9 人狼と聖騎士


 アズライトが聖堂へ到着したのとほぼ同時に、礼拝堂の方から物が倒れるような音が聞こえた。

 何かが起きているのは明らかだ。

 アズライトは表情に警戒心を滲ませながら、腰に下げた剣の柄を握る。

 そのまま、もう片方の手で慎重に、礼拝堂の扉を引いた。

 ギィ、と言う音と共に扉が開く。

 アズライトは中入り、そして――そこで見た光景に、ハッと目を見開いた。 


「人狼……!?」


 そう、そこには美しい銀色の毛並みを持った一匹の人狼が立っていた。

 倒れた主祭壇や調度品、壊れた椅子が散乱する、その中に。

 夕焼けの色に染まったステンドグラスから差し込む光の中に。

 一瞬、呼吸を忘れて見惚れる程に美しい人狼が立っていた。


(何故ここに、人狼が)


 目を奪われ掛けた事に気付き、アズライトは意識を戻す。

 そして剣をスラリと抜くと、人狼を刺激しないように気を付けながらジリジリと近づいて行く。

 すると人狼もアズライトの方へ顔を向けた。

 人狼は唸りながらアズライトを睨む。

 真正面から、目が合った。


「――――」


 人狼の瞳を見た時、アズライトは既視感を感じた。

 その人狼は青い瞳をしていたからだ。それもアズライトに見覚えのある色だ。

 正体に気が付いたアズライトは目を大きく見開いた。


「…………ッ、アル、様?」


 するりと喉から名前が出た。そう、アルだ。自分が見間違うはずがない。この青い瞳はアルのものだ。

 あの時――アズライトが人狼の呪いを受けて暴れていた時、自分を助けてくれた、あのアルの瞳だ。

 それを理解するとアズライトは人狼アルを見つめたまま、剣を鞘に仕舞った。


 ここに同僚の騎士がいれば「在り得ない」と言われるであろう行動だ。

 人狼を前に身を守る手段を放棄するなど、命を捨てるのと同等の意味を持つからだ。

 けれどもアズライトは、アルに剣を向ける事だけはしたくなかった。


「アル様」


 アズライトは呼び掛けながら、一歩ずつアルへと歩みを進める。


「アル様。私です、アズライトです。怖かったでしょう、もう大丈夫ですよ」


 近づきながらアズライトは微笑み、人狼アルへ優しく語り掛ける。

 人狼アルは自分に近付いて来るアズライトを警戒して吼えた。

 牙を剥き出しにて、こちらへ来るなと威嚇している。

 その様子がどこか怯えているようにも見えて、アズライトは胸が苦しくなった。


「アル様、大丈夫ですよ」


 一歩、また一歩。

 語り掛けながらアズライトは人狼アルに近付く。


「グァウッ!」


 もうすぐ手が届く距離まで近づいた時、人狼アルが吼え、鋭い爪を生やした手で薙ぎ払った。

 ヒュッ、

 と音を立てて、爪がアズライトの身体を掠める。割かれた服から見えた肌に、僅かに血が滲んだ。

 あと一歩前に出ていたら、深い傷になっていた事だろう。

 

 しかしアズライトは歩みを止めない。

 微笑みながら、ただただ真っ直ぐに人狼アルへと近づいて行く。

 その時初めて人狼アルの顔に困惑の色が浮かんだ。


「アル様。大丈夫です。アズライトがここにおります。怖がらなくて良いのですよ」


 人狼アルの直ぐ傍に――これまでずっと自分がいた距離に、アズライトは辿り着いた。

 そしてにこり、と人狼アルを見下ろして微笑む。

 人狼アルは僅かな時間、動きを止めた。


 ――けれど。


「ガァッ!!」


 その直後、人狼アルは口を大きく開き、アズライトの肩に噛み付いた!

 鋭い牙が肉にめり込む嫌な音と共に、傷口から血が流れ出す。

 ボタボタと、アズライトの血が礼拝堂の床を赤く染めて行く。


「アル様、大丈夫です。大丈夫」


 相当な痛みだろう。けれどもアズライトは顔色一つ変えずに、微笑んだまま、人狼アルをそっと抱きしめた。

 そしてその背中を、親が子供にするように優しく撫でる。


「大丈夫ですよ、大丈夫」


 ただただそう繰り返した。

 そうしている内に、だんだんと人狼アルの身体から力が抜け始め。

 やがてその目に、先ほどとは違う光が宿り始めた。




 ◇ ◇ ◇




(……何だか、温かい)


 ぼんやりとしていた意識の中で、ふと、アルはそんな事を思った。

 背中に、身体に、何かの熱を感じる。誰かが自分を呼び掛けてくれている声が聞こえる。

 その熱と声と共に、だんだんと視界がはっきりとしてくる。


「アル様、大丈夫ですよ」


 直ぐ近くでいつも聞く声がして、アルは目だけを動かした。

 するとそこにはアズライトの顔があった。彼はアルの身体を抱きしめたまま、優しい笑顔を浮かべている。

 そんな彼の口の端からは血が伝っていた。


「――――」


 血。

 それを見て、アルは自分が何をしているのかを思い出す。

 自分の歯が――人狼の姿になった自分の牙が、アズライトの肩に食い込んでいる。

 そこから血が絶え間なく流れ、アルとアズライトを赤く染めていた。

 アルは慌てて口を離す。すると、ずるり、と嫌な感触と共に、アズライトの肩から自分の牙が抜けた。


 ――ああ。

 ああ、自分が、アズライトを傷つけた。

 その事実を理解したとたん、アルは青褪めた。衝動で目からボロボロ涙が零れる。


「ごめ……ごめん、なさい、アズライト……」


 こんなはずではなかった。

 こんなつもりではなかった。

 なのに、目の前が真っ赤になって、そして。


 ――そして気付いた時には、自分はアズライトを喰らおうとしていた。


 アルの中で後悔と絶望の感情が暴れる。そのせいか、意識こそ戻ったものの、身体は人狼の姿から戻る事が出来ない。

 このままではまた暴れてしまうかもしれない。

 そして無意識の内に今みたいにアズライトに噛み付いて、今度は人狼の呪いを掛けてしまうかもしれない。

 その恐怖に、ガタガタと小刻みに身体を震わせながら、アルはアズライトから離れようともがく。

 しかしアズライトがアルの身体をがっちりと抱きしめているため、それが叶わない。


「離れて、ください、アズライト。離れたい。でないと、私、私はまた」

「大丈夫ですよ、アル様」

「また、怪我を、させてしまう」

「私は大丈夫です。大丈夫ですよ、アル様。ほら、私、とても頑丈ですから」


 アズライトは優しくアルにそう語りかける。

 それでもともがくアルだったが、そうするたびに、ぎゅう、とアルを抱きしめる腕の力が強くなった。

 絶対に離さないと言わんばかりに抱きしめられて、少し苦しいくらいだ。


「それにアル様になら、幾らだって傷をつけられて良いのです。幾らでもつけられたい。あなたからいただけるものならば何だって、私には宝物なんですから」


 アズライトの声に、瞳に、熱がこもる。

 彼はそのままアルの頬に、すり、と顔を寄せて、


「お傍におります。大丈夫です、アル様。アル様がまた人狼に意識を奪われたとしても、私がずっとお傍におります」


 そう囁いた。いつもと違う声色に、アルは少し驚いた。


「アズ、ラ……」

「アル様、お慕いしております」


 そんなアルにアズライトはそう告白する。

 え、と目を見開くアルに、彼はにこりと微笑んで、


「お慕いしております。アズライトは、アル様を心よりお慕いしております。誰よりも、何よりも。ですから……どうかご自分から離れてくれなどと、そんな悲しい事を仰らないでください。私のアル様を、アル様が奪わないでください」

「でも、私は……」

「大丈夫です、アル様。例え人狼になったとしても、あなたは誰も傷つけません。あなたごと私がお守りします。ですから大丈夫です」


 アズライトは優しい声で何度も、何度もアルに「大丈夫」だと繰り返す。

 その言葉を聞いていたら、だんだんとアルの身体から力が抜けて来た。

 そうしている内に、アズライトに触れている身体の感触も変わり始める。獣の身体が、ゆっくりと人の姿へと戻り出す。


「……戻、れた?」


 アズライトの言葉と温もりで、精神が落ち着いたからだろう。

 まだ耳と尻尾が出ているあたり完全にではないが、それでも、人狼として再び暴走する事はなさそうだ。

 アルは、ホッ、と息を吐いた。


「ああ……狼の姿も大変愛らしかったですが、今のアル様も可愛らしい」


 するとそんな声が聞こえてきて、アルは肩が跳ねた。

 落ち着きはしたが、まだアズライトに抱きしめられたままである。

 しかも全裸だ。人狼になった際に、着ていた服が破れたか、どこかへ行ってしまったようだ。

 それを自覚したら何だかとても恥ずかしくて、照れくさくなってきて、アルは身じろぎしながら、


「あの、アズライト。……ありがとう。戻れた、から。その……離れて、いただけると」


 と言うと、アズライトは悲しそうに眉を下げた。


「そんな悲しい事を仰らないでください。……頑張ったご褒美を、いただけないのですか?」

「ご褒美?」

「はい。……もう少しだけ、このままでいさせてください」


 アズライトはそう言うと、先ほどより優しい力で、アルの身体を抱きしめる。

 その熱が何となく心地よいなと思っていると、違う熱を頬に感じた。

 何だかぬるっとしている。おや、と思って目を向けると、そこには。

 ――未だ血を流し続けるアズライトの肩があった。


「忘れてたーっ!?」


 アルはぎょっと目を剥いて叫ぶと、大慌てで右手を引き抜いてアズライトの肩に当てる。そして祝福の力でその傷を癒し始めた。

 青色の光がアズライトの肩に染み込むのに合わせて、傷がゆっくりと治って行く。それを見てアズライトが悲愴な顔になった。


「ああっアル様につけていただいた傷が!」


 アズライトはとても残念そうに言った。

 先ほどまでの格好良い騎士の姿はどこへ行ってしまったのだろうか。


「アル様、せめて傷跡だけは残して……」

「そんな器用な真似は出来ません!」


 ひいっ、とアルは少し青褪めながら、必死で祝福の力を叩き込む。

 傷を、早く、治さねば。

 色んな意味でそう思いながら、全力で祝福の力を使ったアルにより、アズライトの怪我は完治した。


「…………そんなぁ」


 格好良かったはずの騎士の、情けない呟きを一つ残して。




 ◇ ◇ ◇




 その後、騒ぎを聞いた騎士達が駆けつけてきた事で、騒動は収束を迎えた。

 もっともその頃にはすでに全部は終わっていたのだが。

 今回の騒動の原因となったドミニク・フランムは意識を失っていたため、そのまま治療院へ運ばれた。目を覚ましたら、騎士団の本部へ移送され、今回の件の事情聴取がされるだろう。

 また怪我をした聖堂長タルクも、他の聖者によって治療され、命に別状はないとの事だ。

 タルクが無事だった事にアルは心の底からホッとした。


(私もそうなるだろうな……)


 アルはアズライトが貸してくれた上着を羽織りながら、運ばれて行くドミニクを見てそう思った。

 何だかんだで人狼として暴れて被害を出したのは自分だ。今はすっかり耳も尻尾も消えているが、呪いそのものが消えたわけではない。

 呪いがある間は捕まっていた方が、周囲にとっては安全だろう。

 そもそも聖者が事件を起こすなんて相当な問題である。全ては最初に解呪を失敗した事にあるのだ。さすがに罰は免れないだろう。

 そんな事を考えながらアルが大人しくしていると、


「アル様、そろそろお部屋へ戻りましょうか」


 とアズライトがそんな事を言って来た。

 ごくごく当たり前のように言われ、アルは首を傾げる。


「いえ。取り調べとか、あるでしょうし」

「ドミニク・フランムの取り調べは騎士団が行いますから、アル様はお休みしていただいて大丈夫ですよ」

「いえ、そうではなくて、私の取り調べとか」

「アル様の取り調べ?」


 するとアズライトが不思議そうに目を瞬いた。

 ……おかしい、話が少し噛み合っていない気がする。

 そう思ったので、


「ほら、私が人狼になって暴れて、被害が出たじゃないですか」


 と言った。自分から捕まえてくれ、なんて言うのは変かもしれないが、自らがやった事に目を背けるのはしたくない。

 なのでアルがそう説明すると、


「ああ! 被害と言っても、私一人が怪我をした程度でしたので大丈夫ですよ!」


 なんてアズライトは輝く笑顔でそう返して来た。

 何も大丈夫ではない気がするのだが。

 アルが困って、おろおろしていると、


「アル様、アズライトの言う通りですよ」


 と、別の騎士が近付いて来た。

 襟章を見る限り、アズライトよりは上の立場の騎士のようだ。


「我々がアル様に罪を問う事はありません。ご安心ください」

「いえ、ですが、怪我人を出したり……」

「アル様に治していただきました!」

「はい、そういうわけですので、大丈夫です。聖堂の被害に関しては、フランム家に請求しますし。だから、その……大丈夫という事にしてください」


 何故か最後には懇願のように言われてしまった。おかしい、どうしてそういう事になるのだ。

 そこまで話して、彼はちらりとアズライトの方へ視線を向けた。

 アズライトが満足そうに笑うのを見ると、騎士は深くため息を吐く。


「……アズライト、何かしましたか?」

「いいえ、何でも! それでは、アル様をお部屋までお送りしてきます!」


 アルの質問にアズライトは首を横に振った。そして元気にそう言い終えると、アルをひょいと抱き上げた。

 えっ、とアルが思っている間に、アズライトは機嫌良さそうな顔で、そのままずんずんと歩き出す。


「あの、アズライト。私、歩けますよ」

「ダメです。人狼化が解けた後は、頑丈さが取り得の私でも、身体にふらつきがありましたから。アル様を歩かせるなんてとんでもない」


 それに、とアズライトは続ける。


「もし再び人狼となっても、こうしていればアル様が一人で、どこかへ行ってしまう事はありませんから」

「え?」

「アル様、お慕いしております。アル様がどこかへ行くのならば、私も共に」

 

 アズライトはそう言うと、とろけそうな目をアルに向けてそう言った。

 熱のこもった眼差しを向けられて、さすがのアルも頬が熱くなるのを感じる。


(お慕い……えっ、お慕いって言った。それはあれですよね、ほら、聖者と騎士としてのあれ)


 何とかそう思い込んで、頬の熱を下げようとしていると、


「あ、可愛らしい耳と尻尾が」


 アズライトの嬉しそうな声が聞こえた。

 ……この感情につられて出て来る耳と尻尾だけは、今だけはどうにかならないだろうか。

 アルは真っ赤な顔でそう思いながら、アズライトの腕の中に揺られ続けたのだった。

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呪われ聖者と忠犬騎士 石動なつめ @natsume_isurugi

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