特別編 貉(むじな)の化粧箱【第6話】
漏れ聞こえてくる噂によると、話はこうだ。
東宮殿の舎人や宮女、そして日ごろ世話になっている商人まで、東宮殿に関わる者たちが、次々と『顔無し』の呪いにかかっているのだという。
おそらく、最も早くその呪いにかかったのは東の卿で、思い悩んで部屋に籠っていたそうだ。それが、ついには恐怖に耐えかねて自室を出、顔の無い彼の姿に、東宮殿は悲鳴に包まれた。
奇しくも時を同じくして、城内市でも顔の無い男が現れたらしい。騒ぎはそこで終わらず、先に述べたように呪いは飛び火し続けている。
騒動が明るみになって三日、未だに顔を取り戻した者は無い。
顔を失くした者は、声を発せられなくなる。筆談で執り行われた聴取によれば、顔を失くしても物は見え、匂いも分かる。しかし見た目には、つるりとした顔があるだけだ。
もう一つ、顔を失くした者には不可思議な共通点があった。皆、顔を失くす前夜に、奇妙な夢を見たというのだ。――見慣れぬ〝獣〟に、遭う夢を。
痩せた穴熊のような、短い前足に長い後ろ足を持った、茶と白のまだら模様の〝獣〟。ソレが夢の中で枕元に立ち、顔を舐める。はっとして目覚めたときには、顔が無い。
――――やはり、これは呪いなのだろうか。
東宮殿の西の閣で平伏しながら、琳明は唇を噛んだ。
宮女たちの大半が顔無しとなり、暇を出されている。顔の残っている琳明は独り、庭仕事や掃除を続けていた。だが、そんな生活も今日で終わりかもしれない。
荷をまとめて来るよう第一皇子に呼び出され、琳明は覚悟していた。己はきっと、何か処罰を受けるのだと。
騒動が起こってからというもの、舎人や宮女の間ではもう一つ、恐ろしい噂話が囁かれていた。
何でも、鳳晶の作った工芸品が、持ち主を呪うらしい、と。
東宮殿に恨みのある鳳晶が、何らかの工芸品を創り、呪詛を込め、それをあちこちにばら撒いているに違いない、ともっぱらの噂だ。
当然、琳明は疑われた。東宮殿にいる鳳晶といえば、琳明しかいない。工芸品に心当たりはないが、冤罪だとは言い切れない。
確かに、他人の顔を見るのは苦手だから。
「一の宮様の御成りです」
従者の声に、琳明は身体を強張らせる。御簾の向こうに、第一皇子、玖矛らしき影が現れた。
「琳明。すまぬな、呼び立てて」
優しい声音だった。しかし、いえ、と答える琳明の声はか細い。
「も、申し訳ございません、一の宮様には、大変お世話になりましたのに……」
「どうした。何故、謝るのだ」
琳明は額を板間に擦り付け、口ごもる。しかし、玖矛は首を傾げた。
「何か、勘違いをしておるようだな。私はそなたに……ちと、持ち物を見せてほしいだけだ」
えっ、と驚いて、琳明はわずかに顔を上げる。玖矛は、廊下の方を向いて手招いた。
「苑、
御簾に一礼して、二人の青年が現れた。先を行くのは、やや小柄な青年。白髪に、青緑の瞳。宮廷で、己以外の鳳晶を見るのは初めてだ。琳明は目を丸くする。
彼に続くのは、かなり長身の青年だ。ただ、猫背がひどい。こちらは勾蓮だった。
琳明が驚いているうちに、鳳晶の青年は堂々と、勾蓮の青年はおずおずと、こちらへ歩み寄って来た。白髪の青年が片膝をつき、琳明と目線を合わせる。
「
局長、と聞いて琳明は呆然とした。ほどなく我に返り、慌てて荷の包みを解く。
局長――苑に付き従う勾蓮の青年が「俺は、局員の
人の良さそうな微笑みに、琳明は知らず、安堵の息を吐いた。「失礼しますね」と言って、彼は荷解きを手伝ってくれた。
琳明の荷は少ない。数枚の地味な衣や歯の欠けた櫛、ぼろぼろになってしまった、母から貰った上着を取り出せば、それでもうほぼ終わりだ。
苑は一つ一つを手に取り、しばらく眺めていたが、次第に険しい顔つきになる。
「…………油の匂いは、無しか」
小さな声で苑が言う。琳明に礼を言って荷を返した苑は、御簾に視線を走らせ、首を横に振った。
「ふむ。顔の残っている者は……まだ他にいただろうか」
御簾越しの影が呟く。琳明は、おずおずと口を開いた。
「あ、あの……顔の残っている方をお探しなのですか?」
「然様だ」
「で、でしたら、青晴さんのお話はお聞きになられましたか? 顔は失くされていないようなのですが、お部屋からずっと出てこられなくて」
「青晴か。確か、叔父上……帝の側近の姪御だな。いや、まだ聞いていない。よくぞ教えてくれた、琳明。ついでに案内を頼みたい。苑、鷲、そなたら、琳明と一緒に青晴の部屋へ向かってくれぬか。私もすぐに行く」
「いや、玖矛様がおいでにならずとも、俺たちだけで」
「東宮殿の中だというのに、雑舎というものに行ったことがなくてなぁ。良い機会だ」
無邪気に、玖矛は笑った。苦い表情を浮かべた苑が、渋々といったように頷いた。
◇ ◇ ◇
他人の顔を、見るのは得意だ。
物心付いたときから、注意深く、人の顔を観察して生きてきた。
対峙する相手が何を考え、何に苛立ち、何に喜び、何に心揺らぐのか。相対する己に、いったい何を期待しているのか。
そうしたことを人一倍、鋭敏に嗅ぎ取り、卒なくこなしてきた。
そうして己を護っていなければ、時にひどく叱責され、不躾に近付かれ、不条理にやっかまれる。帝の側近の遠縁というだけで、羨望も甘言も嫉妬も、放っておいても集まってくるから。
容易に誰かを信じることなど出来ない。
信頼した先にあるのは大抵、薄っぺらな下心か、裏切りだ。
そうと思い知れば思い知るほど、注意深く見極めた。
他人がどんな上面を被っているか。上面の下に、どんな貌があるか。
己は、どんな上面を被れば良いか。
東宮殿に入宮して、すぐに気付いた。貧しい出自も少なくない宮女の中で、後ろ盾の確かな自分は、浮いている。
年若い女たちは、群れるのを好む。群れから逸脱する存在は敵視され、嘲られ、排除される。よくよく分かっていたから、己が排される前に、別の者を標的に仕立て上げた。
気弱な、鳳晶の子。ちょうど良かった。
あからさまな陰口なんて言わない。そんなへまはしない。
自分はあくまで、焚き付けるだけ。
皆の注目が否応なく彼女に集まるよう、執拗に声を掛けた。鳳晶としての異質さが、際立って鼻に付くように。どう見ても美しい彼女に、誰もが抱く憧憬に火を付けて、嫉妬心を煽り、焦げ付かせた。
おかげで己は、狙い通りに平穏を享受できた。
それなのに時折、ひどい渇きに襲われた。胸の真ん中の、奥の奥が、渇き切ってひび割れたかのように、鈍く痛んで疼く。
私は誰も、信じられない。
同じように、誰も私を、心から信じてはくれない。
自分に向けられる愛想の良い笑顔は、どれも上辺だけのものだと、分かっていた。
――――もう、疲れた。
使い慣れた化粧箱を開き、白粉を塗りながら、ふとそう思った。
もう、誰の顔も見たくない。入念に作り上げられた誰かの上面を窺い、己も上面を貼り付ける。
そんなのはもう、たくさんだ。
誰か、私に心の奥底を見せて。温かな、陽だまりのような心を見せて。
そうして私に、嘘偽りなく、微笑んで。
馬鹿げた願いだと、己を嘲笑った。けれど、化粧箱を開くたび、やり場の無い気持ちが溢れた。
それを無理に、身の内に押し込めるように――青晴はいっそう丁寧に、白粉を、紅を、自らに塗り込んだ。
来る日も、来る日も。
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