特別編 貉(むじな)の化粧箱【第2話】
何だって、己がこんな目に遭わねばならないのだろう。
裏の世では長らく、泣く子も黙る殺し屋だと囁かれてきた。眼差し一つで、標的の息の根を止められると畏怖された。決してあいつの機嫌を損ねてはならない、下手を打てばこちらの首が飛ぶ――同業にさえ、そんなふうに恐れられていたというのに。
そんな自分が何故、骨の髄まで炙られるような、暴力的な暑気に、じっと耐えねばならぬのか。それも、他人のクソどうでもいい買い物に付き合うために。
「
隣から聞こえる呑気な声を、
簡素な屋台の前で縁台に腰掛けた暁は、苛々と足を組み直した。一つに括った長い赤髪が、汗ばんだ首筋に纏わりついて気持ち悪い。鳳晶特有の端正な顔を歪め、半眼になった紫の双眸で、暁は目の前の雑踏を睨み付けた。
見ているだけで暑苦しい、活気づいた人波だ。波を成すのは
此処は、宮廷『
「
相も変わらず、のんびりとした声が話し掛けてくる。次いで、しゃく、と匙で氷を掬う音がした。暁は再び、だんまりを決め込む。
城内市とはその名の通り、宮廷の内部で定期的に開かれる市場を指す。日々、何かと物が入り用な宮廷において、城外での物資調達の手間を省くことが狙いだ。
つまり、この場での購買は、れっきとした職務の一環――であるはずなのだが、中には、どう見ても私的な買い物をしている者もいる。というか、半数以上がそうだ。
そもそも、暁が背にしている屋台は甘味処だ。そんなものが堂々と商っていることからして、城内市はもはや、ただの賑やかな市場に成り下がっていた。
暁の眉間の皺が深くなる。仮にも帝の膝元だというのに、ひどい体たらくだ。公安局の連中が警備のために巡回しているものの、きちんと機能しているのか疑わしい。
「よし、分かった。分かったぞ」
不意に、真横から匙が突き出された。細長い木の匙の上に、細かく砕かれた氷がこんもりと盛られている。思わず、横目で隣を見てしまった。硝子の器を片手に持った、憎たらしい人物が、満面の笑みを浮かべている。
「さてはそなた、削り氷を食したことがないのだな? これがどれだけ美味な冷菓か、知らぬと見た。かく言う私も、片手で数えるほどしか味わったことは無いが……そら、分けてやろう。そら、そら」
そう言って、隣に座す貴人――今は舎人に扮している――は嬉しげに匙を振る。
癖の強い波打つ黒髪に、紅い瞳。色彩のちぐはぐな見目は、この人物が勾蓮と鳳晶の間に生まれた者――通称〝
即席の市場を行き来する人々は、よもや夢にも思うまい。
まさかこの人物が、この国の第一皇子である、などとは。
「……馬鹿言わないでよ。味くらい知ってる。削り氷なんて、やたら高価なだけで別に、」
唇を尖らせ、言い返そうとした暁は、すぐさま舌打ちした。しまった。
今日は
案の定、玖矛の口端が吊り上がっていく。屈託のない笑みを、どこか意地の悪いものに変えて、玖矛は目を細めた。
「然様か。そなたは存外、美食家なのだな。では、いっとう好みの食べ物は何だ? 苑と同じように、甘味が好きだということは知っておるが、その中でも、」
ここぞとばかりに、艶やかな唇がつらつらと言の葉を囀り始める。暁はもう一度舌打ちし、未だ目の前にあった匙に、自棄になって噛み付いた。ついでに、皇子の手の中の器を奪い取る。
行儀が悪いとは思いつつ、暁は硝子の縁に唇を付けた。器の底にいくらか残っていた、溶けかけの氷を一気に喉に流し込む。
「あっ! 何をする!」
慌てふためいて玖矛が手を伸ばしてくるが、素早く立ち上がって避ける。氷をひと息に食ったせいで、こめかみが、きいんと痛んだ。それでも尚、暁は深く器を傾ける。
「ひどいぞ! それは私の氷だというに!」
童のように文句を言う皇子の声が、夏の終わりの青過ぎる空に吸い込まれていく。
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