太陽に嫌われたこども(2)

 休日はあっという間に過ぎ去って、体育祭の練習が本格的に始まった。

 体操着に着替えて外へ出れば、穏やかな空気に包まれる。頬を撫でる風はぬるい。

 休み時間が終わりに近づき、続々と生徒が校庭へ集まっていく中、一人だけ長袖ジャージ姿の月守が顔を出した。

「本当に練習出るのか」

「出るよ。大丈夫、ジャージ着てるし」

 カフェで会った時と同じように帽子を被って、サングラスの役割を果たしているであろうオレンジ色の眼鏡もかけ、対策はばっちりといった風に両腕を広げて見せるが、昇降口の屋根の下からは出ようとしない。

「もう少しここで待ってたらどうだ。順番が来たら呼びに来る」

「……うん、そうしようかな」

 授業開始のチャイムが鳴ると、自然と散らばっていた生徒たちは体育教師の元へ集まっていく。

「あれー? 月守は?」

 佐久間が嫌な笑みを浮かべながら下田に近づいてくると、昇降口へ目を向けた。

「あそこで呑気にお休みかよ」

「順番が来たら呼びに行く」

「……へぇ。なんかお前らすっかり仲良しだよな」

「……そうかもな」

 予想外の返しに驚いたのか、何も言わずつまらなさそうに教師の方へと歩いていく。

 仲良しという言葉を聞くと、嬉しそうな月守の顔が浮かぶようになってしまった。こちらとしてもやり辛くて仕方がない。

 佐久間と少し距離を置いて、下田も集合場所へと向かう。

 他の生徒の何人かは月守を気にするようにちらちらと昇降口に目を向けていた。

「はいはい、チャイム鳴ったのではじめますよ」

 手を叩いて散らばる視線を集めるのは、まだ若めの女性体育教師だ。今年入ったばかりらしい。

「まずは準備運動をしっかりとね。月守くんもできそうだったらやってね」

 体育教師はどこか月守を扱いづらそうに、度々気を遣いながら授業を進める。

 広いグラウンドの真ん中ではなく端に集まっているのは、月守にも声が届くようにだろうか。

 軽く広がって準備運動を始める。月守も律儀に体を動かしていた。

 下田はふと気になって、保健室の方へ視線を動かした。

 もしも万が一があったら。と頭を過ってしまったのだ。

 保健室は外からでも出入りできるように校庭側にも扉がある。電気は点いているようだが、こちらからは今のところ海沼の姿は確認できない。

 空は快晴。太陽を隔てる雲ひとつ見当たらない。本当に、大丈夫だろうか。

「それじゃあリレーの練習からしちゃいましょう。代表さんたちはこっちに並んでね」

 教師の声が響き渡る。バトンを入れたかごの周りに、リレーの代表たちが集まっていく。

 他の生徒たちがトラックの内側に集まって座る中、下田は月守に声を掛けに昇降口へ向かおうとする。しかし、それを阻むように佐久間が叫んだ。

「月守ー! 来いよ! お前の番だぜ」

「あ、うん」

 月守は慌てたように立ち上がり、駆け足でこっちへ来る。

 やっぱりやめておけと、一言伝える間もなく。

「よろしくね、佐久間くん」

「なんか既に疲れてね? 足引っ張んないでね、月守くん」

 少し息を乱している月守をからかうように言葉を返すと、佐久間はさっさとスタート位置へ走っていった。月守も負けじと駆け足で佐久間の後ろをついていく。

「じゃあ、とりあえず一回走ってみようか。バトンはこれね。うまく渡せなくても大丈夫だから。バトン渡す練習はまた別でやりましょう」

「はい」

 リレーは一クラスから男女四人ずつ選出される。月守は一番手だ。その後に佐久間に続いていく。最初で躓いても後半で巻き返せばいいという判断なのだろうか、後半二人は陸上部所属らしい。

 月守は包帯を巻いた右手でぎゅっとバトンを握った。それに気付いた教師はすかさず声をかける。

「そうだ月守くん、バトンは左手で渡してあげてね」

「え、あ……すみません、右手だとだめですか?」

「うーん、受け取りにくくなっちゃうから、誰かから受け取る時は右手で、それから左手に持ち替えて次の人に渡すのが普通かな」

 左手を何度か動かして確認してから、わかりました、と頷く。

「何か心配?」

「いえ、聞き手じゃないので、少し使い慣れていなくて」

「まあ、渡すだけだから心配いらないよ。それじゃあ頑張って」

 体育教師の指示の通り位置につくと、生徒たちの視線は月守へと集中する。

 下田は強くバトンを握りしめる月守の左手を見ていた。

 その手は少しだけ、震えていた。

「位置について、よーい」

 大きなピストルの音が校庭中に響き渡ると同時、月守は走り出す。お世辞にも速いとは言えない速度で、しかし全力で、駆け抜けていく。

「おっそ。あれじゃ巻き返しも意味ないだろ」

 佐久間が悪態をつく。

 地を蹴り砂埃が舞って、月守の走る足音だけが校庭に響いていた。

 決して前は見ず、ただひたすら、地面だけを見つめて走る。

 コースの半分を過ぎたところで、月守の手からバトンが滑り落ち、転がっていくのが見えた。足を縺れさせながら来た道を戻って、バトンを右手に持ち直しながら再び走り出す。

「月守くん、大丈夫だよ、最初だからね」

 教師が大きな声で叫ぶのをきっかけに、周りの女子生徒が声かけを始める。

 頑張れ、大丈夫だよ、いけるよ。

 皆が応援している。そのはずなのに、下田の心はざわざわとして落ち着かない。声が雑音になって、月守を追い詰めるようだ。まるで自分が責められているようにすら感じるその音に、耳を塞ぎたくなる。

 頼むから、やめてやってくれ。そう願わずにはいられなかった。

 縺れさせた足をなんとか前へ進める。後半はもう、走るというよりただ勝手に動く足に身を任せていると言った方が正しいだろう。様子のおかしさは十分に伝わっていた。下田だけでなく、多くの生徒が気づいていたはずだ。

 やはりこんなことをさせるべきではなかったと。

「……はぁっ……」

 息を切らせながら、佐久間にバトンを渡す直前で、その場に座り込む。

 白い肌は真っ赤に染まり、虚ろな目は地面を見つめて動かない。それでも月守は、右手を佐久間の方へと伸ばす。

「……な、なんなんだよ」

「うけとって、」

「っ……」

 佐久間は複雑そうにただ月守の方を見下ろしていた。

 そのバトンは受け取られないまま、やがて右手からこぼれ落ちて、月守も崩れるようにして地面に倒れ伏す。

「月守!」

 下田が思わず駆け寄って支えると、その異常さが手に取るようにわかる。

 全身から汗が止まらなくて、体は燃えるように熱い。ぐったりと力の抜けた体、浅い呼吸が限界を知らせている。

「必死すぎだろ、たかが体育祭で」

 言葉には出せなくとも、こればっかりは同意見だと、下田は心の内で密かに思っていた。

 どうして、月守はただのリレーひとつに、こんなに必死なのだろう。

 佐久間がよほど気に食わなかった? 悔しくて悔しくて、そんなに負けたくなかったのだろうか。

「おい!? お前ら何やってんだ!?」

 背後から聞こえた声に振り返ると、海沼が必死の形相でこちらに駆け寄ってきていた。

「なんでこんなことになってる!?」

 困惑と誰へともない怒りを滲ませて、もはや完全に力が抜け、下田一人では支えられなくなった月守の体を軽々と抱きかかえる。

「さくま、くん」

 海沼の腕の中で息を乱しながら、月守は佐久間に向かって必死に話しかける。その異常なまでの必死さに、佐久間は恐怖すら感じて身を引いた。それでも月守は、手を伸ばして話し続けるのだ。

「ねえ、ぼくたち、ともだちになれるかな」

「……っ、」

 怯んだように肩を揺らして、佐久間は後ずさる。

 ざり、と砂を含んだ地面が混ざる音がした。



「で、何があった?」

 気を失った月守をベッドに寝かせてから、海沼は下田を険しい顔で見つめる。

「……こいつがやるって言ったんですよ。誰も、止めなかった」

 海沼は、はあ、と大きなため息を吐いて、月守の頭をそっと撫でた。

「お前、入学式参加しなかったんだってな」

「……はい」

「今更それを説教しようなんて思ってねえから、そんな縮こまるなよ。……羽留についても、お前は説明を受けてないんだろ。わからなくて当然だ。医者ですら、わからないことだからな。……俺ももう少し早く、お前に話せてたら良かった。すまんな」

 未だ苦しげな呼吸音が聞こえる。外ではクラスメイトたちが練習を続けていたが、海沼は授業に戻るようには言わなかった。

 紙コップに水を注いでから、ソファをとんとんと軽く叩く。

 大人しく勧められたそこへ腰掛けると、海沼はもう一度深く息を吐いた。

「元々羽留と俺は、生徒と先生じゃなくて、患者と医者の関係だったんだ。……まあ正確には少し違うが。とにかく、羽留がまだ中学生の時からの付き合いでな」

「だからそんなに親しげなんですね」

「まあな! 相思相愛ってやつだ」

「はあ……」

 海沼は目を細めて遠くを見る。

「太陽に嫌われちまったんだと。羽留が言うには」

「太陽に?」

「日中外に出ると熱を出して倒れるようになったのは、中学の時からなんだ。夏でも冬でも、日差しに当たれば関係ない。既存の病気と症状はよく似ているが、他と違う特徴はその速度にある。数分でも日差しに当たれば一瞬で体温が上昇し、意識障害が続くこともある。日傘で少しは凌げるが、念の為学校へは俺が車で送迎してたりもするんだ。今日はすぐに室内へ連れてきたから大丈夫だと思うが、外にいる時間が長ければ長いほど症状は悪化していく」

「……それなのに、なんであいつは、」

 自分の体のことは、本人が誰より一番わかっていたはずだ。それも、こんなに晴れた日に外で走るなんて、なおさら。下田にはやはり、月守のことが理解できない。

「なんでだろうなあ。あんまり無茶はしてほしくないんだが」

 海沼は苦笑する。

「ただ、羽留も頑固なところがあるから、何か譲れないもんがあったんじゃねえのかなあとは、察しがつくよ」

 朦朧とする意識の中でもまだ佐久間に手を伸ばしていた月守を思い出す。

「月守に聞きました。友達が欲しいって。人懐っこいっていうか、お人好しっていうか……友達なんて余るほどいそうなもんなのに。あいつさっきも友達って言ってたから、何か関係してるんすかね」

「友達ねえ……」

 思えば、最初に出会った時だって随分と必死そうだった。下田が学校へ行かないと言えば

自分のことのように苦しんで、行くと言えば自分のことのように喜ぶ。

 相当な世話焼きなのかと思っていたが、多分、違う。

「お前、しばらくここにいろよ。羽留のこと見ててやってくれ」

「え、先生は」

「ちょっと用事」

 しわくちゃの白衣を整えて立ち上がると、下田を見てにっと笑う。

「友達なら、そばにいてやってくれな」

「……」


 規則正しい寝息が聞こえる。

 授業は終わったようで、外もすっかり静かだった。

 海沼が帰ってくる気配はなく、他の生徒も一人も来ることがないまま、時間だけが過ぎていく。任された以上放っておくこともできず、下田はベッド横に椅子を持ってきて、ぼうっと月守を眺めていた。

 熱が下がってきたのか、真っ赤に染まっていた頬は元に戻っている。改めて見てみると、整った顔立ちをしているなと思う。透けているのかと勘違いしそうなほどに真っ白い。

 いっそ、熱を出していた方が健康的な色をしているように思う。

「……俺は、お前の友達で、いいのか」

 返事など返ってくるはずはない。それでも、問わずにいられなかった。

 一人で生きることを決めたはずなのに、あっという間に懐に入り込んできた月守が、ひどく眩しく遠く見えたのに。疑うほどに、綺麗に見えたのに。

 誰からも手を差し伸べられず、ただ一人で走り続ける月守は、孤独そのものだった。

 いつか見た鳩に少しだけ似ている気がした。誰もが目をくれるが、助けはしない。それほどまでに、目に見た光景とは違い、人との繋がりは薄く。

 人との繋がりを拒んだ自分が言えたことではないが、それはあまりにも悲しいことのように思えてならなかった。

 このままでは月守が本当に一人きりになってしまう気がして、そうなっては放っておけない。

 人間は難しくて厄介だ。一度は深く後悔したはずなのに。繰り返さないと誓ったのに。愚かにもまた同じことをわかっていながら、繰り返そうとしている。

 そもそも自分はそういう質であったことを思い出す。

 独りよがりで、身勝手で、醜い。結局は助けた気になりたいだけだというのに。人はそう簡単に変わることはできない。あの日から、何も変わってはいない。見て見ぬふりも、助けた気になるのも、本質は同じ。

「……下田? なんか、むずかしいこと考えてる顔、してる」

「……起きたのか」

 気がつくと月守は目を覚ましていた。ぱちぱちと何度も瞬きをして、こちらを見ている。

「下田がついていてくれたの?」

「ああ。先生はどっか行った」

「そう……ありがとう。それと、ごめんね? すごく迷惑かけたでしょ」

「いや、別にそれほどでもない」

 月守は布団を口元まで引き寄せて、恥ずかしそうに目配せをした。

「……なんだ?」

「情けないとこ、見られたって思ったら、すごく恥ずかしくなってきた……」

「自分でわかってたのに無理したんだろうが」

「うん……わかってた。わかってたんだけどね。なんでだろうね」

「お前がわからないもの、誰もわかるわけないだろ。……無茶するなって言ってたぞ」

「先生? ……そうだよね、うん。後で、あやまらないと」

 そう言いながら体をゆっくりと起こした。

「もう起きて大丈夫なのかよ」

「へいき。少し休めばなおっちゃうから。ほら、」

「おい!」

 ベッドから足を下ろすが、うまく立ち上がれずにふらついてしまう。その体を支えて再びベッドへ戻してやると、観念したのか布団を手繰り寄せて座った。

「……ごめん」

「言ったそばからお前は」

「ごめんなさい……」

 ぎゅっと子どものように布団を握って申し訳無さそうにしつつも、口元だけは少し緩んでいる。

「反省してんのか?」

「してるよ! すごくしてる。けど、もしも下田に、もっとたくさんおれのこと話してたら……下田は必死で止めてくれただろうなあって思って」

「な……」

「ありがとね。下田が心配してくれた声、ちゃんと聞こえてたよ。やっぱり下田はすごく優しいよ」

「……っ、……」

 屈託のない笑顔でそう言う月守に、言葉を返すことができない。

 それが罪悪感からなのか、それとも別の感情からなのかはわからない。先ほどまで嫌なくらいに回っていた頭が、今は全く動かなくなってしまったから。

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