境界線

 玄関へ向かうと、外はすっかり陽が落ちて暗闇が広がっていた。

 二階では囲碁教室の時間が終わり、参加者たちが談笑しつつも片づけをしている。その賑やかな声は階段を通じて一階にも響いてくる。しかし、公民館を一歩外に出れば、街の灯りも行き交う人々も存在しない。薄らと潮が香る風が髪をなでるも闇は静寂を保っている。

 公民館の前方には住宅街が存在するが、そこに灯りを宿す家はない。灼かれた土地の境界線。眼前に広がる消えない記憶に耐えきれず、住人達は街を放棄し、それらは現実と名もなき土地の緩衝地帯バッファーになった。

 他方、私の背後には確かに公民館があるし、建物の窓には光がある。まだ賑やかに片づけが行われているだろう。だが、その光は決してこちらに漏れることがない。

 異様な光景だと思う。それでも、境界の先を知っている私の視線は騙し絵のような光景を前に彼らの影を探してしまう。

 私が立つべきこの現実が、足下から崩れていく。自分も境界線の先に行きたいと、心のどこかが誘われている。

「夜はやっぱり怖いな」

 背後からパッシングと小さなクラクション音がして、汗が滲むほど両手の拳を握りしめていたことに気がついた。

 そういえば予定よりも長く公民館に滞在していたのだ。同僚が痺れを切らしている。建物に背を向け、その正面に停車した黄色のミニバンへ向かう。ミニバンが付けたヘッドライトが辺りで唯一の活きた光源だ。


「ずいぶん遅かったですね」

 助手席の窓を軽く叩くと、運転席の同僚が鍵を開けた。彼女は私がドアを開けるのに合わせて助手席に置かれたジャンクフードの包み紙を片づけた。加来 久かこ ひいさ。彼女もまた“史書室”の調査員で、今回のパートナーだ。

「加来さんどこで買ってきたのそれ」

「バッファに入る直前にガソリンスタンドとハンバーガーショップあったでしょう」

 確か、個人営業のハンバーガー店だったと思う。発祥地に倣った巨大なハンバーガーは高級でひとつ食べれば味も量も満足できそうに見えた。

「あの店数キロ先でしたっけ。まだやってるかな」

「今から向かえばまだやっているかもね」

 彼女は、小さく鳴った私のお腹に気を利かせ、ハンドルを握った。

「待ってください。戻る前に公民館の入口に付けて」

 まだ食欲を優先できない。あとひとつだけやることがある。

「ラストオーダー終わっちゃうよ?」

「それでも、そろそろ教室の片づけが終わるはずなんです。帰る様子が確認したい」

「参加者はほとんど撮影できたんじゃないの?」

 加来は車を動かし、公民館の出入口にピタリと横付けする。助手席の窓の1メートル先に公民館のガラス扉がある理想的な位置取りだ。気味が悪いことにこれだけ近づいても公民館内の喧噪は聞こえない。

「撮影は出来ましたよ。あと囲碁のルールを少し覚えました」

 マドカ少年と老人とは2局も囲碁を打つことになった。老人には当然負けたが、マドカ少年とはわからないもの同士接戦になった。

「待ってよ、記憶と囲碁を打つってどういう展開なの」

「撮影の都合上一切声をかけないわけにはいかなくて」

「それで囲碁を打つまでいくのか。屋内で大勢がいる場所はやっぱり苦手だなぁ」

 加来はハンドルに顎を乗せてため息をつく。彼女はカメラを持たない“調査員”だ。私たち“記録係フォトグラファー”と違い彼女は土地を調べ記憶し齟齬を探す。カメラが目立たない分、記憶たちに溶け込みやすいと思うのだが、加来は昔から彷徨う記憶が多い調査を嫌がる。

「出入りは普段撮影しないでしょ? そもそも全員の行動を記録するにはフィルムも時間も足りない」

 焼き付けられた記憶にはデジタル機器で記録できない特性がある。SNSやネットワークで名もなき土地の実態が拡散しないのはこのためだ。当事者として土地を訪れ体感する以外に、記憶を確認する方法は銀塩写真しか見つかっていない。だが、“史書室”の人員、物資にも限界はある。

「わかっています。ある二人だけ、公民館を出る時間を確認したいんですよ」

「もしかして伏見ふしみさんの件? この中は8年前なのに誰かわかったの」

 加来は驚きの声をあげた。無駄に長居していたわけじゃない。窓の外にカメラを向けながら少し自慢を込めて告げると加来は小さく拍手をした。

「加来さんもみたらわかると思いますよ。参加者が下りてきたのでみてください」

 嫌がる加来に声をかけ、カメラを構える。初めに現れたのは若い女性の二人組と、シゲユキ老人、相棒のきっちゃんだ。それぞれ教室内で交流があったのだろう。女性の一人が開いている囲碁雑誌を囲み話ながら玄関へと近づいてくる。

 扉のすぐ外に停めた私たちの車など全く気にせず入口に近づき、

「うっわ」

 外を覗いていた加来が舌を出す。

 彼らは境界線である入口を通り過ぎると共に消えていく。私たちの車が目と鼻の先あろうともぶつかることはない。

 代わりに外から見たとき、境界線を通過する記憶の内側、つまり内臓や筋肉がMRIで撮影したかのように見える。一瞬の出来事だが、人間の断面図が迫る光景は気分が悪い。

「あと何人見なきゃいけないの?」

「最大で四十人くらいです」

「えぇ……早く出てきてよ」

 公民館を訪れたのは初めてだ。こればかりは予想がつかない。加来と二人で意味の薄いやりとりを続けるうちにも一人、二人と参加者が公民館を後にする。

「きた。あの中学生と老人の二人組です」

 オレンジ色のポロシャツをきた小太りの少年が元気よく階段を下りてくる。マドカだ。後ろをついてくるのはマドカと対局をしていた彼の祖父、羽場金三郎はば きんざぶろうである。

「それじゃああの太っちょ少年が、例の痩身イケメン大学生ってこと? 本当に?」

 加来はマドカ少年を見て目を丸くした。

「金三郎さんのほうは伏見さんからみせられた写真とそっくりでしょう? 数年の闘病で痩せたそうですが、すぐにわかりました」

「まあそうだと思うけど。囲碁打ったのって彼らと?」

「そうです。成り行きですが。名前もそこで知りました。少年は私にマドカと名乗りましたよ」

羽場円はば まどか、本人かぁ。これが記憶じゃなければ疑ってたね」

 はぁ。とかふぅ。とか声をあげる加来の隣で公民館を出るマドカと金三郎をカメラに収める。午後8時。リセットから約2時間半が経過していた。

「これで充分です。ハンバーガーショップ、まだやってますかね……」

「どうだろうね。まあ加来先輩が可能な限り飛ばしてあげますよ。それじゃあ残りの細かい話は店かホテルで聴かせてね」

 加来は車を発進させる。マドカたちが出た後も公民館からは彼女には公民館からは続々と囲碁教室の参加者が出てくる。しかし、加来はそれらに微塵も興味を持たなかった。

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牛の背を割る 若草八雲 @yakumo_p

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