第2話 【消えてゆく街に、何を想う?】

 仕事を放りだした私と、髪の青い見ず知らずの女。二人は手を繋いだまま水族館を出て、ゆるい坂道を下り、錆びついた白い門を抜ける。眼前にぱっと紺碧の海が広がった。天気が悪いせいで濁ったようにみえる水面。灰色の立体的な雲が重なり合いながら空いっぱいに低く並んでいて、遠近感を強く感じる。雨にくゆった景色の中を、小さな白い漁船が滑ってゆく。ありふれた風景。それなのに、ひどく寂しく不吉なものに見えるのはなぜだろう。

 とりつかれたように海と空を眺めていた私の手を、女が強く引っ張る。

「別れを告げている暇はない。あっちの草むらに、クリープラーを隠しているんだ」

「クリープラー? 何ですか、それ」

 私の質問には答えず、女はずんずんと早歩きで進んでゆく。背が高いので、一歩が私より大きいのだ。足がついてゆかなくてつまづきそうになりながら、なんとか体のバランスを保つ。

 水族館の敷地の隣にある雑木林に、女は入っていった。私の手を放し、高く伸びた猛々しい緑の草の間から、白いものを「よっこらしょ」と引っ張り上げた。

 それは、不思議な乗り物だった。羽を広げた蛾のような形で、大きさは原付バイクほどある。ちょうど蛾の頭にあたるところに、人の胸の高さほどの手すりが付いていた。どうやら、そこにつかまって立ったまま蛾の背中に乗るらしかった。車輪は見当たらない。まさか――

「飛ぶんだ、これで」

 女はコンクリートで固められた道路まで機体を引っ張り出すと、私の推測通りに手すりにつかまった。

「君も乗って」

「え、どうやって?」

 困惑している私を、女がぎゅっと抱き寄せた。そのまま、手すりと自分の体の間に私を抱き込んでしまう。女の体は柔らかく、温かかった。外からの見た目では、固く冷たい氷の棒のようだったのに。

 ずっと昔に亡くなった、母のことを思い出した。

 女の顎が、ちょうど私の頭の頂点に当たっている。固い手すりと女の湿った体に挟まれて身動きができない今の状態が、なぜかとても懐かしく、落ち着いた。もしかしたら、赤ん坊のころの抱っこ紐に入れられているときの感覚に近いのかもしれない。

 ふわり、と足元が揺らぐ感じがした。それは一瞬のことで、機体は私たちの体に何の負担も与えることなく浮き上がる。滑るように、高度を上げながら海の方へと移動してゆく。私は首をちょっと曲げて、街を見下ろした。どんどん小さく遠くなってゆく、茶色と灰色で構成されたモザイクのような港街。高い波に揺らぐ漁船たち。さようなら、と心の中で呟いた。あの場所はただ私という人間の肉体の存在を許容していただけで、心は完全に無視していた。だから、未練なんてあるはずもないのに。どうしてか、胸が空虚になってゆくのを感じた。

「そう言えば、君の名前を聞いていなかったな」

 女が言った。

「私は、間です。あいだ、ゆき」

「ユキちゃんか。私はトオリ。冬の氷、と書く」

 トオリさん、と小声で繰り返した。その響きは、胸にすっと溶け込んだ。

「漢字の名前ってことは、もしかして地球の……日本の方なんですか。てっきり、異星人の方かと。髪の色が――」

「これは、染めてるんだ。目の色は生まれつきだけどね」

「父のお知り合いってことは、教え子さんですか?」

 トオリさんが、あっと叫ぶ。

「そろそろ始まるな」

 ドスン、と鈍い音が鳴った。街の方からだ。トオリさんは機体を緩く旋回させ、街の方を向いた状態で停める。さっきまでは確かになかった奇妙なもの、白くつやつやとした円柱が、街のいたるところに何本も何本も刺さっている。太さは、小さな家一軒分くらいだろうか。新しい円柱が次々に轟音と共に地面から突き出しては、家の屋根を超えるほどの高さで制止する。

「あれは……」

 円柱の発生にひと段落がついたのか、音が止まった。呆然としていると、円柱の先から一斉に水が噴き出し始めた。その勢いは激しく、街はみるみるうちに水に沈んでゆく。たった数分で、私がさっきまでいたあの場所など始めから存在していなかったかのように、ただただ海の広がる光景となってしまった。

「消えちゃった」

「そうだよ。あの兵器は、全てを溶かす。物は原子に、精神はエーテルに。その過程で、ものすごい量のエネルギーを生産することができる。敵を滅ぼすのと、エネルギー確保。一石二鳥ってわけだ」

 ひどい、と声が漏れた。

「ユキちゃん、風邪ひいたのかな。震えてるけど」

 トオリさんが、心配そうに言う。

「風邪なんかじゃありません。心が震えているんです。でも、私にも原因はよく分からなくて。みんなみんな、なくなちゃったんだ。水族館も、マンションの隣の部屋のおじさんも、道端の猫たちも」

「悲しいの?」

 低くくぐもった声で、トオリさんが問う。答えられずにいる私を抱いたまま、彼女は続ける。

「君は、良い子なんだね。私は、自分が育った町が消滅したとき、ざまあみろって思ったよ」

 感情の読み取れない声だった。だから私には、それが本当なのかどうか分からなかった。

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