朝の自傷と33℃

キトリ

朝の自傷と33℃

 日曜日の朝、8時。


 早起き、といえる時間ではないが、常日頃夜型生活の人間ーー昨夜の就寝時刻も2時過ぎーーというAにしては珍しい時刻に目を覚ました。特に人と用事があるわけではない。空腹なわけでも、喉が渇いたわけでも、トイレに行きたいわけでもない。ただ目が覚めた。二度寝しようと思ったが、昨日雑に閉めた一級遮光のカーテンがきちんと閉まり切っておらず、隙間が空いていて、部屋には朝日が差し込んでいる。暗いところでないと眠れない性分のAは起きるしかなかった。

 よいしょ、とAは身体を起こして首を捻った。睡眠不足だろうに意外にも怠さはない。眠気もさほどない。とりあえずベッドから下りて、一つ伸びをする。ゴリゴリに凝っていた覚えのある肩も軽い。どうやら昨日は相当よく眠れたらしい、とAはカーテンを全開にしながら思った。空は真っ青で、雲ひとつない日本晴れだった。今日も暑くなりそうだ、とAは辟易とした。


 Aは自室から出て、階段を下りてリビングダイニングへと向かう。毎週父親が見ている、公共放送の家庭菜園を扱う番組のナレーションが聞こえてきた。「収穫目前!トマトの甘さを増す方法について……」去年も、一昨年も、同じ時期に同じ事を取り上げていたな、と階段を降りながらAはぼんやり思った。庭仕事をしないAが覚えているほどなので、毎年実践する父親は覚えていてもおかしくないのだが、それでもチャンネルを変えずにいるのは惰性なのか何なのか。Aは特にテレビを見ないので、親が何を見ていようと構わないのだが。

 ドアが開け放たれているリビングをドア枠から顔を覗かせれば、ちょうど母親が電子レンジで温めたチキンナゲットを持って席に着くところだった。父親はトーストにマーガリンを塗っていたが、ナゲットが机の真ん中に置かれると、食卓に置いてあったケチャップに手を伸ばして直接、満遍なくナゲットにかける。母親が皿の端にプチュリ、とマスタードを出した。


「おはよう」


 Aの朝の挨拶に、両親からの返事はなかった。聞こえなかったのだろうか。両親は2人で楽しそうに話しながら、チキンナゲットにフォークを突き立てる。お腹が減っていない私は「朝ごはんは後でいいや」とダイニングとは別にあるリビングのソファに寝転がった。香ばしいパンの匂い、父親のコーヒーの匂い、母親の紅茶の匂い。随分前に嗅いだ休日の朝の匂いが鼻腔をくすぐる。

 懐かしい、とAは思った。Aが夜型人間になったのはいつからだっただろうか。昼夜が逆転し始めたのは中学生の頃だが、そうは言っても休みの日も8時には起きていた気がする。だとしたら、スマホを持った高校入学以降だろうか。中学生頃から自分は夜の方が元気らしい、と漠然と認識していたAだが、中学の勉強など教科書を読んでいれば良かったし、スマホを持っていなかった時代はテレビに興味がないこともあって、大した娯楽もないから退屈で日付が変わる前には寝ていた。高校に入ってから学校の課題が増えて、勉強も学校外の追加が必要になって、加えてこの世の大半の娯楽を手の中に収めるようになってから、日付を超えて起きているのが普通になった。

 そして、予定のない日の朝はのんびりと寝るようになった。それでも10時頃には起きるし、別にAは朝早く起きれない人間ではない。学校に遅刻したこともなければ、日曜日でも家族や友達と出かけるとなれば出発時刻までにはきちんと準備を終わらせる。そうでなければ寝ているというだけで、迷惑をかけるわけではない。エアコンのタイマーだって、親の寝室と同じ時間に切れるようになっているから、電気代だって浪費していない。それなのに、毎週末のように「早く起きてよね」と苛立つ母親を、Aは理解できなかった。


「にしてもまったく、まだあの子は寝てるんだから」

「夏だし、朝ごはんの匂いで起きてくるんじゃないか?」

「何年前の話よ、それ。あと、私はが嫌なのよ」


 両親の会話を聞き流していたので、どういう話の流れから派生したのかわからないが、どうやら話題はAのことに移ったらしい。「リビングにいるけど?」と思いながらAはその先を待った。


「少しは家族の役に立とうとか思わないわけ?毎週毎週ゴロゴロして、全く家事はしないしやる気もないし。食器下げて、洗濯取り込んで、適当にスポンジで浴槽なでてハイッ終了、って小学生かって話じゃない。お隣なんか、お昼ご飯作ったりしてくれるって言うのに。多少成績良くたって、生活能力ないんじゃどうしようもないじゃない。っていうか、ただの頭でっかちなんて社会に出たら役に立たないのに。家事できる方がよっぽど役に立つわ。ただでさえあの子は周りなんて見てないから、人の感情も察せないし気づきもしないし気も遣えないし、他所行きもできないし。だから普段からやらせないといけないのに自分のことしかしないし……」


 母親の愚痴マシンガンを、父親はテレビを眺めて聞き流している。Aも聞き流す。この様子だと、Aに気づいていないと言うより、わざと無視して愚痴を聞かせているのだろうか。テレビの園芸番組が始まって、8時30分になったのだとわかる。


「洗濯取り込むなら畳むまですればいいのに畳もしないし、やることなすこと中途半端。手伝いですらない。任せる分だけ手間が増えるけど任せないと何もしないし。そのくせ自分は出来ます、みたいな顔してくるから腹立つのよ。何も出来てないわ小学生以下だわ生活態度なんて幼稚園児レベルよ。まだ幼稚園児の方が可愛げある分いいわ。あの穀潰しの金食い虫。人一倍食べるくせにご飯作る気はさらさらない。やりたいことの主張だけして普段は何も言ってこないし、私のこと家政婦とでも思ってるでしょ。ほんっとに腹立つ。家庭内別居するか、さっさと就職して自分が生活する分だけ稼いで出ていけばいいのに」


 相変わらず父親は聞き流している。何か言えば自分に飛び火するとわかっているのだろう。本人がいる前でよくこれだけ不満を撒き散らせるな、とAは思いながら更に気配を消した。よくよく思い出せば、以前親戚の前でもAへの愚痴を暴露していたから、元々そういう人だったとも言える。

 まぁ、内容としてはAに心当たりがないわけでもない。が、一応AにもAなりの理屈があって、最低限の「お手伝い」以外の家事を放棄しているので、一方的に捲し立てられて良い気はしない。とはいえ、一般的に考えて非が大きいのはAの方なので、言い返すだけ事態がさらに面倒になるからと黙っている。自宅という生存領域が消滅したらたまったものではない。


「だいたい恵まれてるって認識がなさすぎなのよ。世の中もっと苦労しながら勉強してる子だっているのに、塾通って家じゃ自分のこと以外何もしなくて良いっていうのに、一番取ってくるわけでもないし。いっつもそう。何習わせてもそう。それなのにもっとのんびりしたいとか、アホなんじゃないの、既に十分のんびりしてるわ。必死さが足りないのよ。模試で校内上位です?当たり前だわ週何回塾に通ってると思ってるのよ。そりゃお兄ちゃん家はルーズな家だけど、その分子供にも金かけてないんだわ。こっちはお金かけてるんだから、そもそもあの子の方が通いたいって言うから通わせてるんだからその分の結果求めるに決まってるでしょ。親戚だろうがなんだろうが他所は他所、うちはうち。甘いのよ考えが。そんなので社会で通用するわけないじゃない」


 たまたま虫の居所が悪いのか、それともAに聞かせたくて全ての愚痴を言っているのか。さすがにそろそろ自傷行為の域になってきたな、と思いながらAは天井を見てため息をついた。毎度説教を喰らう度に言われていることなので、内容に新しさはなく、何年も聞いているAは続く言葉すら予想できる。が、一番身近な人間からのあまりの悪評に、そしてそれをAの存在を認識してか否かはともかく、平日はほとんどすれ違い生活でAが顔を合わせる機会のない父親に向かってぶちまけているこの状況には、さすがに嫌気が差す。それ陰口って言うんだよ、とでも言い返したいが、言い返したらどうなるかは火を見るより明らかなので、大人しく諦めて嵐がさるのを待つしかない。

 母親の愚痴はまだ続く。私はあの子のためにこれだけ頑張ったのにまるで成果がない、と。Aについての不満を幼少期から現在に至るまで、逐一思い出しては愚痴る。これも怒られる度に言われることなので内容に予想がつかない訳ではないが、怒られる時は断片的に言われるため、こう時系列に並べ立てられるとなんとも言えない気持ちになる。毎年不満が一つ二つ増えていやしないか……。

 園芸番組が終わり、いつの間にか父親がチャンネルを変えたのか、テレビから流れてくるのはバラエティ色の強い討論番組になっていた。父親はとっくに朝食を食べ終わっているだろうに、席を立たない。今席を立つと面倒なことになるとわかっているからだろうが、1時間も自分の子の不出来さを語られたら嫌になってくるに違いない。Aの起床を待ち侘びているのか、父親はチラチラとリビングのドアに目を向ける。


(もう嫌になるな……)


 Aはそっと自分の耳を塞いだ。いくら耳を塞いだところで同じ部屋の中にいるのだから聞こえてくるが、それでも気休めに耳を塞いだ。自分に非があるとはいえ、ここまで自分の人生を否定されると、割と図太い神経を持つAでも消えたくなってくる。まるで自分が何もできない無能な木偶の坊に思えてくる。母親から見れば事実そうなのだろうが。

 Aかて別に努力していないわけではない。むしろ、客観的に見れば金をかけられた技能はどれも一通り身にはなっていて、及第点はもらえるだろう。Aは真面目である。生真面目と言っても良い。課せられた課題にきちんと取り組むし、他の生徒がやっているからといってズルに走ることもない。特別飲み込みが早いわけではないが、相応の努力で形にはする。一番を取ろうという気概はなくとも、出来る範囲の最良を出そうという意識はある。

 ただ、そのスタンスが母親の求めている結果に繋がるかと言われると、残念ながらそうではないらしい。生真面目に課題に取り組み、ズルも手抜きもしないがゆえに時間がかかる。勉強に時間がかかれば、いつのまにか時刻は夜になる。スマホで息抜きしている間に、寝る時間が近づいている。身体のキャパシティと精神のキャパシティを天秤にかけて、大抵精神の方が危ういから夜更かししてでも好きなことをして眠る。結果、家事をする時間もなければ、日曜日は睡眠欲の餌食となる。

 残念ながらAは凡人である。天才でも秀才でもない。時にAは他人から優秀と言われるが、相応の努力が下敷きにされているのであって、素質が優秀なわけではない。一つのことに注力すれば、その他のことは疎かになる。一つの事柄に対して優秀と言われるだけの結果を出すなら、それ以外の事柄は平均以下にしかできない。ただの不器用な凡人である。残念ながら、Aの母親が求めるような複数のことに同時に取り組めるタイプではない。そして、一つのことに注力したところで、一番になるほどの力もない。


(この先もずっと否定されるんだろうな……消えたい)


 Aはソファから下り、身を縮めて、ドアをチラチラと見る父親の目を盗んでリビングから出る。足音を立てないよう注意して階段を登り、そっと自室のドアを開ける。むわりとした熱気が襲いかかってくる。時刻は10時前。そう、Aは夏、いつも暑さで目が覚める。


「……え?」


 Aは思わず声を漏らした。目の前に自分の体があった。なんで、どうして、とパニックになりながら、Aは恐る恐る自分の身体に近づいた。顔を近づけても息遣いが聞こえない。胸に手を当ててもわずかの振動も感じられない。手に触れば、部屋の暑さにも関わらず冷たい。目にそっと手を這わせても、目を開ける気配はない。

 よく考えればAが起きてから1時間以上も経つのにトイレに行きたくならなかったし、お腹も空かなければ、夏場なのに喉も乾かなかったから、魂だけ抜け出ていると考えても不自然ではない。物に触れられるのでどうやら物理的に実体があるようだが、まぁそのあたりは魂のことなので意志でどうにでもなるのだろう、とAは深く考えないことにした。ポルターガイストになったとでも思えば良い。

 今わかる限りではどうやら自分の身体は意識がない、あるいは死んでいるらしい。時計についている室温計を見れば33℃の表示。おそらく熱中症だろう。7時にエアコンが切れるし、今日はカーテンも全開だから陽も入り放題だし、あり得ることだなと妙に冷静になった頭でAは考えた。


(まぁ、死ぬのも悪くないか)


 Aは涼を取るためにベッドではなく床に転がった。室温33℃となると床も生温い。全く最近は暑くて嫌になる。この暑さから解放されるなら、親から解放されるなら、死ぬのも良いかもしれないとAは思う。死因も熱中症なら、自殺よりは世間に悪いように取られないだろう。こんなにもすんなり、死を受け入れられるのはAが感情に鈍感だからわからなかっただけで、A自身はずっと死にたかったのかもしれない。

 Aは静かに目を閉じた。次、目覚めることがないようにと祈って。






 数十分後、住宅街に救急車のサイレンが鳴り響いた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

朝の自傷と33℃ キトリ @kitori_quitterie

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ