太陽に嫌われたこども(3)
「ただいまより、第四十五回盟静高校体育祭、開会式を行います。選手、入場」
ひび割れた音がグラウンドに響き渡る。辛うじて聞き取れるアナウンスを受けて、入場曲が流れ出した。快晴の空の下、盟静高校の全学年がざくざくと足音を立てて入場を始めた。
ついに体育祭が始まったのだ。
「結局、任せることになっちゃってごめんね? ……やっぱり、誰かに代役を頼んでこようか」
月守の体調が回復した後の学級会で、養護教諭の正式な判断により月守は体育祭不参加ということになった。クラスメイトは全員月守が倒れる瞬間を見ていたため、もう誰もそれに反論する者はいなかった。
「別に走るくらいなんてことない。授業より早く終わるしな」
「あはは……基準はそこなんだ?」
代役を申し出たのは下田本人だ。そもそも、元はリレーに出る予定だったのだ。騎馬戦と合わせて二競技に出場することになったが、大した変わりはない。長時間座って授業を受けているよりか、全然ましだと思った。
「ただ、勝てるかどうかはわからないぞ。俺だってそこまで足に自信があるわけじゃない」
「……応援してるね。下田なら、意外とすんなりみんなを追い越しちゃいそうだよ」
「期待するなよ。そこまで体育祭に熱くなれる性格じゃないんだ」
月守は何も言わず、ただ微笑んだ。
体育祭では各クラス色分けがされており、生徒たちが広がるとグラウンドはカラフルに染まる。下田の所属する一年B組は青色だ。
準備運動や応援合戦が終わると、まずは百メートル走に出場する生徒が集まる。各学年から足の速い者が選ばれるため、なかなか見応えがある。
自分の出番までの間は決められた席に座り、クラスの応援をするのが決まりになっているが、月守は保健室で待機ということになっていた。
下田は自分の席に着くと、なんとはなしに保健室の方を見た。偶然にも月守と目が合って、手を振られる。海沼も隣にいるのが見えた。
少し迷って、控えめに手を挙げる。その様子を見ていた佐久間がこちらに寄ってきた。
「あいつ、平気なの」
「なんだ、珍しいな。心配してるのか?」
またちょっかいをかけられるのかと思いきや、佐久間から出たのは意外な問い。
「やべーことになったら俺が責められんじゃん。そもそもあいつが勝手に言い出したことなのに。こっちは巻き込まれて迷惑してんの」
「……まあ、あと少し遅かったら、どうなってたかわからなかったらしい」
「げ……」
佐久間は顔を顰めた。
「なんか面倒なんだよな、そういうの。クラスの奴らも、あれから扱いづらいみたいな雰囲気出してるし。無理なら無理って言えばいいじゃん。なんでああいうやつに限ってできるとか言い出すんだろうな」
クラスの雰囲気が変わったのは、下田もなんとなく気付いていた。腫れ物を扱うように慎重になっていて、月守と親しげに話していた女子生徒たちも、以前より会話が少なくなっていたようだった。
入学時、月守についての説明があったようだが、下田はそれを聞いていない。その時に他の全員は知っていたはずだが、軽い説明で実感も湧かなかったのだろう。目の前で実際に人が倒れるのは、想像以上に怖いことだ。
そのリスクを負ってまでやり遂げようとした月守の真意は、下田にもわからない。
ただ、覚悟の上で戦った月守に待っているのがこの状況であることには、納得がいかなかった。
「……あいつは多分、お前と友達になりたかっただけなんだと思う。本当に、それだけだったんだ」
声に出した気はなかったはずなのにいつの間にか口からこぼれていた言葉に、佐久間は固まる。
「何言ってんだよお前まで。意味わかんねえ」
「俺もそう思うよ。意味がわからん」
「はあ?」
佐久間は首を傾げて訝しそうにしながら、自席へと戻っていった。
応援席は盛り上がりを増していた。もはや自分の席で大人しくしているのは下田くらいのもので、皆一様に体を乗り出して自分のクラスの応援に必死になっていた。
騎馬戦ではそれなりにいいところまでいったように思う。最後から数えた方が早いくらいには残っていたし、揉みくちゃにされて節々がまだ痛くはあるものの、他のメンバーが喜んでいるのを見て悪い気はしなかった。
午前の部最後の競技、部活動対抗リレーが終わったところで、昼休みに関するアナウンスが流れ出す。
生徒たちはそれぞれいつものメンバーで集まって、多くが体育館へと移動していった。
クラスでなんとなく集まろうという話も出ていたが、下田はそれを聞かなかったことにして、保健室へと向かう。
外側の扉から保健室へ入ると、食欲をそそる香りが充満していた。
「下田! お疲れさま! 下田も食べようよ!」
「早弁かよ……」
保健室の机の上には重箱が広げてあり、いくつかの箱は既に半分以上食べられていた。何故か缶ビールも置いてある。
「……それは」
「酔うほど呑んじゃいねーよ? ちょっとだけ、ちょっとだけだから」
「いや、だめでしょ」
「ああーん! ケチー!」
缶ビールを除けて海沼の横に座る。購買のパンで済ませようと思っていたのだが、ご丁寧に下田の分の割り箸と紙皿が用意されていたので、ありがたくいただくことにした。
「じゃんじゃん食えよ。これからまだまだ動くんだから」
「これ、先生が作ったんすか」
「まさか! 俺はこんなん作れねえよ。知り合いに料理できるやつがいるから、頼み込んでたっくさん作ってもらったんだ。食いながら見てたぞー」
「いつから食ってたんすか……」
重箱の中には色とりどりのおかずがまだまだ詰まっている。いったい何人前作ったのだろうか。唐揚げや卵焼きなどの定番から、エビフライにハンバーグ、ドライカレーにエビピラフ、果ては名前すら知らないおしゃれなひとくちサイズの何かだったり。もうなんでもありのバイキング状態だ。
「こっちのうずらの卵と大根の煮物がすっごく美味しいんだよ! これ、下田の分!」
煮物が詰まっていたであろう箱はほとんど空っぽで、申し訳程度に卵と大根が散らばっている。
「酒が進む進む!」
「二人でいっぱい食べちゃったんだ、もっと食べたかったらごめんね……?」
隣で教員としてあるまじき発言をかましている大人は放っておいて、大根をひとつ。
「いただきます」
口に入れた瞬間、味の染みた大根がじゅわっと弾けて、塩分を欲していた体が喜ぶようだった。それなりに汗をかいていたので、やたらと美味しく感じる。
「うまいな」
「でしょ! 先生、また今度作ってもらえるようお願いできないですか?」
「頼んどく! 今度は心置きなく酒呑みながら食いたいしな!」
「俺らに酒勧めないでくださいね」
「おい! さすがにそこらへんは弁えてるつもりだぞ!?」
「どうだか」
一度食べてしまえば胃が動き出したのか、箸が止まらなくなる。重箱の隣に並んでいた、ラップに包まれたおにぎりなんかもいただいて、満足いくまで食べ尽くした。こんなに豪華な弁当は滅多に食べられるものではないのだから。
「後半はリレーだね。下田のこと、ちゃんと見てるからね」
「ああ。まあ、それなりにやってくる」
「全力でいけ! 全力で!」
二人に背中を押されながら再び校庭へ出ると、ちょうどアナウンスが聞こえてくる。何を言っているのか相変わらず聞き取れないが、大方集合時間の案内だろう。
生徒たちがちらほらと集まってきたあたりで、グラウンドの真ん中に応援団が並び出した。後半戦の始まりだ。
中間発表では上位に三年生が続いて、一年B組は三位にランクインしていた。二年生や他の組を抜いてなかなかの好成績に周りはますます盛り上がる。下田も思わず、感嘆の声を漏らした。
午後の部では女子のダンス、綱引きや大縄跳びなどが行われた。下田の出番は大トリ。一番最後の競技になる。
学年ごとに行われるクラス対抗リレーは、一年生から順に進んでいく。月守と入れ替わりトップバッターを務めることになった下田は正真正銘、一番最初に走ることとなる。
練習では感じなかった緊張が、体を強張らせた。周りには多くの生徒の他に保護者もいる。下田の親族はいないが、誰が見ているかわからない中で注目を浴びるのは少なからず不安があった。
そもそも、注目されるのには慣れていないのだ。目立ちたい方ではないし、何かの代表になったこともない。
一つ前の競技が終了し、いよいよクラス対抗リレーの選手の招集がかかる。
「緊張してんのか? 下田」
佐久間が肩を叩いて笑う。
「別に」
「はは、まあ気楽にやれよ。どうせ最初の方は大して結果に影響ないんだから」
こういうのは始まってしまえば一瞬だ。始まる前の今が一番緊張する。
下田はゆっくりと深呼吸をしてから、指定された場所へとしゃがむ。
別に、勝つ必要はない。まともに走れば文句は言われないだろうし。
「続きまして、クラス対抗リレー」
声がかかり、選手が立ち上がる。下田はスタート地点に着いた。
靴紐をぎゅっと固く結んで、青色のバトンを受け取る。すぐ後ろでは佐久間が準備をしていた。
左手でしっかりとバトンを握る。別のクラスの代表たちは前を向いた。
下田も、真っ直ぐに前を見据える。目に入るのは、人、人、人。
少しだけ視線を上げて、空を見上げる。雲はほとんどない青空が広がっている。緑がグラウンドを囲み、ざわざわと音を立てて揺れた。
もう一度視線を戻すと、視界が開けた感じがした。
「位置について」
スターターピストルが天に向く。
静寂の中で、引き金を引く気配がした。
「……っ!」
大きな破裂音と共に、足は前へ踏み出された。
一斉にスタートした最初の代表たちは、どんどん下田を追い抜いていく。ほぼ互角ではあるものの、多少の差が生まれた。
縦一列に並ぶようにしてコースを曲がっていくため、なかなか追い越すことができない。
大きな差のないまま中間地点を過ぎたあたりで、砂を蹴る音に交じって、それは下田の耳に届く。
「下田!!」
はっと顔を上げる。月守だった。
月守は保健室の外側扉を開け放って、身を乗り出していた。海沼に体を支えられながら、必死にこちらに向かって叫んでいる。
「追い抜いちゃえ!!」
できると信じて疑わないその瞳は、下田だけを見ていた。
ぐっと足に力を込めて、踏み出す。空でも飛べるみたいに、勢いよく前へと進んだ気がした。
下田は他の生徒の外側に回り込んで、一気にスピードを上げる。そのまま次々に追い越して、一位へ躍り出た。
「佐久間!! 受け取れ!!」
下田の突然のスピードアップに驚く佐久間だったが、声に反応してバトンを受け取る体勢に入った。
スピードは落とさずに、でも慎重に、確実に。
下田は佐久間の手めがけてバトンを手渡した。
佐久間がその手を強く握った瞬間、ぱっと手を離す。
勢いのままコースを出て、佐久間を目で追う。他のクラスと大きく差がついていた。
佐久間は練習では見なかった猛スピードでコースを駆けていく。下田の勢いがそのまま乗っかったかのように、次へ、次へとバトンが繋がった。
パン、パン、と二度大きなピストルの音がして、リレーの終了を知らせる。
ゴールテープを切ったのは、青色のゼッケン。即ち、B組だった。
***
「やった! やったよ下田! すっごくかっこよかったよ!」
結論から言えば、優勝はできなかった。
リレーでは好成績をおさめたものの、三年生には敵わず、順位は中間発表のまま三位という結果に終わった。
しかし目の前の月守はぴょんぴょん飛び跳ねて、下田の腕をぶんぶん振り回している。
結果発表の後は悔し涙を流す者も多くいて、それでもクラスが一体となっているのを感じた。励まし合い、称え合い、素晴らしい団結力だ。
下田はそんなクラスメイトたちを眺め、逃げてきたわけである。
「やっぱり苦手だ、ああいう雰囲気は」
「冷めてやがるなあ、打ち上げくらい行ったらどうなんだ。大活躍だったのに」
「勘弁してください。もう懲り懲りです」
段々と陽が沈んでいく中、保健室では未だに飲み会が続いていた。
重箱の中身はほぼほぼなくなっていて、今は何故かいかのくんせいやらチーズ鱈なんかが広がっている。
「ま、何にせよ! リレーで一位だったことに変わりはないからな。クラスの打ち上げに参加しないなら、俺たちだけで打ち上げするか! ビールだビール!」
「ビール飲みたいだけじゃないすか」
「下田のお祝いちゃんとしようね! 先生が奢ってくれるって!」
月守はにっこりと満足げに微笑んだ。腕には、いつもの包帯の上から青色の鉢巻が巻かれている。
「お前のお祝いも、な」
「え? なんでおれ? おれなんにもできなかったよ」
「……いや、まあ、同じB組だから。……それと」
口ごもる下田に、月守は不思議そうに首を傾げる。
「お前の声、聞こえたから。だから、みんな勝てたんだろ」
呟くほどの声量で素直に伝えると、少し目を見開いてから、微かにはにかんだ。
「よっしゃ! じゃあB組頑張った祝いだ! 羽留も下田もじゃんじゃん食え!」
海沼に勢いよく背中を叩かれ、月守と共に抱き寄せられる。打ち上げみたいなのはあまり得意ではないが、まあたまには悪くないかもしれない。
さすがに高校生を連れて居酒屋に行くほど常識がないわけではなかったらしく、打ち上げはファミレスでやることになった。
ほどほどにしておくよう言ったのに海沼は既に酔っ払って眠っている。
「これでいいのか、先生って」
「あはは……まあいつもこんな感じだから」
「帰りはどうするんだよ?」
「大丈夫! おれが送っていくから」
「お前は送られる側じゃなきゃだめなんじゃないのか」
「夜は平気だよ」
「夜は別の意味でだめだろ」
「……下田って結構心配性だよね? ふふっ」
口元を手で隠しながらくすくすと笑う月守にため息を吐く。
下田はソファ席に寄りかかって、辺りを見回した。
学校から遠く、そこまで目立たない店舗のためか、ここは比較的静かだ。客足はまばらで、快適に話ができる。
「下田、もっと食べたいものあったら頼んでいいよ? 今日は下田がメインのお祝いなんだから! 先生も奮発してくれるだろうし」
メニュー表を渡されるが、大盛りのドリアを食べた後の腹に入るものなど限られている。
「……じゃあ、祝いついでに一つ教えてくれないか」
「え? なに?」
「なんであそこまで、佐久間にこだわってたんだ?」
メニュー表を返しながら聞くと、月守は呆気に取られたような顔をした。
「そんなに佐久間と友達になりたかったのか」
「あ…………うんと……」
何を頼むでもなくメニュー表を見つめて固まる。
「…………」
やがて少し考えてから、月守はゆっくりと口を開いた。
「……おれって昔から、どんくさくて。よくそういうの弄られてたりしてね。それで、逃げる癖みたいなのが、ついちゃってたんだ」
月守は少しだけ声を震わせながらも、言葉を選んで話し出す。
「このままじゃだめなんだろうなって思った。おれが引っ込み思案なせいで、みんなが悪い人みたいになるのも嫌だったし。だけどやっぱり怖くて、逃げて……失敗して。うまく学校に馴染めなくて、すごく後悔したんだ。だから、今度はうまくやろうって決めたの。……結局、失敗しちゃったけどね」
眉を下げてへらりと笑う。月守の言葉一つ一つに、心当たりがあった。少しずつ違っていても、確かにそれに覚えがある。
「佐久間くんと、前の学校にいた子のこと、重ねて見ちゃってたのかも。やり直したかったんだ。あそこで逃げたら、また同じことの繰り返しになる気がして」
変わりたいと思っていた。だが、そう簡単にはいかなかった。
「そんな気持ちで友達なんて、なれるわけなかった。友達ってやっぱり難しい。おれにはまだ、よくわからないよ。佐久間くんにも、おれの後悔を押し付けるみたいになっちゃって、悪いことしちゃった」
後悔だけが重なっていく。後悔に溺れて、沈んでいく。
「クラスのみんなにも、おれがポンコツなの、ばれちゃった。成績が良くて、運動神経ばつぐんで、誰とでも仲良くできて、そうじゃなきゃ、だめ、だったのに」
「…………」
真っ白な髪が、カーテンのように月守の表情を隠していた。
泣いているのかもしれない、と思った。
「いい子に、ならなくちゃいけなかったのに」
震えるその手に触れる勇気がない、自分が嫌になる。
なんて声を掛ければいいのか迷っているこの時間に、嫌気が差す。
「月守、」
呼びかけに少しだけ顔を上げる。色素の薄い瞳が、水を含んで揺れている。
それが零れ落ちることはない。
「悪い、そんな顔させるつもりじゃなかった」
「……ううん、ごめん、お祝いだったよね」
努めて明るく振る舞う月守に、安心してほしかった。もっと気楽に、笑えるように。
「お前がいいなら、俺はお前の友達でいたい。俺だって立派な人間とは程遠い、最悪な奴かもしれないけど。だけどお前がもし、必要なら、手を貸すことくらいはできる……と、思う」
次は、次こそは。月守となら。
今と過去を重ねて、罪悪感に苛まれても。
何度後悔して、何度積み重ねて、二度と浮き上がれないほど深くまで沈んでしまったとしても。
数え切れない失敗を、繰り返したとしても。
月守といたら少しだけ、息がしやすくなる。そんな気がしていた。
「……下田は、やっぱり、優しいひとだね」
「お前ほどじゃないさ」
そう返してくるとは思っていなかったのか、月守は少し驚いて、それから心底嬉しそうに笑った。
眩しいほどに、綺麗な笑顔だった。
雪待月が昇るまで。 那由多 @nayuta1060
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