第3話 【宙港】
トオリさんの運転するクリープラーで、私たちはずいぶんと長い間海の上を飛び続けた。どこまで行っても、眼下にはただただ濁った青色の海原が広がっている。やがて雨雲が切れ、青空が見え始めた。灰色の雲の切れ間から、何本もの天使のはしごが下りている。涙が出そうなほど、美しい眺めだった。私たちは光と影が複雑に混じり合った明るい世界の中を飛んでゆく。
ゆっくりと、空が白み始める。太陽が水平線の向こうに沈むまでの短い間、空と海の間はオレンジ色と黄色と紺色がグラデーションになる。まるで、神様が水彩絵の具を垂らしたように。せっかちな星が、ぽつりぽつりと輝き始める。紺色の占める割合がだんだん大きくなり、日が完全に落ちて、真っ暗な世界に銀色の波が光りながら揺らめく。
寂しい、日没。人間には決して手が届かない、自然の雄大さをひしひしと感じた。
トオリさんは、ずっと黙っていた。私も何を話して良いのか分からなくて、ときどき涙ぐんだりしながら温かい腕に抱かれていた。
「そろそろ、宙港につく」
突然だったので、最初はそれがトオリさんの声であることに気付かなかった。しばらく経ってから話しかけられたのだと分かり、
「宇宙船の発着所ですよね」
と答える。声は掠れていた。
「ほら、あっち」
彼女の指さす先に、たくさんの小さな星のような灯の一塊が見えた。それは全体的にドーム状になっており、数本の光るラインが放射状に伸び出している。
「君は、宇宙に行ったことはある?」
「一度だけ、あります。父がまだ生きていたころに、家族旅行で月に」
「月かぁ。ちょっと散歩にってレベルだな。私たちがこれから行くのはもっと遠く。世界の果てだ」
「世界の果てって……この世界の創造主である『神』の、目の行き届く範囲の外に出たいってことですか?」
ふふっ、とトオリさんは笑った。
「そうだよ。私はそこで、やりたいことがあるんだ」
「神の世界の外なんて、私たちが存在できるかどうかも分からないのに!」
びっくりして、思わず声が大きくなる。トオリさんはまたくぐもった笑い声を出すと、それ以上は何も言わず、ゆっくりとクリープラーを下降させていった。
宙港の、野外駐車場に降り立つ。既に最終便が出た後だったので、辺りは静かだった。たくさんの自動車が並ぶ中、トオリさんはクリープラーの手すりをぐいと下に押す。すると、機体がぱたりぱたりと折り紙のように畳まれ、手で持ち運べる鞄ほどのサイズになった。彼女はそれを軽々とかつぎ、
「中に入ろう。この時間でもやってるレストランがある」
と言って、建物の入り口に向かって歩き出した。私は駆け足で彼女を追う。半日も立ったまま飛んでいたのに、脚は強張っていなかった。おそらく、機体に体への負担を軽減する特殊な装置が内蔵されているのだろう。
「大阪夢の島宙港」という白い文字の光るゲートを超え、無機質な光に満ちたドームの中に入ってゆく。客の姿はまばらだった。トオリさんは迷いもせず、ずんずんと奥へと大股で進む。
きらびやかな宝石や酒瓶の並ぶ免税店に目を奪われる。天井に突き刺さるような円柱型の水槽の中にはサンゴ礁が再現されており、色とりどりの魚が舞っていた。どこに目をやっても輝くものばかりで、いつも水族館の薄暗い受付に座っている私には眩しすぎた。きょろきょろしていると、右手をぐいと引っ張られた。いつの間にか隣に来ていたトオリさんが、
「子どもみたいだな。はぐれちゃうぞ」
と微笑みながら私と手を繋ぐ。恥ずかしくて、彼女から視線を外した。
「ここだ。地球に来たら、必ず来る店だよ」
入口に紺色ののれんがかかった店に入る。店内は薄暗く、目が慣れるまでに時間がかかった。カウンター席が二十ほど。白い法被姿の中年の店主が、
「おう、いらっしゃい。って、トオリちゃんやんか。久しぶりやな」
と片手をひょいと上げた。並んだ丸椅子や店の全体的なデザインはバーのようなのに、のれんや店主の装いはいかにも日本風だ。和洋折衷という言葉が相応しいのかは分からないが、奇妙に調和して独特の雰囲気を醸し出している。
私たちは店主の前の席に座った。トオリさんが机の上のお品書きをつまむように取り、
「私はきつねうどん」
と注文する。そして、お品書きを私に差し出した。
「ユキちゃんは何が良い?」
紙に書かれているメニューをざっと眺めて、私はびっくりする。きつねうどん、ナポリタン、ビーフン、春雨、塩ラーメン。麵料理ばかりが並んでいる。しかも、それらの料理は「麺」であるということ以外は全く共通点も脈略もないように見えた。
「わ、私もきつねうどんをお願いします」
店主は店の奥に潜り、数分で戻って来た時には両手にそれぞれ椀を持っていた。
トオリさんが、がっつくように食べ始める。私は不器用なので箸の扱いに苦戦しながら、必死でつるつる滑るうどんを口に運んだ。うどんはごく普通の味だった。こしも癖もなく、落ち着いて控えめで、ほんのりと甘いありふれた日常の味がした。小学校の給食を思い出した。
トオリさんは汁まで全部飲み干し、ふうっと息をついた。黙って新聞を読んでいた店主が、食べ終わるのを待っていたのか、
「で、その子は誰なんや。新しい恋人か?」
と話しかけてくる。まだうどんと格闘していた私は、ぎょっとして箸を止めた。店主の声音が、叱っているようなものだったからだ。
トオリさんは、けらけらと乾いた笑い声を出す。
「違いますよ。さすがの私も、こんな子どもには手を出しません。間先生の娘さん、ユキちゃんです」
店主の表情が、ふっと柔らかくなった。孫を見るような温かい視線を私に向ける。
「そうかぁ。間と最後に会ったのは、結婚式のときやったかな。奥さんに似てめっちゃ美人やんか。間に似て頭も良さそうやし」
「きょ、恐縮です」
私ははにかんでうつむく。もうこの世にいない両親のことを褒められるのは嬉しかった。そして、二人に私が似ていると言ってもらえることも。
二人が亡くなったのは、もう十年も前のことだ。それから私はずっと、誰とも繋がりを持てないまま一人で生きて来た。
「間先生はどうしてるんや」
「亡くなりました。高校の校舎に、宇宙船が落下した事故で。母も一緒に」
ああ、と店主が顔を歪める。
「あれは、悲惨な事故やったな」
「死者が乗客も併せて二千人でしたからね」
そう言ったトオリさんの表情は透明で、何の感情も読み取れなかった。
「それより、例のものをお願いしたいんですが」
「おう」
店主の手からトオリさんの手に、小さな立方体がわたされる。それは一瞬で彼女のコートのポケットの中に滑り落ちた。よく見えなかったけれど、白いさいころのようなものだった。
「ついに行くんか、果てまで」
「もしかしたら、これが最後の会話かもしれませんね」
トオリさんが自嘲気味に笑う。ジョークではないのだろう、と思った。
「グッドラック。ユキちゃんも、こいつに振り回されたらあかんで。最後の最後に大切なんは、自分自身の命やからな」
「え……」
店主の言葉の意味は分からなかった。聞き返そうとした私と彼の間に、トオリさんが割って入る。私の手を掴んで、さっさと店主に背を向けた。
「それじゃ、さようなら。お世話になりました」
「え、えと。おうどん、美味しかったです!」
のれんをくぐる寸前、私は振り返った。店主は、立ったまま涙を流していた。
私たちは再びドームの外に出た。駐車場側ではなく、宇宙船の発着所の方に。
「ここ、一般人は立ち入り禁止じゃないんですか?」
「大丈夫。さっき、おっさんにもらっただろ? あれは、偽装パスポートだ。どの星にもノーチェック……関税を通らずに入ることができる」
「ま、まさか」
急に、それまでも薄っすらと感じていた不安が大きくなって来た。私はこの人について行って良いのだろうか。しかし、もう帰る場所は完全に破壊されて残っていない。
トオリさんが、クリープラーを展開する。機体の上に立ち、私に向かって片手を広げる。
「おいで」
優しく、私を招く。悪魔のようにも、天使のようにも見える。この先にあるのは地獄なのか、天国なのか、それともそんな区別すら無意味となってしまう深淵なのか。
「本当に、世界の果てに行くんですか」
「行くよ、私は。やりたいことがある」
私にはもう、どこにも行く場所がない。嫌味ばかりを言う隣のおじさんも、薄暗い水族館も、何年経っても懐いてくれない猫たちも、みんなみんななくなってしまったのだ。私は彼らが嫌いだった。誰も私を見てくれなかった。居場所なんて、ただ肉体が存在することを許可されているだけの場所だった。心は誰にも顧みられず、孤独に閉じ込められていた。
顔を上げる。トオリさんが真っ直ぐに私を見つめている。
この人は、私を受け入れてくれるのだろうか。まだ分からない。けれど
「私、途中で逃げるかもしれませんよ?」
「そのときは仕方ない。諦めるだけだ」
ため息をつく。何故か分からないけれど、私は求められている。この人は私と肌が触れ合っても、拒絶しなかった。……両親が亡くなってから、抱きしめられるのは初めてだった。
「ついて行きます、できる限り」
女が笑う。風にさらさらと流れる青い髪は、温かい潮のようだった。
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