特別編 貉(むじな)の化粧箱【第4話】


「最悪、最悪、最悪、最悪……」


 削り氷の屋台の縁台に座り直した暁は、ぶつぶつと呪詛のように心情を吐き出す。

その横で、玖矛は涼しい顔で冷茶を啜っていた。完食まであとわずかだった氷を巡り、玖矛と暁が言い争っているのを見兼ねた店主が、茶を差し入れてくれたからだ。

 それはそれで恥ずかしい。どうにも、この皇子の隣は調子が狂う。


 最悪と言えば、肝心の見舞いの品が決まっていないことも、暁を苛立たせていた。玖矛は意外に優柔不断で、様々な店を覗いては、煌びやかな品々を手に取るものの、財布を取り出すまでに至らない。


おまけに、その合間に「飴……飴は無いのか……」と独り言ち、無駄にうろうろと歩き回っていた。どうやら、以前に市中で買い損ねた飴細工が欲しいようだ。しかし、この暑気では飴も溶けるからか、飴細工の屋台は見当たらなかった。


そのうち、皇子の顔がにわかに赤く色付き始めた。表情は平素と変わらないが、ふうっと肩で息をする。噴き出る汗を、何度も手で拭うのが目に付いた。


皇族という生き物はきっと、こんな炎天下で歩き回ることに慣れていない。


それは、東宮殿の庭を時折散歩している玖矛も、例外ではない――四半刻にも満たない散歩では、酷暑に耐えうる体力なぞ付かない。

それに気付いた暁は慌てて、木陰にある削り氷の屋台へと、玖矛を引っ張り込んだのだった。そうして、今に至る。


市に着いてから、そろそろ約束の一刻が迫る。

茶を飲み終えたら、次の一軒で片を付けよう。皇子が泣こうが喚こうが、東宮殿に引きずって帰る。暁が算段をし始めたところで、


「おや」


と、玖矛が呟いた。声音が柔い。

視線を辿れば、幼子が居た。商人の子供か、野菜の入った籠を抱えて歩いている。重いのだろう、足取りが覚束ない。

危ないな、と暁が思った傍から、幼子は躓いた。慌てて体勢を立て直す。

転ぶのは免れたが、野菜が籠から飛び出した。こちらに茄子が転がってくる。玖矛が腰を浮かせ、それに手を伸ばした。


「触らないで!」


 半ば悲鳴じみた声で、幼子が叫んだ。玖矛が驚いた様子で手を止める。駆けてきた幼子は顔をしかめ、ひったくるように茄子を拾った。玖矛は、困り顔で微笑した。


「すまぬ、そなたから盗るつもりはなかったのだ。ただ、拾うのを手伝おうと」

「腐るから」


 幼子は奇怪な物を見るかのように、警戒心と恐怖がない交ぜになった瞳で玖矛を仰ぐ。


「〝魔子〟が、食べ物を触ると腐るから。おっかさんが、いつもそう言って、」

「ちょっと」


反射だった。考えるより早く、暁は鋭い声で話を遮った。


〝魔子〟。それは、勾蓮と鳳晶の間に生まれた者を指す言葉だ。

同時に、蔑称でもある。

――『万人天下泰平』となった今世でもなお、陰で疎まれる彼らを、貶めるための。


幼子が怯えた顔をしたが、暁は険しい表情を崩さなかった。


「感心しないね。触るだけで物が腐るだって? 馬鹿馬鹿しい」

「……暁」


玖矛が暁を制する。幼子は戸惑った表情で、暁と玖矛の顔を見比べた。見る見るうちに、幼子の唇がへの字に歪む。小さな身体が震え始めたところで、雑踏から若い女が現れた。腹が大きい。身重のようだ。

幼子が振り返り、ほっとしたように、おっかさん、と破顔した。


「先に進まないでと、あれほど言ったのに」


 幼子の頭を撫で、商人らしき女は暁たちを一瞥する。玖矛を見た女の顔が一瞬、引き攣った。女は黙って頭を下げ、幼子の手を引き、人波に紛れた。


 暁は黙った。言葉に窮した。言葉を掛けるべきなのかどうかも、分からない。

言の葉は時に、どんな凶器よりも深く、鋭利に人を傷付ける。――それを、暁はよく知っている。

しかし、当の玖矛は凪いだ瞳で、ゆっくりと茶碗を口に運んだ。


「のう、暁。私たちは日々、どれほど、他者の『上面うわつら』に振り回されているのだろうな」


 出し抜けに、玖矛は言った。

 上面、の意味を測りかねる。暁が目を上げると、玖矛は続けて唇を開いた。


「勾蓮か、鳳晶か、〝魔子〟か。皇族か、官吏か、民草か。あるいは、男か女か。大人か童か。はたまた、金を持っていそうかどうか。顔つきは、気弱そうか否か――。もし、私がもっと貧しい身なりをしていたならば、あの母親は文句を言ったやもしれぬな」


 玖矛は空を振り仰ぐ。蒼いばかりだったはずの天に、いつの間にか灰色の雲が忍び寄っていた。


「父上は、皆が等しく世を謳歌できるようにと願い、力を尽くされた」


 玖矛の父である先の帝は、民族や性別にかかわらず平等を謳う『万人天下泰平』を発布し、この国の在り方を変えた張本人だ。その功績から死してなお、三百年余の国史の中でも、きっての名君だと称されている。――あるいは、稀代の暴君とも囁かれる。

 玖矛が、つい、と睫を伏せた。


「だが、いくら理想を掲げたところで、何になろう。実態は張りぼてに過ぎぬ。私たちは皆、多かれ少なかれ、他者の『上面』に囚われている。……難儀なものだな。上面を舐め合うばかりでは、政も国も、人の心も、腐るばかりだというのに」


 風をも滞る熱気に、雑踏の景色が揺らぐ。それを見据える緋色のひとみは、屋台の影に翳っている。


 この皇子がこれまでに何をてきたのか、暁は知らない。知る由もない。

 だが。


暁は、左耳の耳飾りに触れた。小さく息を吸い込み、声を発しようとした瞬間、


「――――ば、ば、化物――っ……!!」


猛暑を切り裂く絶叫が、耳朶を震わせる。暁と玖矛は、揃って勢いよく立ち上がった。

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