牛の背を割る
若草八雲
序:記録写真 1
「もっと肩の力を抜いて!
あと半分。頑張っていこう。大きく手を振って、全身の筋肉に呼びかけるように。
はい! いち! に! さん! し!
指先までの動きまで全部を意識する! 私たちは一つの形! 一つの肉!」
「私たちは一つの肉!」
暑苦しい。会場に響くドスの効いた掛け声。それに合わせて大勢の少し太めの男女が懸命に身体を動かしている。
掛け声の主は会場前方に立つ筋肉質の男だ。どういう趣味なのか胸にしゃちほこが描かれた青色のレオタードに身を包み、機敏なダンスを見せつけている。ポーズに合わせてレオタードが伸びて、しゃちほこがぐねぐねと歪む。
男の声は場所が違えば怯えて身を縮めてしまいそうな程に鋭く大きい。ところが不思議なことに参加者たちは大声で男に返答し、彼と同じ振付、身体の動きを目指して汗を流している。
ダンスのインストラクターというのはこうも人を惹きつけるのが上手いのか。会場の端でカメラのシャッターを切りながらも、自然と男の一挙手一投足に目を奪われてしまう。
「私たちは肉! ミート!ミート!ミート!」
インストラクターのかけ声に合わせて参加者の動きが加速する。町内会主催の市民教室、しかもダイエットエクササイズ教室などと関している演し物にしてはハードではないだろうか。だが、加速してもなお参加者は目を輝かせてダンスに励んでいる。このまま教室が続いていけば小太りが目立つ参加者達もみな、インストラクターのように筋肉質の身体へと変わっていくのかもしれない。
彼らの頑張りに呼応するかのように背後の窓から白い光が差し込んでくる。まもなく時間らしい。逆光で参加者達の表情が見えなくなる前に、私は追加で何枚かシャッターを切った。
そのうちに熱を帯びたかのように背後の光が強くなるのを感じて目を閉じる。そのまま5秒。
「あなたたちはやれる! 肉を支配できる!」
インストラクターの意味のわからない雄叫びを最後に部屋に満ちていた熱気はかき消えて、代わりに雑踏のような話し声とパチ。パチ。と何かを打ち付ける心地よい音が響きはじめる。
目を開けると、ダイエットエクササイズ教室は消え去り、私は囲碁教室の窓際でカメラを構えて立ち尽くしていた。
リミットが来たのだ。室内はダイエットエクササイズ教室の24時間前へとまき戻っている。
―――――
8年前の夏。私たちの暮らす多くの土地が巨大な発光体に灼かれた。
発光体は前触れも規則性もなく空に現れ、周辺の土地を光で包み、地へ堕ちた。私たち“史書室”は、堕ちた後の形状から、便宜的に発光体を“
海月は、自らの出現する直前24時間の記憶を土地に焼き付ける。そのため、海月の堕ちた土地ではあの夏の日が半永久的に繰り返されている。
繰り返される“あの日”の記憶に正気を保てる者は少ない。土地の住人達は土地を去り、または記憶に呑まれ姿を消していった。人々は記憶の氾濫を恐れて土地の名を奪い、現象に名を付けないで扱うものとした。
他方で今でも名もなき土地を訪れる者が後を絶たない。あの日を繰り返す記憶。それは、時に、未来へ進むしか許されない私たちを解放する甘美な果実に見えるのだろう。
ちなみに誤解されがちだが記憶たちはループしているわけではない。未来へしか進まないはずのこの世界で、半永久的にリピートを繰り返す。そこには必ず記憶と現実の齟齬が現れる。齟齬を認知し、耐えられなくなった記憶たちは形を保てずに崩壊する。
私たち“史書室”は、記憶の性質に注目し、海月が灼いた記憶を記録し、海月の影響を排することを目指している。
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