特別編 貉(むじな)の化粧箱【第5話】
汗臭い人混みの中を、暁は少々手荒く分け入って進んだ。険を増した紫の瞳は、先を行く人物の背を捉えている。玖矛だ。
悲鳴を聞いた途端、玖矛は飛び出していってしまった。止め損ねた己に舌打ちしつつ、決して皇子を見失わぬよう、神経を尖らせる。
何が『決して、そなたの傍は離れぬ』だ。やっぱり、信用できない。
これが仕事でなければ――きっかり齢八十となった玖矛を殺すという、心底厄介な依頼さえ受けていなければ、こんな面倒な皇子のことなど、今すぐ放り出してやるのに。
くそ、と悪態を吐いた暁の眼前で、不意に人垣が途切れた。不自然な空間が、ぽかりと空いている。
一人の男の周りを、道行く人々が避けていた。
「なに、あれ」
「気持ち悪い」
「新手の疫病?」
「近付いちゃならんよ。伝染るかも」
不穏な囁きが、男を遠巻きに囲む人々の間を飛び交う。陰口の只中にいる男が、首を巡らせた。その顔を見て、暁は瞠目した。
否、顔を見た、とは言い難い。顔が、無い。
目も、鼻も、口も無い。有るのは、つるりとした肌色の皮膚ばかり。
「……やっぱり、化物だ」
誰かの呟きを発端に、人々のざわめきが熱を帯びる。
殺せ、と何処からともなく声が上がった。瞬く間に、群衆の一人が懐刀を取り出す。刃を持った男が、顔の無い人物に斬りかかった。
刹那、金物同士のぶつかる高い音が、空気を震わせた。
「やめときなよ」
深い紫の双眸が、白刃を翳した男を睥睨する。長い針のような暗器が、男の一撃を受け止めていた。暗器の持ち主――ひと跳びで男に近付いた暁は、呆れ顔で息を吐いた。
「馬鹿じゃないの。見境も無く斬りかかるとか」
刃を防がれた男は、たちまち頬を紅潮させた。
「なんだ、貴様!? 邪魔だ!」
「頭を冷やしなよ。この人に害意は無い。殺してどうするのさ。……殺しの罪は重いよ」
「馬鹿言え、化物を殺して罪に問われるわけが、」
「あんた!」
群衆の輪から、中年の女がまろび出る。女は顔の無い男にすがり付き、咽び泣いた。
「お願い、殺さないで! うちの人なんです! ついさっきまで、何とも無かったのに……!!」
暁に噛み付いていた男が、絶句して懐刀を取り落とす。それを蹴飛ばし、己の暗器を腰帯に仕舞った暁は、苛々と目を眇めた。
「で? いつまで僕の背後を取るつもり?」
すこぶる不機嫌な顔で振り返る。見慣れた紅い瞳と目が合った。暁のすぐ後ろに突っ立った玖矛は、ばつが悪そうに、もぞもぞと指を組んだ。
「……そのう、そなたの傍を、離れてはならぬと思ってだな……すまぬ」
「はっ、今更」
謝罪を一蹴し、暁は玖矛の耳元に唇を寄せた。
「この、ど阿呆。なんで出てきたの。引っ込んでなよ」
辺りに殺気は感じられないものの、玖矛の姿に衆目が集まるのは避けたい。人波に押し返そうとした暁に「だが、」と玖矛は囁き返した。
「放っておくわけにはいかぬ。これは、
発せられた幼馴染の名に、暁は一寸、動きを止める。顔の無い男とその妻を顧みた。
単に目鼻が爛れているなら、疫病かもしれない。ただ、ほんのわずかな時間に何もかもそっくり無くなったとなると、常軌を逸している。
即ち――――怪異だ。
「ね、事情を聞かせてもらえるかな。僕、これでも官吏でね」
暁のとっさの嘘を疑いもせず、男の妻は涙を拭った。
「ありがとうございます。うちは砂糖の商いをやっていまして、高嶋というのですが」
「ほう、高嶋屋」
突如、玖矛が口を挟む。その脇を、暁は鋭く小突いた。
「ど阿呆は黙ってて」
「高嶋屋さん!」
慌てふためいた声とともに、年嵩の女が割り込んできた。女は、高嶋と名乗った女の手を取る。
「うちもなの、うちの主人も、こんな顔になっちまったんだよ!」
「ええっ、曽我部さん家もかい」
「うちだけじゃないんだよ、田幡屋の番台、白濱屋の女将さん、岡元屋の若旦那も!」
顎に手を当て、玖矛が考える素振りを見せた。ゆっくりと瞬きする。
「砂糖の高嶋屋、酒の曽我部屋、反物の田幡屋、香木の白濱屋、茶の岡元屋」
女たちが、へぇっと感嘆の声を上げた。
「その通りですよ。お兄さん、詳しいねえ」
玖矛は微笑み、暁の腕を取って引っ張る。女らから少し離れ、玖矛は声を潜めた。
「……どの店の名も、聞いたことがある。私の食事や身支度のために、東宮殿の従者が世話になっている店ばかりだ」
それって、と息を呑んだ暁に、玖矛は頷いた。
「この騒ぎが、例の物絡みの事案だとすれば――その持ち主は、我が東宮殿に関わる者だろう」
ぽつ、と天から雫が落ちた。垂れた一筋は、瞬く間に激しい夕立となる。降り出した雨を追うように、低い雷鳴が轟いた。
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