千曳の岩

小南館 綸子

千曳の岩

 趣深い色合いの水羊羹と高貴な雰囲気の冷茶が卓の上に出されている。テレビの天気予報は連日の猛暑と熱中症警戒アラートを告げているのに、ここは涼やかすぎて寒々しいくらいだった。

「和菓子は……お嫌いですか?」

 向い側から言われて、慌てていただきますと黒文字を取り上げる。水羊羹を一口大に切り分け口に運ぶと、ひんやりとした柔らかさが心地よかった。

「とっても美味しいです……」

 本音なのに何故か白々しい感じがした。相手もそれを感じ取ったのか、静かに微笑むだけだった。この人が手紙の主――私の腹違いの姉――立岡美野里だった。姉とはいえ私と数か月しか違わないはずなのに、その鷹揚な立ち居振舞いは、とても三二歳には見えなかった。

 自宅から二時間半でS**県の山間部にある私鉄の駅、そこからタクシーで四十五分――父の家に辿り着いた私を迎えたのが、この人だった。儀礼的な時候の挨拶……身内だけで済ませたいので仰々しい法要はせず納骨のみで簡素に行います、墓を開く石屋が来るまでお茶でも……言われるがまま、この部屋に通された。挨拶を、と畳に座ろうとする私を座布団に座らせ、お茶と水羊羹を運んでくれたのも彼女だった。どうぞ召し上がって、という声にも瓜実顔の微笑にも、険のある感じは微塵もなく、それが却って申し訳無かった。

 水羊羹を食べ終え、お茶を飲み干してしまうと、もう間がもたなかった。お互いの間合いを量るような沈黙の後に、私は面を伏せて口を開いた。

「この度は突然のことで、お辛い時にも関わらず私のような者を呼んで頂いたことに感謝申し上げます。あなた様にもお母様にも、私や母の存在はご負担をおかけしたでしょうに、お心遣い有難く存じます」

 心にも無いことを言っているな、と思うのにこの場には相応しい言葉だった。亡くなった父親の愛人の娘……それが私だ。この人やこの人の母親にしてみれば「厄介者」という他にない存在なのは、認めるしかない。現に、この人の母――父の本妻はもちろん、他の親戚にも一切接触させないかのような案内だ。ふつ、と沸き上がるような感情を上手くいなして言葉の下に埋め込む。

「本来なら放り出されてもおかしくないところの私を認知し、養育費や大学の学費まで出してくださった父にもあなたのお母様にも感謝しております。本当に」

「倉木さんは勘違いしております」

 私の空々しい口上は、不意に遮られた。はっとして顔を上げても、さっきと少しも変わらない瓜実顔の微笑があるだけだった。

「認知はしましたが、養育費も学費も手配したのは私の祖母です」

 蝉時雨が響いていた。どう答えたらいいか、分からなくなった。彼女はただ品の良い微笑をふんわりと浮かべるだけだった。



 私の父は「旅館王」「S**の天皇」とまで言われた人だったらしい。美しい妻を娶り、仕事も順調で全てを思い通りにできるようだった父の唯一の不覚が子宝に恵まれないことで、焦った父は旅館の仲居だった私の母に手を出したという。ところが、僅かな差で妻が身籠っていることが分かったという。あれやこれやの末に母は父とは二度と会わないと約束し、手切れ金を渡されS**県を去って私を出産したのだと聞いている……伝聞ばかりなのは、全て私が胎児の時に起こったことで全て母から聞かされた話だからだ。

 その父が死んだと報せが来たのは、一か月前だ。差出人の名は立岡美野里――本妻の子にして私の腹違いの姉だった。万年筆で丁寧に書かれた手紙には通夜や葬儀、納骨の日取りから始まって、誠意溢れる気遣いの言葉が連なっていた。その最後に、もし嫌でなければ内々で済ませる納骨だけでも出席してほしいこと、遺産についても話したいことがある旨が綴られていた。

通夜にも葬儀にも、納骨にも行きたくなかった。今さら騒がせたくないと思ったのも事実だが、それ以上に今の生活を乱したくなかった。

 パートナーの純と、その連れ子の世名と一緒に暮らし始めて三年。私と、高校で理科教員をしている純とで家事と育児と稼業を分担する毎日が、私は気に入っていた。

 まだ返事を決めるまで時間がある……と父の納骨の件はしばらく棚上げにして仕事に専念することにした。前後してソシャゲ用BGMの制作の仕事が入ったのも大きい。音大を卒業して最初に就職したゲーム制作会社が呆気なく潰れて以来、フリーでやってきた。作曲家、と言えば聞こえはいいものの実際は「音楽関連の何でも屋」、小難しく言えば「個人事業主」ということになる。


――日本神話をモチーフにした新感覚RPG‼ 仲間を増やして豊蘆原を豊かなクニへ‼

――愛する女神と家族を築いて、愛の力でクニを満たすのだ‼

――豊蘆原を狙うヨモツシコメ、ライジュウと戦い、倒し、追放せよ‼


 企画書を読みながら音符を拾って捨て、また拾って捨てる。それと並行して家事と育児をやる。私と、世名を何より愛していて仕事熱心な純と、水泳と恐竜が大好きな小学三年生の世名――この三人で暮らせるなら、もう充分だった。それでも、純はそんな私に異を唱えた。

「遺産はね放棄するにも手続きがいるんだよ、唯香」

 世名を寝かしつけた後、晩酌の缶ビールを傾けながら教員らしく諭すように言った。

「それにね、けじめつけるべきだと思うよ。お父さんなりに気遣ってくれていたことは事実なんだし、そのお姉さんだって同じように思うから報せてくれたんだろうし」

 テレビを消したリビングは静かで、窓の外から野良猫の鳴き声が聞こえていた。純は面倒でも大切なことはしっかり片づけるタイプだった。何となく先延ばしにしてしまう私のお尻を叩いて急かすのもいつものこと。そして、そんな純が正しいことは私もよく分かっていた。

「学費のお礼だけ……済ませてくる。遺産は、いらない。納骨だけは内々だっていうし」

 それだけ言って私も缶ビールを呷り、塩茹で枝豆を口に放り込んだ。純はそんな私の心の内を見透かしたのか、一緒に行けたらいいけどさ……とだけ言った。

そうだ。本当は、一緒に来てと言いたい。世名も一緒に一泊くらいの小旅行にしてもいい。でも、純も世名も傷つく可能性があることは極力避けたかった。ごめん、と言いたい気がしても私のせいでもないことを謝ってもどうにもならないのは、もう骨身に沁みている。だから、缶ビールをもう一度呷って、鶏の唐揚げに齧り付いた。そんな私を見て、純も小さく溜息をついていた。

 翌朝、私はクローゼットの奥から礼服と黒いハンドバックを取り出して、美容院の予約を入れた。



 墓石の下に開いた真っ暗な穴を姉は薄っすらと笑いながら見ていた。人間が一言も発さない隙間を埋めるように、蝉だけが元気に合唱していた。姉の腕に抱かれている骨壺――私たちの父――を横目で見ながら聞いたばかりの話を反芻していた。


「父が望んだのは息子ですから。おかしいですよね。『S**の天皇』なんて呼ばれているうちに、その気になってしまったようで」


 それから始まったのは、母から聞いていた話とは全く違った父の話だった。


……父はとにかく息子がほしかったんです。それでも、父はなかなか子どもを授からず、やっと母が妊娠したのも女の子だと知ると、そして、お医者様が母は二人目を望めないかもしれないと言うと、あなたのお母様に直ぐに離婚すると嘘を吐いてまで……でも、そんなことをしても授かったのはまた女の子……お腹の目立ち始めたお母様を追い出そうとした時に、祖母が父のしたことに気づいたんです。母は悪阻も重くて、妊娠中毒症もあって妊娠中はずっと体調不良で伏せていましたから、父がそんなことをしているなんて露ほども知りませんでした。ですから、その意味でもどうかご安心ください。その後のことは全て祖母の采配です。伝手を頼ってお母様の就職先や病院を手配したのも、父に倉木さんを認知させたのも、養育費や学費で不自由をさせないようにしていたのも……父は何もしておりません。ですから、父に感謝なぞなさらないでください。


 風鈴を揺らす風のような爽やかな口調とは裏腹に、姉の瞳からは次第に光が消えていった。それでも、嘘は吐いていないのだろうと察せられた。

蝉時雨に交じって車が近づいて来る音がしていた。石屋が来たみたいですね、と姉は言い立ち上がった。

「お墓を開けるまで時間がかかるそうですから、お待ちください。案内したらすぐ戻りますから」

 廊下を足音が遠ざかっていき、玄関で挨拶を交わす声と機械を動かす音がした後にしばらく静かになった。私はほっと息を吐いて、足を崩し脹脛をそっと揉んだ。姉の話には思い当たる節が私にもあった。

 住み込みで働いていた旅館を身重のまま出た、という割には私が産まれるとすぐに、母は都内の老舗ホテルで働き始めている。職探しにも出産費用にも住む場所にも苦労した話は、聞いていない。音大に通いたいと言い出した高校生の時も母は困った顔はしなかった。援助無しでは成り立たないはずの暮らしでも、父なぞ最初からいないかのようだった。高校を卒業するまで離婚して姉を父の元に残してきた、と聞かされていた。結婚すらしていない、姉とは母親が違うと真相を告げられたのは大学の入学式を終えた日だった。

 その一方で、年賀状はもちろん、学校行事の度に写真やら手紙やらが何処かへ送られていった。母は仕事を調節しては運動会や入学式や部活の大会に駆け付けてカメラのシャッターを切り、学校が提供するプロカメラマンの写真も惜しみなく買っていた。そして、いつも分厚い封筒を同じ住所へ送るのだった。その分厚い封筒が投函されてしばらくすると、今度は季節の果物や野菜と姉の写真が送られてきた。その送り主はいつも祖母だった。

 そして、何より父の訃報を知った母の反応――姉は律儀に母にも訃報を伝えていた――たった一言「私には関係無いから」と言うだけで、予定通りに済州島へのバカンスへ出発した。母の中では父はとっくに死んでいたのだ、と思うに充分だった。

 からり、と襖が開いた。あたふたと正座し直そうとする私を、姉は掌を翳して止めた。

「お楽にどうぞ。私も正座は不慣れなんです」

 そう言うと向い側の座布団に膝を崩して座った。礼服の黒い裾は長く、下品な感じはしなかった。

「お祖母様に感謝申し上げます」

 正座し直した私がそう言うと、姉の瞳に光が宿った。それと同時に気になることがあった。

「お祖母様は今どちらに?」

「亡くなりました……三年前に病院で……八五歳の大往生でした。悲しませるだけだからと父がいるうちは倉木さんには報せないように、とお母様に言い含めていたそうです」

 そう言って視線を伏せる姉の姿に、祖母を慕う気持ちがありありと感じられた。父の話をしている時には無いものだった。会ったことのない祖母なのに懐かしかった。私はさり気なく膝を崩した。

「祖母は、お母様から送られてきた倉木さんの写真全部をあなたの妹だと言って見せてくれました。一緒に住むばかりが家族ではないと、いつか会う日が来たら大切にしなさいと……だから、私は倉木さんにお会いできて本当に嬉しいんです」

「そうだったんですか……私も……立岡さんを写真で知っていました……このように迎えてくださったのは嬉しいです」

 朝顔の花が開くように微笑む姉に、ほんの少しだけ緊張が解れるのを感じた。それが建前だとしても、私を貶める意図があるとは、どうしても思えなかった。それが少しだけ私を大胆にしていた。

「旅館はもうやってないんですか?」

 看板こそ残っていたものの、大きな玄関は固く閉ざされていた。私が案内されたこの建物は一目で離れと分かった。葬儀のために休業しているのかとも思ったが、夏休みの時期を思えば不自然だった。それだけではない。庭は夏草に覆われ、手入れがされているようには見えなかった。駐車場と思しき場所も、アスファルトの所々を夏草が突き破っていた。

遺産について探りを入れるわけではないが、気になった。旅館を閉めているのだとしたら私の養育費や学費はどうやって工面していたのかも気になった。

「ええ、祖母が亡くなった時に。父は最後まで納得していませんでしたが」

 また姉の顔に陰りが差した。自分でも気づいたのか、姉は少し早口で言った。

「そもそも『旅館王』『S**の天皇』なんて言われたのは祖父の代までです。父が経営を引き継いでからは振るわず……よくある地方旅館の一つになってました。幸い祖母が市内の土地を上手く運用していましたから困らず暮らせましたが、このまま続けてもいずれ破綻するだろうと……なのに、父は囚われていたんです。『旅館王』『S**の天皇』に……」

 馬鹿みたいですよね、と姉の唇が歪んだ。さすがに、本音を口にできるほど大胆にはなれない。曖昧に笑って茶碗を取ろうとしても、もう空だった。祖母が亡くなった時、というなら私の学費の支払いは終わっていたことになる。それなら良いのだけど……という思いが口を重くしていた。

ガラリと玄関の引き戸が開く音がした。だみ声で墓が開きましたよおと言われて、私も姉も腰を上げた。玄関で待っていてください、遺骨を持っていきますから、と姉は端正に微笑んだ。



 ゆっくりと墓が閉じていく。その下には、真新しい骨壺――父の骨――が納められていた。夏の長い昼下がりも夕方に近づく頃だった。蝉時雨だけは相変わらず降り注いでいた。

 父の墓は旅館の裏手の道の先だった。蚊が多いので、と姉は全身に虫除けスプレーを丹念にかけてくれた。姉は骨壺を、私は水の入った桶や柄杓、花束や線香を持った。細い道は手入れをされてはいたが、それでもヒールで来たことを後悔した。そこを進む時は、二人とも無言になった。

「和尚さんは来ないんですか?」

 先を歩く石屋が怪訝そうに聞いた。私もそれが気になっていた。普段は気にもかけないのに、こういう時だけ急に敬虔な態度になる自分のいい加減さも。

「ええ、手間になりますから昨日のうちにお経だけ上げてもらいました」

 有無を言わせない口調だった。石屋もそれきり何も言わず、開けられた墓を前にしても骨壺を納める場所を示すだけだった。姉はその通りに父の骨壺を納めた。石屋はそのまま墓を閉じる作業に入った。

「倉木さんはコジキをご存知?」

 少しずつ闇に沈んでいく骨壺を射抜くように見つめながら、姉は言った。コジキが『古事記』だと気づくのに少し時間がかかった。ご存知も何も、今BGMを作っているソシャゲは「日本神話をモチーフにした新感覚RPG」

だ。それを告げると、またふんわりと笑みを浮かべた。

「では、イザナギとイザナミもご存知なんですね」

 この国の始祖である男神と女神――交わっては次々と子どもを産み、神々を増やし、この国を作った神々だったはずだ。ソシャゲもそれを下敷きにし、プレイヤーである男神と女神が「力を合わせて」「絆を深める」と仲間になる神を召喚できる、という設定になっていた。初めて企画書を読んだ時からうんざりしたが、純と世名との生活のため、と自分を納得させて引き受けた。

「女神がどうなったかも」

 頷く私に姉が畳み掛けるように言った時、墓は完全に閉じて父の遺骨は永劫地面の下に幽閉された。先に戻るよう言われた石屋は、機材を片づけるとそそくさと去って行った。私は姉に促されるまま、墓に水をかけ、花を生け、線香を進ぜた。一度も会ったことのない父に、今日初めて会った姉と並んで手を合わせるのは酷く滑稽に思えた。何と祈ればいいのか……養育費と学費をありがとう? それは祖母のお陰だった。お母さんは元気です? 追い出す程度の価値しかない女なぞ興味も無いだろう。どうぞ安らかに? それくらいしかない。

「女神は何人も子どもを産んだ末に火の神を産んだ時の火傷で亡くなります」

 姉の声で我に返った。形ばかりの合掌を解き、横目で姉を窺う。『古事記』の有名な話だった。姉は墓石を見つめながら続けた。

「私の母も同じでした……先も言いましたが、私を妊娠してからずっと伏せてばかりだったと祖母に聞いています。悪阻と妊娠中毒症で……母方の祖母も同じだったそうなので体質が似ているのかもしれません。そのまま衰弱した状態でお産を迎えて、私を産むとそのまま……」

 相槌も打てなかった。芳香を含んだ線香の煙のお陰か、虫除けスプレーがまだ効いているのか、蚊の羽音はしなかった。

「父は母の喪も明けないうちから再婚したがったそうです。私が言葉を理解するようになってもお構いなしに男の子がほしかったと言って……倉木さんの件が母の実家に伝わりかけて、それでやっと妻は一人だと上辺だけは言うようになりましたが」

 私は、この時やっと理解した。姉は父を憎んでいるのだ、と。そして、私の母も姉の母も必要ではなく、ただただ子宮だけが父には必要だったのだ、と。彼女も父に捨てられた娘だったのだ、と。

 傾きかけた太陽が茂った木々の梢から光を投げ込んでいた。

「後継者、後継者とそればかりでした……再婚できそうもないとなると、婿取りをすると勝手に決めて……もうとっくに旅館の経営は傾いていたのにいつまでも『旅館王』『S**の天皇』気取りで男子継承の妄想に憑依されていたんです。経営の実験を握っていた祖母が亡くなる前に廃業を決めてくれたのが救いでしたが……」

 墓石から水滴が落ちた。悔し涙のようだったが、生憎と骨になった父に同情する気はない。私はただ沈黙のまま姉の語りを促した。

「逃げたかったんです。この旅館からも父からも、子どもを産むことからも……そう思って医療工学の道を選んで、全ての女性が出産しなくても子どもを持てる方法を探ろうと、母みたいに出産で命を落とす人を無くすために……研究を続けていたら海外の大学の研究室から招かれて……有頂天でした。もうここにいるつもりはない、祖母の遺骨も永代供養にしてもらった、結婚も出産もするつもりは無いって父に告げたら……急に……」

 蝉時雨はずっと降り注いでいた。



 世名は今日から夏休みなんだから、もう少し寝かしてあげたい気もする。けれど、純はそんなに甘くない。いつもと同じ時間に世名を起してしまう。洗面所から水の流れる音がするから、世名が顔を洗っているのだろう。

「唯香、ハムエッグでいいよね?」

 半熟でお願い、と言って世名のコップに牛乳を、純と私のコップにアイスコーヒーを注ぐ。オーブントースタ―に食パンを入れてタイマーをかける。いつもと変わらない朝の食卓だ。純が焼き上がったハムエッグをお皿によそって、第二弾に取り掛かる。私は半熟、純と世名は固焼きが好きだから焼き上げる順番が大事なんだ、といつも言っている通りだ。三人分のハムエッグが完成するのを見計らったように、世名がリビングにやってきた。

「あら、上手じゃない」

 三つ編みとハーフアップを上手く組み合わせた髪型は初めて見る。器用な世名はこうして時々、新しい髪型を自分の長い髪で試している。自分でも満足のいく出来なのか、にんまりと笑った。

「ママも唯香ママも髪伸ばせばいいのに」

 私がやってあげる、と言われても忙しい朝にそんな余裕は無いので丁重にお断りする。三人でいただきますをして朝食が始まった。


――子どもを望む人たちへの福音となるのでしょうか。……大学の研究チームが人工子宮によるヒトの出生を目指す実験に踏み切ると発表しました。人工子宮による出生は犬や豚では既に成功していますが、ヒトでは前例が無く、世界でも初めて試みとなります。代理母廃止や不妊治療への期待が高まる一方、倫理的な懸念も大きく、議論を呼びそうです。


 テレビから流れるニュースに私の視線は釘付けになる。画面の中では知っている女性が他の研究者と一緒に記者会見へ臨む様子が映し出されていた。


――結婚も出産もするつもりは無いって父に告げたら案の定、激昂して……そんなことゆるさない、お前は婿取りをしてこの旅館を再開して男の子を産むのだ、と怒鳴り出したと思ったら急に喉の辺りを押さえて「息ができない」と言って……驚いたような、恐れるような顔で倒れてそのまま息を引き取りました。


 救急車も搬送しないほどの急死だった、という。父にはそれほどに理解できないことだったのだ。夢を追って故郷を捨てる女がいることも、妊娠も出産もしたくない女がいることも、娘が反抗することも……死んでも理解できない、したくないことだったのだろう。それが「旅館王」「S**の天皇」の最期だった。

(もしかしたら)

 父の喉には、姉の母と祖母の指が絡みついていたのではないだろうか。そんなことを思ったけれど、口にはできなかった。

「唯香、興味あるの?」

 純の声が私を現在に引き戻した。首を振る。姉の研究が上手くいっても多分、私は利用者にはならないだろう。子どもは世名一人で充分だ。それでも、姉の気持ちは分かった。上手くいってほしい、と切に願う。壊れても代えが効く機械に子どもを産ませることと、代えなぞいない女に命がけの行為を強いることのどちらが残酷か、わかりきっているではないか。


――父が死んで、重石が外れたようで……清々しています。


 墓から去る時、姉がそう言っていたのはきっと気のせいではない。蝉時雨に紛れていたけど、私は確かに聞いた。

 弾けるようなBGMで画面が切り替わった。夏休みお出かけ特集、とアナウンサーの大仰な身振りで映像がまた切り替わる。


――S**県の廃旅館を改築したカフェをご紹介! ここの目玉は地元の食材をふんだんに使った石窯ピザにクラフトビールや自家製ジンジャーエール!


 トーストに半熟卵を絡めながら横目で見ても分かる。間違いない、あの旅館だ。建物は見違えるほどモダンな作りに改築され、夏草に覆われていた日本庭園はすっきりとしたテラス席に変わっているけれど、その奥にある岩だけは見違えようもない。

 一年前のあの日――父の遺骨を墓の下へ捨てた日――墓から戻ってきた私たちを待っていたのは造園業者だった。石屋はもう帰っていた。お願いします、とだけ姉は言った。私の背丈よりも大きい庭石と重機を見た時、姉が何を考えているのか分かった。


――男神は……死んだ女神を追って黄泉へ向かうのに、女神の姿を見ないで待つようにという願いを無視して腐敗した姿を見たら怖気づいて逃げ去る……でもね、私、男神が女神を愛していたとは思えないんです。


 重機で少しずつ動かされていく岩を見ながら姉は言った。それに私も頷いた。


――腐敗した醜い姿を見たから、ではなくて女神がもう子どもを産めないと知って用済みと思ったから……そう思えてならないんです。自分が産ませた子どもも、女神が死んだら斬り捨ててしまったんですから。


 地上に辿り着いた男神は黄泉に通じる道に巨石を置き、一方的に離婚を宣告した。BGM制作のためにとこの件を読んだ時、何故か私は胸が空く思いだった。姉も、この話に同じ思いだったのだろう。


――黄泉から見れば、こちらこそ異界かも知れませんね。巨石のお陰で男神と離れられて、妊娠も出産もしなくてよくなって、女神は嬉しかったんじゃないでしょうか。


 毎日千人招待するくらいに黄泉も気に入ったんですから、と姉が言ったとき墓へ繋がる道は完全に巨石で閉ざされた。愚かな男神の末裔を向こう側へ閉じ込めて……


「ねぇ美味しそう! 私ここ行きたい! S**県なら近いじゃん」

 キウイフルーツをスプーンで掬いながら世名は言った。テレビの中では女性アナウンサーがチーズのとろけるピザを頬張り、クラフトビールをぐびぐびと飲んでいる。その様子に、ビール好きの純も見惚れている。テレビは近くにはラフティングのできる川やバーベキューのできるキャンプ場もある、と夏休みに浮かれる我々のお出かけを誘っている。

 姉とは旅館の売却益を分け合うために、何度か会ったきりだ。最後に会ったのは成田空港の国際線ターミナル、海外の大学の研究者となった姉を見送るためだった。もう二度とこの国に戻ることはない、という姉に私は家族の秘密を打ち明けた。姉は母を死に至らしめた男神の業に抗う方法を探し続けている。私は、男神のいらないクニをここに作っている。純と世名と私……三人の、女だけが集う家……そう聞いた姉はお幸せに、と笑って飛行機へ乗り込んだ。

「いってみようか? 特急乗ればすぐだし一泊くらいしてもいいし。温泉も入りたいな」

 男神は巨石を越えられない。黄泉と呼ばれる女神のクニに、男神は二度と足を踏み入れなかった。

 巨石の後ろには愚かな男神……もう戻らない栄光と過去に縋った愚かで身勝手な父の骨は未来永劫、誰も知らない石の下……

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