懐を探っていた鷲も、情けない絶叫を響かせてしゃがみ込んだ。苑はとっさに、玖矛を背に庇おうとした。
しかし一拍はやく、皇子は衣の裾を翻した。白刃を閃かせ、雨粒の如く降る〝獣〟たちを、華麗に斬り伏せていく。
「私に構わずとも良い。そなたは〝
言って、玖矛は化粧箱を指差した。
――〝鳳心具〟。それは、鳳晶の職人が手掛けた工芸品の総称だ。
持ち主を呪う、と陰で噂される宝具は――――確かに、曰く付きである。
持ち主が心を病むと、〝鳳心具〟は〝獣〟を生み出す。〝心獣〟と呼ばれるソレらは、怪異を喚ぶ。持ち主の欲や願望を映した、歪な怪異を。
そして、その怪異を調べ、密かに鎮め、〝鳳心具〟を回収することこそが、宮廷一の閑職と揶揄される、博宝局の真の使命だ。
玖矛の言葉に苑は頷き、懐に忍ばせた霊符を掴んだ。淑やかな見た目に反して、濃い匂いを撒き散らす化粧箱に、手を伸ばす。
が、その腕に、まだらの毛並みがぼとりと落ちた。穴熊に似た〝心獣〟が牙を剥き、苑の腕を駆け上がってくる。
牙の狭間から舌が覗いた、と思うが早いか、びゅるりと舌が伸びた。
顔を、舐められる。
真っ赤な舌先が、苑の青緑の瞳に迫る。苑が背を反らせると同時に、〝心獣〟は不意に動きを止めた。かと思えば舌を引っ込め、「きいっ」と叫んで身を捩り、宙に跳ねる。
悶える毛皮から、薄黄の雫が飛び散った。部屋を満たす匂いとは異なる、つんとした香りが鼻を突く。
「薄荷油か!」
苑は目を見張った。見れば、硝子の小瓶を幾つも抱えた鷲が、何かを振り被った姿勢でこちらを向いている。
「当たった!」と感極まっているのを見るに、瓶の一つを穴熊もどきに投げ付けたらしい。薄荷油を被った〝心獣〟は、五月蠅く喚いて床をのたうち回っている。
「効いて良かった! 穴熊に似た姿なら、この手の油が多少は堪えるんじゃないかと、念のために用意してたんです」
頬を紅潮させ、やや早口で話す鷲の手から、苑は数本の瓶を抜き取った。
腕っぷしも強くなければ、頭の回転もいまいちなこの部下は、けれども稀に良い仕事をする。たとえ些細なことでも、己に出来ることを考え、積み重ねる。そういう性分であるがゆえに。
――まあ、本人はそれを、美徳と自覚していないようだが。
瓶の栓を手早く抜きながら、苑は鷲を一瞥する。ごく小さな声で、言ってやった。
「…………後で、焼餅を奢ってやる」
「ありがとうございます! でも、焼餅一択ですか!?」
悲壮な声を上げる鷲を無視して、苑は化粧箱を顧みた。
箱を護るためか、其処には〝心獣〟が群がっていた。茶と白が幾重にも重なってひしめき合い、最早、箱が見えなくなっている。
苑が一歩近付くと、四方八方から朱い舌が伸びてきた。きいきいと言う耳障りな咆哮が、鼓膜を引っ掻く。
「邪魔だ」
手足を絡め取ろうとする舌の猛攻を掻い潜り、苑は、脈打つ毛皮の群れ目掛けて小瓶を投げた。薄黄の液体が、鎌の如くに弧を描いて飛散する。
びしゃりと油を被った〝心獣〟たちが数匹、激しく震えて跳び上がった。
欠けたまだら模様の中に、端正な木肌がわずかに覗く。
苑は今度こそ、懐の霊符を引き出した。生温かい毛と毛の合間に、霊符もろとも手を突っ込み、唱える。
「――鎮まれ、哀れな心の〝獣〟よ!」
ふ、と喧しい〝心獣〟の雄叫びが止んだ。化粧箱を囲んでいた、あるいは、宙を飛び交っていた数多の〝心獣〟の身体が、砂塵を伴って消滅する。
苑は、姿を晒した化粧箱に霊符を貼り付け、深く息を吐き出した。
「…………ごめんなさい」
震える女の声に、首を巡らせる。化粧箱の持ち主である青晴は未だ、部屋の隅で謝り続けていた。見開かれた黒い瞳から、絶え間なく透明な雫が溢れる。
琳明がその背を、「大丈夫ですよ」と言って何度も撫でる。青晴は涙に濡れた目を瞬いて、自分を抱く琳明を見つめた。
どうして、と乾いた声で問う。
「……どうして、私に優しくするの。私のこと、憎いでしょう」
琳明は口ごもり「好きでは、ないです」と俯いた。
「…………嫌い、です。大嫌い、ですけど。……でも、」
困ったように眉を下げた琳明は、柔く微笑んだ。
「青晴さん、泣いてるから」
それは嘘偽りの無い、琳明の優しさだった。
青晴はひくり、と喉を震わせた。琳明に肩を抱かれたまま、顔を両手で覆う。
しゃくり上げる青晴の泣き声を聞きながら、苑は密かに、部屋の戸口へと視線を走らせた。きっちりと閉めておいたはずのそれは、ほんのわずかに開いている。
その向こう、廊下の辺りに、よく知る人物の気配を感じ取っていたのだが――彼はもう、姿を消したらしかった。
「ったく、」
白髪の後ろ頭を、苑はくしゃりと掻いた。さっさと居なくなってしまった幼馴染に、悪態を吐く。
「馬鹿野郎。覗き見するほど心配だってんなら、少しは手伝いやがれ」
全く、素直じゃない奴だ。
己のことは完全に棚に上げ、苑はそう零して苦笑した。
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