特別編 貉(むじな)の化粧箱【第3話】
事の発端は、今朝に遡る。
「却下」
上目遣いでこちらを窺う緋色の瞳を見下ろし、暁は素気無く告げた。途端、玖矛は大仰に肩を落とす。
「良いではないか。ほんの一刻ほどで終わらせる。約束しよう」
「この間の有様を忘れたわけ? 君の言うことなんて、僕は信用してないから。その自覚、ある?」
そう言い放ち、暁は柳眉を吊り上げた。
早朝、暁がいつものように皇子の寝所へ顔を出すと、玖矛が突然「頼みがある」と頭を下げてきた。それも、わざわざ几帳の奥から姿を現し、跪坐したうえで、神妙な面持ちで言ってくるのだから、暁は内心で驚いた。
何事かと思えば――あろうことか玖矛は、こっそりと城外へ出て買い物がしたい、とほざいたのだ。
「自分の立場をよくよく考えることだね。それとも何。無様にくたばりたいの」
冷たく問えば、玖矛は居心地悪そうに俯いた。
先日、玖矛は公務で城外へ出た。暁も仕方なく付いていったのだが、馬鹿皇子は早々に暁とはぐれ、危うく大怪我を負いかけた。下手をすれば落命していたかもしれない。
玖矛の言動に苛々させられるのはいつものことだが、そのときばかりは、さしもの暁も腹の底が煮え滾った。怒りは今も燻っている。
「その件に関しては、反省しておる。すまなかった」
玖矛は深く頭を垂れる。暁は鼻を鳴らした。
「とても、そうは見えないんだけど。……ちなみに聞くけど、外で何が買いたいのさ」
「見舞いの品だ」
意外な返答に、暁は目を瞬く。いったい誰の、とつい尋ねれば、東の
「そういえば、ここのところ姿を見てないね」
「どうも、寝込んでいるらしいのだ。部屋から出て来ぬと聞いた。他の従者への指示は、戸の隙間から紙を差し出して、筆談で執り行っているようだが……。声を出すのも辛いのだろう」
「ふうん」
質の悪い夏風邪でもひいたのか、あるいは、得体の知れない疫病か。後者だと困る。
病に詳しい
「見舞いの品を送りたい理由は、分かったけど。それなら、信頼できる女官にでも頼んで、何か買ってきてもらえば良いじゃない」
皇子が手ずから品を買う必要は無いはずだ。しかし、玖矛は困ったように眉を下げた。
「舎人や女官が東宮殿を離れる際は、必ず東の卿に事前の許しを得ねばならぬ。外出の理由も、嘘偽りなく告げねばならん。だが、東の卿のことだ。己の見舞いの品のために他の者がわざわざ出掛けるなど、許しはしないだろう。それが例え、私の命であったとしてもだ。気遣いは無用だと、私を説得するだろうな」
「ああ」
暁は小さく声を上げた。確かに、良く言えば真面目そうな、悪く言えば頭の固そうな男だった。
玖矛が再度、頭を下げる。
「東の卿には、いつも世話になっている。そのうえ、奴が真に身体を壊しておるのなら、私は暇を出さねばならぬ。卿の状態を見定めるためにも、品を差し入れて様子を探りたいのだ。……頼む、この通りだ」
癖の強い黒髪の旋毛を眺めながら、暁は密かに嘆息した。
一度こうと決めたら、容易には意思を曲げない皇子だ。傍に居るようになったこの数年で、それはそれは思い知らされている。
どうしたものかと頭を悩ませた暁は、知らず、指先を左耳に伸ばした。ちらちらと揺れる耳飾りに触れる。
虹色に光る螺鈿細工を、ひし形の金縁が囲む耳飾り。肌身離さず持っているそれを、暁は時折、無意識のうちに弄る。思案に耽ったり、胸の奥がざわついたりすると、特に。幼い頃からの癖だった。
考え込む暁の耳に、ふと喧騒が届いた。喧騒と言っても、距離は遠い。宮廷の前庭辺りか。
常人ならざる五感を備え、尚且つ仕事柄、聴覚を鍛えた暁は、遠方の音を明確に拾うことが出来る。式典があるわけでもないのに、何故、前庭が騒がしいのだろう。
「――あ」
あることに気付いてしまい、暁は眉根を寄せた。運が良いと言うべきか、あるいは、間が悪いと言うべきか。
宮廷内に皇子を留めたまま、買い物をする。普段なら、そんなことは絶対に不可能なのだが――
「今日って、城内市がある日じゃなかったっけ」
前庭が騒がしいのは、商人たちが市場の準備に勤しんでいるからに違いない。
暁の言葉を聞いた玖矛は、ふ、と微笑んだ。
「ほう、言われてみればそうだ。……どうだ、暁。私が舎人にでも化けて、そなたとともに城内市へ出掛けるというのは。決して、そなたの傍は離れぬ。この玖矛の名にかけて誓おう」
嫌に明るさを増した玖矛の声音に、暁はたちまち紫の瞳を見開いた。全てを察する。
こいつ。
「……まさか、初めから城内市に行くつもりで、」
「さあて、そうと決まれば支度だな」
目を剥く暁を尻目に、玖矛は軽やかな足取りで几帳の奥へと引っ込む。
嵌められた。
暁は拳を握った。思い切り振り被りたくなるのを、どうにか堪える。
「ッ、僕、今日はもう、君とは絶っ対に口利かないからねっ!!」
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