特別編 貉(むじな)の化粧箱【第2話】

 何だって、己がこんな目に遭わねばならないのだろう。


では長らく、泣く子も黙る殺し屋だと囁かれてきた。眼差し一つで、標的の息の根を止められると畏怖された。決してあいつの機嫌を損ねてはならない、下手を打てばこちらの首が飛ぶ――同業にさえ、そんなふうに恐れられていたというのに。


そんな自分が何故、骨の髄まで炙られるような、暴力的な暑気に、じっと耐えねばならぬのか。それも、他人のクソどうでもいい買い物に付き合うために。


あかつきや。そなた、本当に食さぬつもりか? 奢ってやると言っているだろう」


 隣から聞こえる呑気な声を、じょう暁は黙殺した。声の主の方をあえて向かずに、深く息を吐く。

 簡素な屋台の前で縁台に腰掛けた暁は、苛々と足を組み直した。一つに括った長い赤髪が、汗ばんだ首筋に纏わりついて気持ち悪い。鳳晶特有の端正な顔を歪め、半眼になった紫の双眸で、暁は目の前の雑踏を睨み付けた。


 見ているだけで暑苦しい、活気づいた人波だ。波を成すのは舎人とねりや女官、官吏、そして商人という、一風変わった取り合わせ。


此処は、宮廷『けいじょう』の表玄関。都大路との境にほど近い、前庭に当たる。だだっ広い石敷きの広場は平素、典礼などに用いられる。が、今はその白い石材を露店や屋台が覆い尽くしていた。有象無象の人混みが、店々の間をひっきりなしに行き交う。


五十日いかに一度の『城内市』。さすがの人出だな」


 相も変わらず、のんびりとした声が話し掛けてくる。次いで、しゃく、と匙で氷を掬う音がした。暁は再び、だんまりを決め込む。


 城内市とはその名の通り、宮廷の内部で定期的に開かれる市場を指す。日々、何かと物が入り用な宮廷において、城外での物資調達の手間を省くことが狙いだ。

つまり、この場での購買は、れっきとした職務の一環――であるはずなのだが、中には、どう見ても私的な買い物をしている者もいる。というか、半数以上がそうだ。


 そもそも、暁が背にしている屋台は甘味処だ。そんなものが堂々と商っていることからして、城内市はもはや、ただの賑やかな市場に成り下がっていた。

 暁の眉間の皺が深くなる。仮にも帝の膝元だというのに、ひどい体たらくだ。公安局の連中が警備のために巡回しているものの、きちんと機能しているのか疑わしい。


「よし、分かった。分かったぞ」


 不意に、真横から匙が突き出された。細長い木の匙の上に、細かく砕かれた氷がこんもりと盛られている。思わず、横目で隣を見てしまった。硝子の器を片手に持った、憎たらしい人物が、満面の笑みを浮かべている。


「さてはそなた、削り氷を食したことがないのだな? これがどれだけ美味な冷菓か、知らぬと見た。かく言う私も、片手で数えるほどしか味わったことは無いが……そら、分けてやろう。そら、そら」


 そう言って、隣に座す貴人――今は舎人に扮している――は嬉しげに匙を振る。

 癖の強い波打つ黒髪に、紅い瞳。色彩のちぐはぐな見目は、この人物が勾蓮と鳳晶の間に生まれた者――通称〝魔子まこ〟だということを示している。


 即席の市場を行き来する人々は、よもや夢にも思うまい。

まさかこの人物が、この国の第一皇子である、などとは。


「……馬鹿言わないでよ。味くらい知ってる。削り氷なんて、やたら高価なだけで別に、」


 唇を尖らせ、言い返そうとした暁は、すぐさま舌打ちした。しまった。

 今日は皇子こいつと、絶対に口を利いてやらないつもりだったのに。

 案の定、玖矛の口端が吊り上がっていく。屈託のない笑みを、どこか意地の悪いものに変えて、玖矛は目を細めた。


「然様か。そなたは存外、美食家なのだな。では、いっとう好みの食べ物は何だ? 苑と同じように、甘味が好きだということは知っておるが、その中でも、」


 ここぞとばかりに、艶やかな唇がつらつらと言の葉を囀り始める。暁はもう一度舌打ちし、未だ目の前にあった匙に、自棄になって噛み付いた。ついでに、皇子の手の中の器を奪い取る。

行儀が悪いとは思いつつ、暁は硝子の縁に唇を付けた。器の底にいくらか残っていた、溶けかけの氷を一気に喉に流し込む。


「あっ! 何をする!」


 慌てふためいて玖矛が手を伸ばしてくるが、素早く立ち上がって避ける。氷をひと息に食ったせいで、こめかみが、きいんと痛んだ。それでも尚、暁は深く器を傾ける。


「ひどいぞ! それは私の氷だというに!」


 童のように文句を言う皇子の声が、夏の終わりの青過ぎる空に吸い込まれていく。


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