世界の果てと、アクアリウムの人魚たち
紫陽花 雨希
第1話 【水族館の、久しぶりのお客さん】
宇宙の辺境の星である地球の、さらに辺境にある街。全ての魚が眠りについているような、静かな海に面したこの港町の片隅にある水族館が、私の職場である。
元々は絶滅の危機にある種族の保護のためにつくられた施設であり、宇宙連合からの補助金によって維持されているため、客なんて全く来なくてもやってゆける。娯楽施設ではないのだ。それでも一応、「水族館」であるため、私のような受付嬢がいる。私の仕事は、開館時間である朝の六時から閉館時間である夜の十時まで、ずうっと誰も来ない入館口に座っていることだ。そこに居さえすれば、何をやっても良い。私はたいてい読書をしている。まだ地球が宇宙連合に加入していなかった時代の、古い古い児童文学がお気に入りだ。今となっては当たり前のものである魔法も宇宙人も、その時代ではファンタジー、空想の産物でしかなかった。当時の作家たちは、よくもまあ、想像力を豊かに働かせたものだ。「本物」にかなり近いところまで迫っている作品もあれば、とんでもないものもある。私はリアリティの面から小説を批評しつつ、その物語の本質――作者が伝えたかった心は何なのかを探ろうとする。感情を、倫理観を、情熱を、罪悪感を。世界は大きく変わったけれど、私たちは変わらない人間なのだから、きっと私にも伝わるはずだと信じている。
きりの良いところまで読み終えて、私はぱたんと本を閉じた。薄暗い館内をちらりと見て、その薄暗さとはまた違うじっとりとした暗さの漂う外にも目を向ける。今日は、夜明け前から雨が降っている。空はどんよりと重そうな雲に覆われており、ガラス戸を絶え間なく雨粒が打つ。ガラスに引かれては消えてゆく透明な線を、ぼんやりとながめる。飽きて再び本に視線を落とした時、
「すみません。大人、一人」
という声が頭上でした。はっとして顔を上げる。見知らぬ女が立っていた。色白の頬に、深い藍色をした髪がくるくると渦を巻きながらかぶさっている。すっと筆で引いたような切れ長の目も、夏の海のような深い藍色だった。彼女の美しい顔にしばらくの間見とれていた私は、はっと我に返る。
「大人、一枚ですね」
机上にあるチケットの束から一枚をちぎり取り、今日の日付が入ったスタンプを押した。
「本日中であれば、何度でも再入館できますので」
女は無言でうなずき、受け取ったチケットをまじまじとながめている。何故かなかなかそこを動こうとしないので、私はどきまぎしながら
「あの……何かご質問がありますか?」
と声をかけた。女は食い入るように見ていたチケットから視線を私の顔に移す。
「このチケットに載っている写真の生き物を、あなたは実際に見たことがありますか」
「え、はあ、まあ。ありますが。今は展示されておりません。十年前の写真です」
「私はこの魚を探すために、ここに来たんですよ。しかし、本当に見つけられるとは」
「へ?」
堅かった女の表情が、そのとき初めて緩んだ。
「お嬢さん、館内を案内してくれませんか?」
「そういうサービスは行っておりません。月に数回、学芸員による館内ツアーが行われておりますが、あいにく昨日終わったばかりです」
女はふっと笑い、身をかがめてプラスチックの板越しに私に顔を近づけて来た。藍色の目が、虹彩のしわの一本一本を数えられるほど近くなる。
「どうせ、他に客なんて来ないでしょう。私はあなたと話がしたいんだ」
変な人だなぁと、ぼんやりと思った。私も彼女と話してみたくなったが、たとえ客が来なくても業務は遂行しなければならない。
「ごめんなさい」
私がそう答えると、女は体を起こし、はおっていた紺色のガウンコートのポケットに両手を突っ込んだ。薄暗いエントランスの、青灰色の壁を背にして立つ背の高い女。その白すぎる肌に、灰色の雨の陰が幾筋も幾筋も流れては消えてゆく。暗く沈んだ世界の中で彼女の目だけが、天井の蛍光灯の光を白くつやつやと反射している。悪い夢のような光景。ふっと、雨が香った。
「もうすぐ、この街は海に沈む。宇宙連合軍による新型兵器の起動実験に巻き込まれるんだ。その前に、私は君を救い出すために来た」
「その話が本当かは分かりませんが、どうして私を?」
「私は君のお父さんの旧友なんだ。おっと」
女は、自分の左手を見た。手首に、銀色の腕時計がはまっている。
「もう時間がない。さあ、早く一緒に行こう。信じてくれ、私を」
女が私に向かって手を差し伸べる。不思議な引力が働くように、私も手を伸ばす。こつん、とプラスチックに指先が当たった。自分と彼女の間に、壁があることを忘れてしまっていた。今の私は正常じゃない。夢の中にいるように、現実感がない。
両手でぱちんと自分の頬を叩くと、ため息をついて立ち上がった。ここから離れ、もう二度と帰って来られないのだとしたら、持たなければならないものがある。
私は事務室の鍵のかかる引き出しからポシェットを持ち出し、女の元へと向かう。ガラスを通さずに見た彼女は、ごく当たり前の人間らしい肉体を持っていた。
「さあ」
女が、改めて白い手を差し出して来る。私はそれを握った。どくり、と血管が脈打つのを感じた。それが私のものなのか、彼女のものなのかは分からなかった。
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