第5話 【旅の理由】
ブティックの店主が見繕ってくれたのは、ハイネックの黒いセーターとベージュのジャケット、キュロットスカートと編み上げブーツだった。いつも同じ地味な事務服だけを着続けてきた私は、活発な少女のようなその服装に少し照れてしまう。トオリさんは私をちらりと見て、
「似合うよ」
と一言だけ呟いた。
「私は少し、用事がある。ユキちゃんはここで少し待っててくれないか」
そう言い残し、彼女はコートを翻して店から出て行ってしまった。私は戸惑って、店主の顔を見る。満面の笑みが返って来た。
「コーヒーと紅茶、どっちが良い? いただきものの、はちみつミルクティーなんてものもあるけれど」
「はちみつミルクティー……飲んでみたいです」
「美味しいのよ」
店内には、テーブルとソファーの置かれているスペースがあった。店主に促され、ソファーに腰かける。ふわり、と体が沈んでバランスを崩した。なんとか立て直し、ソファーに体重を少ししかかけない体勢に座り直す。誰にも見られていなかったが、恥ずかしくてたまらなかった。
甘い香りのするカップを二つお盆にのせて、店主が奥から戻って来た。ことり、とカップを机に置く。クリーム色の湯気が立ち上り、ブティックの重厚な空気に溶けてゆく。店主は私の向かいに座ると、ふにゃりと笑った。
「トオリさんは、あなたのお父様……間先生の弟子だったの。いえ、普通科高校の、じゃないわ。先生の副業の、魔法使いの方よ」
そう言って、カップをそっと両手で包み込む。ほんの少しだけ口にふくみ、ふうと息を吐いた。視線を落とし、表面で渦を巻いているミルクを回転させるように、ゆっくりとカップを揺らす。
父が魔法使いであることは、私も薄々は知っていた。けれど、私が生まれたときに完全に廃業したそうで、魔法を使っているところを見せてもらったことはない。
「あれ? ってことは、トオリさんが弟子だったのって十五年以上前ですよね。てっきりまだ二十歳そこそこだと――」
「トオリさんはもう五十歳よ。私と同級生なの」
「えっ?」
思わず、目の前の店主をまじまじと見てしまう。店主は楽しそうに「ふふっ」と笑った。
「あなたを見たときに、すぐに分かったわ。間先生にも、トオリさんにもそっくりじゃないの」
「は? それはどういう意味で――」
そのとき、ドアが開く重い音がした。ぎょっとして振り返る。トオリさんが、怖い顔をして立っていた。
「お前、ユキちゃんに何を吹き込んだんだ?」
「何も変なことは言ってないわよ?」
トオリさんの鋭い視線を、店主は受け流す。ドキドキしながらも、私はミルクティーを最後の一滴まで飲み干し、立ち上がった。
私の腕を掴んで、トオリさんはずんずん歩いてゆく。
「あの、父とはどういう関係だったんですか?」
「言えない」
「もしかして、私の母は――」
「そんな妙な話、もう二度とするなよ」
トオリさんは振り返らないが、声は氷のように冷たく尖っていた。私はそれ以上、何も言えなかった。正直なところ、私の胸には何の感情もなかった。いきなり降ってわいた疑惑。どうにも、現実感がない。そもそも、旅の始まりからこれまでに起こったこと全てが非現実的で、映画のように偽物くさくて、それなのに強烈な五感が私を圧倒し続けている。
二キロほど歩いて、小さな民宿にたどり着いた。トオリさんは受付に座っているふっくらしたおばあさんから鍵を受け取り、まるで自分の家のように慣れた足取りで二階の角部屋へと入ってゆく。狭い部屋のほとんどを、ダブルベッドが占めていた。もしかして、私たちはこのベッドで寝るのだろうか、一緒に。
「嫌か? それなら、私は外で夜を過ごすが」
トオリさんは、まだひどく機嫌が悪い。
「いえ、大丈夫です」
そう言いながらも、私はなかなか寝付けなかった。ベッドは十分に大きく、体が触れるなんてことはなかったが、どうしても背中に人の気配を感じて落ち着かない。
ふっと何かを感じて、目を開けた。息が止まる。顔の右半分のない女が、私を見下ろしていた。夢の続きだろうかと思い、それから、女のそのまなざしを自分が知っていることに気付く。息を吐いた。
「びっくりしただろ? 昼間は化粧で傷を隠してるんだ」
融けた右側の眼窩は空洞で、闇が吹きだまっている。その暗さは、宇宙の深淵に似ていた。
「世界の果てで何をするのか、教えるよ。私は死にたいんだ。神の目の届く場所では、死ねないから。そういう罰を受けている」
「どうして私を連れてゆくんですか」
「予定している航路の途中に、信頼できる人がいる。君のことはその人に預けるつもりだ」
答えになっていない。けれど、私はそれでも良い気がした。トオリさんがいなければ、私も港町と一緒に融けて消えてしまっていたのだろう。それに、彼女と父の間には、きっとのっぴきならない事情があったのだ。
「死ぬ前に、私に会いたかったんですか」
「さあね」
トオリさんはごろりとベッドに寝ころび、私に背を向ける。浮き上がった背骨を数えているうちに、だんだんと現実に心が追いついてくる。じわりと目が熱くなった。溢れる涙を、冷たいシーツにこすり付けた。
目が覚めたとき、トオリさんは既に化粧も支度も終えて、展開したクリープラーの点検をしていた。私に見られていることに気付いたのか、ゆっくりと立ち上がる
「あの、トオリさん」
「何?」
「私、世界の果てまでついてゆきます。知りたいんです、現実の外に何があるのか」
彼女は寂しそうに笑った。
「そんなこと言われたら、果てから帰って来ざるを得なくなるじゃないか」
「ごめんなさい」
「別に、謝らなくても良いさ。そのときのことは、そのときに考える。さあ、行こうか」
トオリさんがドアを開ける。白い光がさんさんと注ぎ込み、私は彼女の体を一瞬だけ見失った。
世界の果てと、アクアリウムの人魚たち 紫陽花 雨希 @6pp1e
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