輪廻の一刹那から始まりサンスカーラまでの話
張ヶ谷 俊一
サンスカーラ=因縁
両眼を閉じると山門が見えた。寝床に着いて瞼を落とすと、古びたお寺の建てられる巨大な門が見えた。その風格は、まさに映画で再現された半壊した羅生門のようであった。自分の足元を眺めれば、苔が生えた石畳みの踊り場があり、私と山門までは数十メートルの絶壁に見えるほどの階段があった。時刻は朝の六時ほどだろうか。頭を振り返って、階段の下り方面を眺めれば、木々の頭まで薄い霧が立ち込めていた。
これが見え始めたのは多分だが五日前である。最初は、この景色が記憶に色強く残るほどの長い時間を見る間もなく、私は眠りに落ちていたのだろう。それに、こんなことは一度もなかった。なにか生活習慣が変わったわけでもなかった。だから、この現象の原因には見当もつかなかった。だけど、昨日に少しばかりの手がかりを発見した。
その日は、バイトからアパートに帰ると、シャワーを浴びて歯磨きをした。純白の陶磁器に黄色交じりの粘液が付く。蛇口をひねって流そうとするも、それはしつこく、小一時間前に洗っていた皿の汚れとは違ったものであった。顔をタオルで軽く拭くと、私は廊下と呼べるか分からないほどの短い、台所とリビングが繋がった場所を通って、ベッドに腰を下ろした。二年前に引っ越して来た、一匹のインド象が快適に暮らすには狭すぎるほどの、この一室は私にとって都内で最も落ち着ける場所であった。
羽毛布団を体に被せて、両目を閉じるとまた、あの崩れかけの山門が見えた。だがこの時だけは太ももに重さを感じる。ようやくこの原始的な世界観と出来事に慣れたから、自分の体に意識を向けることができた、なのかもしれない。
自ずと右足は動き出して、押されるように左足も動き出した。ゆっくりと私の両足は交互に前進して、眼前にそびえたつ石の階段を上がり始めた。ただ、私はその山門を間近に眺めたかった。その太い柱の一面には真っ黒い染みがあった。それは数十メートルの屋根を、支える梁まで染め上げて、周囲の空気にある種の息苦しさを与えていた。門の真下には何百枚もの瓦が、弾け砕けた種のように離散していた。私はそれらを踏み砕きながら、門の真下まで来た。真上を見ると、腐った複数の木材は、菩提樹の根茎を成すように絡み合っていた。
気味が悪いと感じながら、私は境内を見渡した。山門の正面には本堂らしき寺院があった。横幅は二台分の大型トラックほどで、三階建てのアパートほどある高さを、崩れた屋根が半分占めていた。寺院の左右には、教科書で学んだような仏塔はなく、その代わりにか、私の右手側には切妻屋根の蔵があり、左手側には低い岩石に囲われた池があった。あとは簡素な漆喰の剥がれた外壁が、山門を起点にして孤を描きながら、境内と森林を区別するように、本堂の裏まで伸びていた。山門からは石畳みが本堂まで敷かれているが、その脇の地面は雑草で生い茂っていた。
私は本堂に向かいながら、耳をすますと、森のうごめきと表すほうが適切かもしれない音が聞こえた。環境音に明白な区切りはなく、もぞもぞと外壁の向こうに何かが這いずるような、自動車ほど太い大蛇がすり寄るような音である。その大蛇は、後数秒で私が向かっている仏閣を飲み込もうと企んでいるだろう。そして、この爬虫類は既に何頭の象を飲み込んでいるに違いない。なぜなら、時間が立つにつれて、何かが悶える声が聞こえるのである。平常時の人間が出すはずのない野太い煩悶の声が聞こえるからであった。
私は本堂に上がるための階段前まで着いた。外壁は完全に色落ちしていて、正面の両開きの戸には、木材が湾曲したせいか、いくつもの隙間ができていた。
ここで、私は目が覚めて、急いで出かける支度を始めた。だから、今日一日はあの本堂に何があったのかが気になってしょうがなかったのだ。だから、私はバイトが終わると、同僚に呼び止められるも、早足に自宅に帰って、今ここでベッドに腰かけている。カーテンの隙間から覗ける都会の暗闇は、なぜか昨日よりもいっそう暗く見えた。だから、今の私は眠れずにいる。
回想で脳内が疲れて、ほんの少しだけ眠気を覚える。スマホをつけると、デジタル時計は二十二時を回り、一件の連絡が目につく。ヒカルからだ。「カリンから君に」と途中までで途切れた表示には、イラつきを感じる。私はアプリを開いて内容を確認する。「どうしても話したことがあるって。」と続いている。
「なんであいつは私に直接連絡しないの?」と私は聞き返して、「帰り際の君を呼び止めても、すぐに帰ったじゃん。」と返って来る。
「それは君とは関係あるの?また君とよりを戻そうとしてない?私を言い訳にして?」と私は送信すると、「そんなことないから。ちゃんとカリンと話して。お願い!」と送られた。
上から目線の返信に腹が立ち、私はスマホを閉じて、布団を被る。体を丸めながら、両手で布団の端を強く握って、頭に被せる。横になった頭を枕に沈めて、顔を覆う。息が苦しい。このまま寝落ちしたら、窒息で死ぬと思い、私は酸欠気味なままで、顔を天井に向けて、見つめる。
「ああああああ。嫌い。なんでこうなるのよ。私も悪かったわよ。でもそんなに酷いことは言ってないじゃん。少しだけ早かっただけじゃん。」
私は小声で唸りながら、壁掛け時計が二十一時も回ったことに気が付く。先週から起こった一連の出来事を整理するために、眼を閉じてため息をつく。いつもの山門が見える。後戻りできないことに今更気が付く。
「ほんとバカ。」
密林の中で愚痴を漏らした。今日は以前と比べて音が鮮明に聞こえて、うごめきの方向も分かる。それは境外からではなく、山門を過ぎた仏閣の中からだ。私は山門まで駆け上がる。どこか聞き覚えがある声が伝わってくる。
「病んで、病んでモード。いくぅいくぅして。」
新手のメンヘラソングと思わせるその大声に私はヒヤッとする。案外この本堂では坊さんがサイリウムを振って修行をしているかもしれない。だって、今の世間では大人気アイドルグループ「お坊ズ」の不倫事件の話題で持ちきりである。しかも、それがリーダーの鬼龍院がしたのであり、ひょっとすると、彼の生霊が私の夢に出たのかもしれない。元ファンの私としては願った状況だ。
「お願い。助けて。本当にごめんなさい。聞いてるよね。ね。」
女性の声で、間違いなく本堂から聞こえて来て、私の脳漿を締め付ける。胸は一抹の期待があり、その声は喉に何かを詰まらせながら吐き出されていた。本堂に近づくと、鈍い打撃音が聞こえて、それに合わせて、雌鶏が口から産卵するかのような泣き声が聞こえる。その二つの音は間隔をずらしながら、反復しているが、嗚咽の音はしばしば不規則に聞こえて来て、いつの間にか、それは、自分の子供を踏み潰したメスの野ブタが、足元にある贅肉が這出る死骸を見て、嫌悪感ばかりか、それを一瞬でも汚らわしいゴミと思った、そんな後悔の念が含まれていた。
脳内にその陰影が映されながら、本堂の前までたどり着いた。正面の戸は先ほどからずっと開いていたが、どうも階段を登って、この中身を見られそうにない。中身が何かは簡単に想像がつく。誰かが拷問でもされているに違いないが、それはなぜ私の前に現れたのかが分からない。でも、夢ならば、これほど怯んでいるのも馬鹿馬鹿しいと思えて、にやけながら、階段を登る。心臓は今にも私が吸い込んだ空気で破裂しそうである。私の体は馬車にでも轢かれた後のように、弾けたまま小刻みに痙攣している。
階段を登りきると、私は木材がうねってできた壁の裂け目から、本堂を覗いた。可笑しいくらいに予想通りの光景だ。本堂の右奥でカリンは、破れた袈裟を纏った人に後頭部を両手で押さえつけられながら、うつ伏せで黒く変色した床に顔を載せられていた。彼女の顔は本堂の中心にある、高さが天井まで届く顔の爛れた仏像に向けられている。
もう一人の痩せ細った、肉が付いているかも分からないくらいに、ただ手足が付いた人は、カリンの足の傍で正座していた。この袈裟を着た二人は、眼球と思われる部位があるかも怪しいくらいに、顔と全身が痩せていて、即身仏と呼べばよいのか、その一人は、凸凹な岩石を、カリンの大腿にぶつけていて、ぶつけ続けていた。骨が固いせいか彼女の両足は分断されずにあって、打ち付けられるたびに、その恥ずかしい部分から火の粉が立ち、それは何度も全焼を無限回に受けた結果で黒く変色した床に飛び散り、再度火事を起こしたいのか、沈まずに揺れている。
昨日から聞こえた森のうごめきも、規則的な振動音も、もしかすると、洗面場に吐いた淡も、夜闇の暗さも、この惨劇を予見していたのならば、あるいは、彼女が私にした嫌がらせも、別れろも、気をつかえも、私を誰も気に留めない廃棄直前の菓子の一つと扱ったあの仕草も、この真っ当に生きているのに受けた一連の屈辱も、この光景を私に見せる、崖上から叩き落された子供ライオンの死骸のような、打ち所が悪く尖った岩肌に幾度も体を切裂かれて、紅蓮が、脳天に右目に首筋に左ひじに恥骨に右大腿部に、咲き誇ったような、この光景を私に見せるための試練ならば、一週間続いたあの苦悩の時間は、この上なく喜ばしいものと思える。
笑い声を堪えながら、この光景を見るしかなかった。左ひざが鉄槌で砕かれているような痛さを抱えながら、私は必死に堪えて立つ。あの二人の僧侶は念仏を澱まずに唱えている。彼女は何か言いたそうに、口から燃え盛るような、彼女の細い食道を食い千切って出てきたような血餅を吐いてから。
「本当に、ねぇ。聞いて。」
息が切れた彼女の甲高い声には、言葉を選んでいるような落ち着きがあった。
「ごめんなさい。私も最初は酷かったって分かっていたの。でも、君だってヒカルがすぐに他の子と付き合ったら、酷いことを言いたくなるでしょ。でも今はね。本当に後悔しているの。もっと綺麗な別れ方をしたかったって。私が潔くバイトを辞められたらって思うの。だからね、私を許さなくてもいい。」
裏を感じるほどの潔さである。懇願ではなく、彼女は仏堂を凝視しながら、告白をしている。少しばかりか可哀そうにも思える。
「でもね。ね。もし君が聞いているなら、こんな姿でごめんなさい。今までの私はヒスって、おかしくなっていたの。もう取返しはつかないけど、君の気が楽になるなら、私はいくらでも謝りたい。ごめんなさい。もうそれしかできないの。ごめんなさい。あとね。私とこのまま目が覚めるまでいて。それだけ。ごめんなさい。本当。」
また食道を血餅が塞いていたのか、彼女は眼をおろっと開きながら、あ、としか言えなくなった。興を覚ますくらいに冷たい風を頬に感じる。先ほどの興奮がどうも感じなくなった。彼女が恨みの文句を垂れ流すようなら、私はまた笑えたと思う。
私は彼女から目を逸らして、山門を見ながら、本堂の壁に座り込む。肺一杯に空気を吸い込み、心臓が動脈で肺を絞りあげるように縮ませた。私はため息をついて、空を見上げる。彼女の顔が思い出せない。誰かが私の脳内に、一匹のオス猿の死骸を流し込んでいる。そこが痛く、締め付けられる。その猿の衝動的な暴力性が、私を動かして、夢から覚めたいと思わせる。一人の象使いが興奮した象から落ちて、必死に巨体をよじ登るように、私は元の世界に戻りたい。
私は瞼を閉じて、両手でこめかみを何度も叩く。誰かが私の瞼をこじ開け、切り落とし、ちぎり取って欲しいのに、瞼が落ちる、消える、剝がされる想像をする。皮膚が張り裂けそうなくらいに痒くなると、遠い場所から念仏の声が近づくから、あの二人の僧侶が私に向かってきているに違いなく、私は脳内からこの背後の現実を剥がそうと、目が覚めた状態を幾度も、何通りも想像して、地震が起きて、私の一室が揺れて、家族が助けに来て、彼氏に起こされて、でも、一向に覚めずに、念仏だけが大きくなって、汗が瞼を濡らし、舌にしょっぱさが入って来て、猿の死骸を反吐しそうになって、それが眼球から溢れそうになって、両目が開けそうな、いまにも開けそうな、私はこの現実から逃げられるよね。荒い呼吸しながら、目を開ければ、部屋の天井は暗く、あの二人の僧侶が私をのぞき込む。念仏を聞く。いやだ。前に、戻りたいよ。
輪廻の一刹那から始まりサンスカーラまでの話 張ヶ谷 俊一 @5503
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