序:記録写真 2
眼前に現れた囲碁教室の会場のあまりの変わりように、公民館の貸部屋はこうも幅広い用途に対応できるのだと思わず声が漏れてしまう。
正確には、ダイエットエクササイズ教室の様子を指摘して、室内の様相が変わってしまったと称するべきなのかもしれないが、24時間後にガラス張りになる予定の壁は木目調のクロスが綺麗に貼られている。
壁の前にはホワイトボードや掲示板が並び、子どもが作った手書き町内会マップや市民サークルの宣伝が貼られている。その内容や質感から、市民の交流目的で作られた部屋であることが伝わってくる。この公民館は周辺住民に愛されていた憩いの場なのだと思う。
掲示板を眺めていくと、壁の中央付近におかれた一際大きなホワイトボードが目に入る。開催時間や対局の時のルールなど囲碁教室の要綱が書き連ねられていた。ボードの上部には“みんなで楽しく真剣に”という標語が掲げられているが、要綱と同様にかわいらしい丸文字なので、真剣という言葉が似合わない。
ボードに書き込んでいるのは教室の係員なのだろう。カメラを持って部屋の端をうろつく私と同様に、碁盤の前に座る参加者たちの間をバインダー片手に歩き回っている係員がいる。時に対局中の参加者と話し、勝敗が確定した碁盤を見つけるとボードに戻って、勝敗結果を書き込んでいる様子が見えた。
囲碁のことはよくしらないが、この囲碁教室全体は和やかな雰囲気で進んでいる。対局している参加者たちは、ボードの標語を尊重しているのか、対戦者達からは雑談や笑い声などを漏らしながら碁盤に向き合っている。トーナメント方式などでもないように見えるが、係員が勝敗を更新していることに意味があるのだろうか。
「対局が終わった人を見つけて次の対局を申し入れたりするんだよ」
目立たないように壁際を歩いていたつもりでも、カメラを抱えて右往左往している様子が目にとまってしまったのだろう。会場の一番端からホワイトボードの更新状況を眺めていると、対局中の近くの老人二人から声をかけられた。
「そういうものなんですか」
「いつもと違う人と対局したい。そんな日だってあるだろう? でも、知らない人に声をかけるのは少し気後れする」
黒の碁石を手に取りながら首を傾げていた老人がそう語る。
「おや、君の辞書にも気後れという言葉があるのか」
「シゲユキさんよりは奥ゆかしい男だと自負しておるよ」
黒の碁石の老人にシゲユキと呼ばれた老人は、相手の手をみて声を詰まらせた。
「それじゃあ私よりも優れたその奥ゆかしさに免じて、ここは待って」
「待ったはなし」
二人のやり取りが気になって盤面をみてみるが、白と黒の碁石がぱらぱらと並べられている状況が意味するところが理解できない。公民館では囲碁教室が開かれているという情報をみて、一応初心者用のルールブックは読んでみたのだが、実際の対局を前にしても何をどう理解していけばいいか手がかりがつかめなかった。
やっぱり、ルールを知らないままみても追いつけないな。心の中で呟きつつも、私は、係員がやっているのと同様にしゃがみ込み、椅子に座った二人の高さに目線を合わせた。
「対局の様子を撮影してもよいですか?」
「構わんよ。なんだい、広報誌の取材かい?」
「ええ、まあそんなところです」
リセットが起きた時点で囲碁教室は始まっている。室内にいる記憶、囲碁教室の参加者たちから見れば、私は突然部屋の端に現れたカメラマンだ。この仕事をしていると、私たちをみて記憶側が化け物がでたと騒がれる経験もある。
けれども、老人たちは私の素性を深く探ることもせず、すんなりと撮影を承諾してくれる。カメラを構えた私に対し、白の碁石を持った老人はカメラ目線で微笑んでみせる。対してシゲユキ老人は腕組みをしたまま碁盤を見つめているが、それでも顔は緩んでいた。私の申し出に沿って、ポーズをとってくれたようだ
「きっちゃんよ、負けが込んでるのに余裕のポーズだね」
「待ったが効かないからといって負けとは限らんよ」
私が撮影を終えると、二人は罵り合いのようなじゃれ合いのような会話を続け、対局へと戻っていく。仲の良い囲碁仲間らしい。
室内には他にも碁盤が20近く並び、参加者が対局をしている。10代から老年世代まで、参加者が幅広いのが印象的だ。注目を惹かないよう静かに会場を回り、遠くから、時に彼らに声をかけながら参加者をフィルムに収めていく。
室内にいる概ね全ての人物を撮影し終えた頃には、私が現れたときに行われていた対局は8割がた終わっており、参加者たちは組合せを変え次の対局を始めていた。
撮影中には、対局を終えた参加者たちがホワイトボードに近寄っていき、その内容をもとに他の参加者に声をかける様子が何度も見られた。前局の結果は、初めての相手と話すきっかけにはなっているらしい。シゲユキ老人たちの話が腑に落ちる。
「ああ! これ、俺が負けになるやつじゃない?」
シゲユキ老人たちと話した場所のちょうど対角線、部屋の入口付近まで到達し、私は壁際の休憩用椅子に座った。すでに囲碁教室は40分近く撮影している。カメラを膝の上にのせて、休憩のために伸びをしていると少年の元気な声が耳にはいった。
「どうしたいきなり。反則手ではないだろう」
声の主は椅子の前に置かれた碁盤で対局中の二人組だ。白い碁石を手に取るのは、中学生くらいにみえる小太りの少年。対するのは背筋を伸ばし少年の一手をじっと見つめる白髪の老人だ。
二人に挟まれた碁盤も私には勝敗がわからない。置かれた碁石がおおいので、対局は終盤なのだろう。そんな程度の認識が限界だった。だが、この二人に限って、正確には少年に限って言えば私と同じレベルのような気がする。
わかっていれば負けになるかどうかを相手に尋ねることはしない。
「この前じっちゃんと対局したときも似た感じの形になって俺負けたじゃん」
「それは先週の話をしているのか」
「俺がこの辺に碁石並べていって、じっちゃんも近くに並べてるから良い手なんだろって思ってたらさ、あのときもなんか最後全部俺の石なくなって」
囲碁では点数計算の直前に一部の石を除外する手順があったように思う。ただどうやって除外を判定するかは理解できていない。
「あのときは私がマドカの手を封じていたんだよ」
「え、じゃああれってじっちゃんのせいなの?」
「あの状況を対局の相手のせいというのはお門違いだと思わんか」
「まあそれはそうだけどさ……」
マドカ。そう呼ばれた少年はムチムチの腕で両肩を抱き、ハの字に眉をゆがめ、糸のように細い目をギュッと絞って盤面を見つめる。
「いや、わかんないよ。これこの前と違うの? じっちゃんはまだ油断してる?」
「対局中の相手にそれを聴くのかい」
「んー。そりゃそうだけどさ……五目並べなら負けんのになぁ」
それなら私もルールがわかる。マドカ少年ほど強気に出られるかはさておき、自分が負けているか勝っているかくらいはわかるはずだ。
「慣れだよ。ルールを身体に覚え込ませないとどうしようもない。マドカ。焦らずもう少し頑張りなさい。それで、次の一手は決まったか?」
「そうやってじっちゃんは教えてくれないんだもん。悔しいな。ねぇ、お姉さんはどこに置くのが良いと思う?」
「え? 私?」
こっそり覗いているつもりだったが、マドカ少年には私が二人に注目していることがばれていたらしい。少年に遅れて老人がこちらをみて微笑む。
「マドカ。他人を頼るのは違う。自分の力で打たないと感覚は養われない」
老人の話はもっともだ。私は老人とマドカ少年の顔を交互にみて頷いた。
「お姉さんも興味あるだろ。ここだの打ち方で勝つか負けるかが決まるんだ」
「そんな大事なら私に任せたら面白くないんじゃないかな」
「とか言って、実は俺と同じでよくわかってないんじゃない?」
図星なので曖昧な笑みで返す。
すると、マドカ少年は、老人に「ほらみろ囲碁は難しいんだよ」と言って、黒の碁石を打った。私に助言を求めることは諦めたらしい。思わずため息を漏らすと、今度は老人のほうが手を止めた。
「ところで、カメラを持っていると言うことは取材かな」
「そんなところです」
「教室の雰囲気は無事に収められたかい」
「一通りは回りましたし、皆さんが楽しんでいる様子は撮影できたと思います。よろしければ、お二人を撮影してもよいですか?」
「まあそれは構わないが……でもなあ、囲碁のルールがわからないんじゃ、本当に楽しめているかは掴めないんじゃあないかい?」
老人の意図が掴みきれず、答えに詰まってしまう。すると、私の代わりに何かを察したマドカ少年が席を立ち、近くのパイプ椅子を運んできた。
「なら仕切り直しだなじっちゃん」
「言っておくがマドカのためではないからな」
もしかして?
「お姉さんも一局打とう!」
マドカ少年が私をみて破顔した。
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