心獣の守護人 ―秦國博宝局宮廷物語―

羽洞 はる彦/メディアワークス文庫

心獣の守護人 ―秦國博宝局宮廷物語― 書き下ろし特別編

特別編 貉(むじな)の化粧箱【第1話】


他人ひとの顔を、見るのが苦手だ。


 仮に相手が黙っていても、優しく声を掛けられても、顔を見れば自ずと心のうちが分かる。わずかに動いた眉から、目元から、口端から。相手が、自分をどう思っているのか。 

 厄介者。役立たず。気持ち悪い。

そんな、心が冷えるような思いばかり、感じ取ってしまう。


「…………はぁ」


秦國しんこくの宮廷、中でも東宮殿付きの宮女であるりんめいは、周囲に人がいないのを良いことに、大きくため息を吐いた。

こうしてひとり、御庭の世話をしている時間が、最も安らぐ。抜いた雑草を桶に入れ、琳明は屈めていた身を起こした。

額に滲む汗を拭う。刻限はまだ早朝に近い。なれど、晩夏の陽はすでに天高く、噎せ返るような草いきれが、庭の其処かしこに立ち込めていた。


 この庭、ひいては東宮殿の主である第一皇子は、豪奢な暮らしを好まない。皇族にしては、庭は慎ましやかだ。ただ、それでも熱は籠もる。殊に今年は、残暑が厳しい。煙るような濃い緑の中、傍らに咲く低木の花に、琳明は目を留めた。


仄かに紅い真ん中から、外へと開く白い花弁。木槿むくげの花だ。

琳明は、柔らかな花弁にそっと触れ、「綺麗」と微笑んだ。他の宮女たちは、手指や履物の汚れる庭仕事を嫌う。


もったいない。こんなにも、花々は麗しいのに。


桶を地に置き、琳明は前掛けの衣嚢に手を入れた。鋏を取り出す。一輪刈って、皇子が食事を取る餉間かれいのまに飾ろう。厳しい暑さにもめげず、咲き誇る白い花は、きっと皇子の心を和ませてくれるはずだ。

切り取った場所が目立たぬよう、生い茂る木槿の奥に手を伸ばした。


途端、ぬかるみに足を掬われた。つい先ほど、己がたっぷりと水を撒いたせいだ。

琳明の喉から「ひゃっ」と悲鳴が漏れる。身体が後ろへ傾いた。

転んじゃう。――また、他の宮女みんなに笑われる。琳明は、ぎゅっと目を閉じた。


「おっと」


 しかし琳明の身体は、涼やかな声とともに、誰かに柔く抱き留められた。


「大事ないか?」


問われ、琳明は驚いて目を開ける。背後を、そっと見上げた。

白い絹布を額から垂らし、顔を隠した人物が琳明の肩を抱いていた。顔を隠すのは、貴族の女性にはよくあることだ。しかし身なりから見て、この人は男性だろう。癖の強い波打つ黒髪も、首筋にかかる程度の長さで切ってある。


つまりは――相当に、身分の高い男性だ。此処、東宮殿であれば、第一皇子くらいか。

状況を察した琳明は、血相を変えた。


「も、ももも申し訳ございませんっ」


慌てて身を離し、平伏しようとした。しかし一拍早く、秦國第一皇子――は、それを留めた。


「よさんか。衣が汚れるだけではないか」

「は、はいっ、も、申し訳……」


 唇を震わせながら、琳明は出来る限り深くお辞儀する。皇子が、苦笑した気配がした。

 つい、と長い指が琳明の顎を持つ。玖矛は優しく、琳明の顔を上向かせた。


「斯様に謝るな。……ふむ。美しい瞳だな」

「へっ?」

「いつも遠目に、庭にいるそなたを見ていた。我が草木を愛でてくれて、礼を言う」

「そっ……み、身に余るお言葉でございます!」


 琳明は頬を赤らめて、絹布を見つめる。この方は、顔が見えない。

だから、か。怖くない。


「日射しがこたえるであろう。今朝は、もう下がると良い」

 温かな言葉が、耳に届いたままの温度で心に染み込んでいく。

「……ご厚情、心より感謝申し上げます」


 琳明はもう一度、丁寧に腰を折った。傍らの木槿がいっそう眩く、輝いた気がした。


◇ ◇ ◇


 軽い足取りで、琳明は雑舎へ続く砂利道を進んだ。皇子の言葉を思い出し、頬がにやけそうになるのを、必死に堪える。雑舎の瓦屋根が見えてくると、琳明はいっそう頬に力を入れた。


 雑舎は、東宮殿に仕える宮女たちの仕事場であり、住まいでもある。今ごろ、それぞれ自室から起き出して、詰め所にある鏡台を代わる代わる使いながら、身支度を整えていることだろう。

 ひとところに年若い女子たちが集い、忙しなく手を動かし、笑い合って取り留めのない話をする、華やかな朝のひと時だ。……そう、きっと、傍目に見れば。


 雑舎の裏口に着いたときには、両の足は重たくなっていた。引き戸に手を掛け、琳明は深呼吸した。此処を開ければ、すぐに詰め所だ。そろそろと、努めて音を立てずに戸を開けた。

 土間に入った瞬間、己と同じ年頃の娘たちが、一斉にこちらを見る。おそらくは、反射的に。そして瞬く間に、彼女らの表情から色が消える。


――――なんだ、お前か、とでも言うように。


 大半の者は琳明からすぐに視線を外し、各々髪を梳き、紅を引き、近くの者とおしゃべりに興じ始める。それで良いのだ。興味を持たれないくらいが、ちょうど良い。


「琳明」


 脱いだ沓を揃えていた琳明は、同僚の呼び掛けに小さく肩を跳ねさせた。首を巡らせる。声の主は、数人とともに鏡台を囲み、にっこりと笑んでいた。


「また早くから御庭に行っていたの? くたびれたでしょう。こっちにいらっしゃいな」


おいで、と手招く青晴しょうはは、いつも宮女の輪の中心にいる。器量が良く話し上手で、仕事の手際も良い。何より、帝の側近の遠縁に当たるのだそうだ。だから此処では、誰しも青晴に付き従い、彼女の機嫌を取る。

琳明は、そうっと鏡台へと近付いた。


「手を見せて」


 言われるがままに、琳明は青晴の前に両の手を差し出す。手汗が滲んだ。


「まぁ、爪の中が土で真っ黒じゃない」


青晴が大げさに身を乗り出して、琳明の指を眺める。青晴から、濃い白粉の匂いが香った。対して自分は、きっとひどい汗の臭いだ。琳明は、奥歯を噛んだ。


「ご苦労様。暑かったでしょう。白粉を貸してあげましょうか」


 柔く、青晴は問うてくる。いえ、と琳明はごく小さな声で断った。

琳明は、同僚たちと違って自前の化粧道具を持っていない。いや、持ってはいたが、入宮して早々に無くなったのだ。きちんと行李に仕舞っておいたのに、ある日仕事から戻ると、何もかも消え失せていた。以来、琳明は化粧をしなくなった。


化粧道具だけではない。大事にしていた漆の櫛も、綺麗な刺繍がお気に入りだった上着も、全て無くなった。上着に至っては、無理やりに引き千切られたうえ、何箇所も鋏を入れられたような無残な姿で、屑籠に捨てられているのを見つけた。

故郷の母から譲り受けた、思い出の詰まった衣だったのに。


「ああ、そうよねえ。琳明に、白粉は必要ないものね。肌がとっても白いもの」


 顔を上げた青晴と、目が合う。青晴は、微笑している。けれど、琳明は分かっていた。

それが、貼り付けたような微笑みだということを。


「良いわよねえ、白粉が要らなくて。紅も、簪も要らないわよね。ほら、琳明は何もしなくても、色で溢れているでしょう?」


 くすくすくす、と笑う声が聞こえた。青晴の取り巻きたちが、口元をあからさまに袖で隠す。


「琳明は、立っているだけで華みたいだものね。御庭仕事がぴったりだわ」


青晴の声はよく通る。ざわめいている室内でも、皆に充分、聞こえたのだろう。囁きにも似た密やかな笑いは、詰め所の隅々にまで伝播した。


黒髪に黒い瞳をした宮女たちの中で、琳明は明らかに浮いていた。

長い髪は、若葉を思わせる萌黄色。大きな瞳は、明るい空色。そんな異様な出で立ちをしているのは、此処では琳明唯一人。四方から突き刺さる視線に、琳明は息を詰めた。


秦國この国には、二つの民族がいる。

一つは、こうれん。かつて大陸からこの島に渡ってきた、黒髪こくはつ黒眼こくがんの民。

もう一つは、鳳晶ほうしょう。古くから島に住まい、色鮮やかな髪と瞳、妖しいほどに美麗な容姿を持つ――『魔の使い』と蔑まれてきた、異端の民。


琳明は、東宮殿に仕える従者の中で、たった一人の鳳晶だった。


先帝の発した『万人天下泰平』の法に則り、宮女らにも鳳晶が登用されるようになった。しかし、鳳晶の従者は決まって、長くは勤めずに辞めてしまうという。

理由は、おおよそ察せられる。


「羨ましいわ、琳明は綺麗だから」

「……そんなこと、ありません」


 執拗に見つめてくる青晴から目を逸らし、ぼそぼそと琳明は言う。

向けられる言葉そのものは、優しいのだ。あくまで面と向かっては皆、琳明を貶めはしない。だが、その顔は。


軽蔑、侮蔑、愉悦、嘲弄。三日月型に歪んだ瞳から、吊り上がった口角から、冷えた眼差しから、伝わってくる。這い上がってくる。


 琳明は無意識のうちに、深く息を吸った。白粉と紅と、髪結いに使う香油の香りが混ざり合い、むっとした匂いとなって鼻腔を満たす。吐き気がした。

誰の顔も見なくて済むように、琳明は頭を垂れて俯いた。


「…………あの、私、手を洗ってきます」


 青晴に頭を下げ、奥の戸を開けて廊下へ逃げる。後ろ手に閉めると、ひそひそ声が漏れてきた。


 ――見た? あの手。いかにも頑張りました、って感じ。

 ――毎日毎日、土いじりなんかして、女官長に気に入られたいのかしら。

 ――ねぇ、ひょっとして、一の宮様の御目に留まろうって魂胆なんじゃない。

 ――やだぁ。でも、殿方を誑かすのは、お綺麗な鳳晶あの人たちの十八番よねえ。


唇を、きゅっと噛み締める。琳明は、手水場へと急いだ。

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