嘘吐きの夏

十余一

嘘吐きの夏

 初めて彼女を見たとき、まるで人形のようだと思った。

 淡い緑色のワンピースは袖口がふわりと広がり、こまやかなレースのついた裾はひらりと風に揺れる。靴は白地に薄茶の縁取りで、つま先がころんと丸い。短く切りそろえられた髪は、横髪がくるりとカールして頬にかかる。黒くつややかな髪、日焼けしていない白い肌、そして桃の花のように華やかに染まる頬と唇。みずみずしい唇には、きっとルージュが塗られている。友だちに借りて読んだ雑誌の、モダンガールそのものだ。

 けれども、どこか浮かない顔をしていて。綺麗だけれど、陶器のような肌と相まって人形みたい。彼女はほがらかに笑う家族のなかで、ひとりだけそっぽを向いていた。


 彼女たち一家は、この夏をわたしの家で過ごす。

 わたしが暮らす集落は、都会の人からすると手ごろな避暑地らしい。ちょうどわたしが生まれたころに鉄道が開通して、それ以来、夏になると大勢の人が押し寄せるようになったと、父から聞いた。

 東京から片道四時間かかるから、日帰りはできない。大勢の人を受け入れられるほど宿屋もないので、民家の部屋を借りる。何泊もするのは当たり前、八月の終わりまで過ごすことも珍しいことではなかった。

 八畳一間をひと夏の間貸すだけで、汗水たらして一ヶ月働いたのと同じだけのお金が得られるのだから、どの家もこぞって部屋を貸す。うちのようなゆとりのない家は、納屋に住んでまで、狭い家をまるごと貸し出した。

 この夏はいったいどんな人たちが来るのだろうと考えると、少しだけ気持ちが暗くなる。偉ぶったおじさんや騒ぎちらす子どもが来たら嫌だなあ、と。しかし、そんなわたしの心配は見事に外れた。やってきた一家はとても優しそうだ。カンカン帽をかぶりニコニコしている父親、若くてきれいな母親、その影に隠れる恥ずかしがりやな坊や、腰の低いお手伝いのおばあさん、そして人形のような彼女。

 憧れの姿をしている彼女に、とても美しい彼女に、思わず見とれてしまった。けれども彼女は意に介さず、こちらを見ようともしない。何を見るでもなくそっぽを向いている。そんな横顔すら絵になると、わたしはますます目を奪われてしまった。


 翌日、納屋で一夜を越したわたしたち家族は、日の出とともに普段通り仕事を始める。海に出る父と兄を見送り、わたしは母とともに野良仕事をして、それから食事の支度。漁から帰った父たちと一緒に朝ごはんを済ませると、次はつくろいもの。

 集中が途切れるころ、少し休憩しようと納屋の外に出た。大きく伸びをして、夏らしい青空を見上げながら胸いっぱいに空気を吸いこむ。そういえば、母屋おもやが静かだ。 避暑に来た一家は、さっそく近所の海岸なり山なりへ出かけることにしたらしい。お手伝いさんだけが土間で朝食の後片付けをしていた。

 そのとき視界の端になにかが映る。

 あの人だ。昨日わたしが目を奪われてしまった彼女が、ひとりで縁側に腰掛けている。今日は、水色に染められた格子模様の涼やかなワンピース。白く大きな襟がとても素敵だ。うつむいた頬には美しい黒髪がかかり、表情はわからない。ただスカートの裾から伸びた足が、ふらふらゆらゆらと揺れている。その白いふくらはぎに、同じ女だというのにどきりとしてしまった。

 わたしはいったい何を考えているのだろうと、目をぎゅっとつむって頭を振る。

 もしかしたら、彼女はうっかり置いてきぼりにされて途方に暮れているのかもしれない。今からでも家族を追いかけるなら、海岸でも山でも道案内ができる。そう思って声をかけた。

「あの、家族のみなさんはお出かけになったようですが……」

 うつむいていた彼女が、ゆっくりとわたしを見上げる。初めて目が合った! 黒く大きな瞳は、まるで星がまたたく夜空のようで。深く、どこまでも吸いこまれてしまいそうだ。

 彼女は少しだけ思案顔をする。それから、うつろな表情のまま口を開いた。

「あなた、もしかして見えるの?」

「え?」と聞き返すわたしの声はかすれて小さく、相手に届いたのかわからない。

「実は私、幽霊なのよ」

 わたしは思わず息をのむ。一歩後ずさった足元で、砂利を踏む音が妙に大きく響いた。

 次の瞬間、彼女は「ふふ」と、空気が抜けたように笑いだす。

「なんてね、嘘よ」

 人形なんかではない、活き活きとした笑顔だ。

 彼女の可愛らしい笑顔を見て弾む心、そこに、嘘を真に受けて怖がってしまった恥ずかしさが混ざりあう。頬がどうしようもなく熱い。

「なん、なんで嘘なんか……」

「どうしてかしら。つい、ね」

 彼女は相も変わらず楽しそうに笑っている。からかわれたというのに、不思議と嫌な気持ちはしない。

「ねえ。暇つぶしに、話し相手にでもなってくれないかしら」

 傷ひとつない白魚のような手が縁側を軽く叩き、わたしを誘った。

 けれども、わたしは鼠色の着物に古びた前掛け。どちらにもつくろいの跡があって、華やかな洋服を着た彼女の隣へ座るのは気が引けた。それでも都会の香りがする誘惑に勝てなくて、人ひとり分の距離をあけた縁側に浅く腰掛ける。どうにも落ち着かないわたしは、意味もなく頭にかぶった手ぬぐいを触る。その下にあるのは潮風で痛んだ長い髪と、手の届かない憧ればかり空想するしょうもない頭。

 今度は、わたしがうつむく番だ。

「ここは良いところね。風が涼しくて、景色も綺麗」

 彼女が鈴の鳴るような声で言う。生まれ育った場所を褒められるのは嬉しい。けど、今は嬉しさだけを素直に受け取ることもできなくて、わたしの心から卑屈な憧れが顔を出す。

「こんなとこよりも、東京には素敵なものがたくさんあるんでしょ。雑誌で見たよ、喫茶店とか」

「そうね、給仕はあざやかな浅葱あさぎ色のワンピースに、まっ白なエプロンをまとうのよ。そして銀のトレイに乗せてコーヒーを運ぶの」

「やっぱり詳しいんだ」

「だって私、喫茶店で働いているんだもの」

 わたしは「本当!?」と、思わず顔を上げる。流行りの喫茶店で働く給仕さんが目の前にいるだなんて。しかし目が合うと、彼女は顔をほころばせた。

「なんてね、嘘よ」

 また嘘! 自然と頬が膨らみ、恨めしい視線を向けてしまう。

「私まだ学生だもの。十七歳。お勉強で忙しいのよ」

「え、わたしとひとつしか違わない。もっと年上だと思ってた」

 彼女は「あら、そんなに大人っぽく見えるかしら」と、また微笑む。

「それにね、コーヒーは苦いから好きではないの。ミルクセーキのほうが好きよ」

「みるくせーき? ってどんなの?」

 疑問を浮かべるわたしに、彼女は優しく教えてくれる。

 兄ばかり三人もいる兄妹きょうだいの末っ子として育ったわたしは、姉というものを知らない。もしも姉がいたら、彼女がわたしの姉だったとしたら、こうして優雅に相手をしてくれたのだろうか。そう考えると、嫌でも頬が緩んでしまう。


 それから彼女――澄代すみよさんと、毎日時間を見つけてはお喋りするようになった。

 澄代さんはいろいろなことを話してくれる。

 東京の街は夜でもネオンが輝き、満月よりもずっと明るいとか。澄代さんは歌がとても上手で、歌劇団のスターとして舞台で歌い踊ったとか――これは半分嘘だった。飛行家として世界を飛び回ったとか――これも嘘。世界一大きな飛行船が、ドイツから日本へはるばるやって来たとか――これは本当。東京の空には、軍人さんが大陸から連れてきた龍が泳いでいるとか――これはさすがに嘘!

 東京の華やかな暮らしや世界での出来事、でたらめでおかしな話まで、本当にいろいろだ。わたしにとっては澄代さんの話すべてが新鮮で、刺激的で、楽しくて。話を聞いては驚き、信じて、騙されて、笑って。ときにはいぶかしんで、驚いて、また笑った。

「東京では、鉄道が土の中を走っているのよ」

「もう騙されないよ。それはさすがに嘘だ」

「嘘じゃないわ。本当よ」

 わたしの驚く顔を見て、澄代さんも心底楽しそうに笑う。

 ふたりでお喋りすればするほどに、私の心は幸せで満たされた。


 ◇


「今日は、どこかにお出かけしましょう。案内してくれる?」

 晴れ間が続くある日のこと、レースの日傘をくるりと回す澄代さんに誘われた。今日は濃い青地に赤と白の水玉が彩るワンピースを着ている。四角くあいた胸元を飾る赤いリボンが可愛らしい。

 それじゃあ海にでも、と。わたしは澄代さんに言われるがまま出かけることにした。

 彼女の家族は、戸を開け放した居間でゆったりと涼んでいる。幼い男の子が、連日の磯遊びや山登りで疲れてしまったのだろう。母親の膝をまくらに眠っている。澄代さんが「行ってまいります」と声をかけると、父母は優しげな笑顔を向けて「気をつけて行ってらっしゃい」と見送った。

 こうしてみると、澄代さんの穏やかな目元は父親にそっくりだ。あまり、一緒にいるところは見かけないけれど。澄代さんは、母親や弟ともあまり話さない。一緒に避暑に来るくらいだから、家族仲が悪いわけではないのだろうけど、わたしには事情はさっぱりだ。


 海へ行く道中、澄代さんが日傘をわたしのほうへ傾ける。

「暑いでしょう。お入りなさいよ」

 一歩こちらに寄った彼女から、ふわりと、花のような良い香りがした。急に近くなった彼女の存在に、そしてその隣に立とうとする自分が潮や泥にまみれてばかりなことに、恥ずかしさがこみ上げてくる。

 わたしが一歩引くと、澄代さんが一歩詰める。そのくり返しの末、わたしは道端の草むらに足を踏み入れて転んでしまった。澄代さんが申し訳なさそうに手を差し伸べるから、その手を取って、それからは恥ずかしくても寄り添って歩いた。


 海に着くと波打ち際を少しだけ散歩して、大きな流木に隣り合って腰掛けた。

 水も砂浜も、すべてが太陽の光を反射してきらきらと輝く。海風に吹かれた彼女が、横髪を耳にかける。たったそれだけの仕草すら雅やかで、やっぱりわたしには見とれることしかできなかった。

 静かな波音だけが響くなか、澄代さんがおもむろに口を開く。

「どうして家族と一緒に過ごさないのか、不思議に思っているのでしょう」

 そうして、ぽつりぽつりと自身のことを話してくれた。

 自分は前妻の子であり、後妻やその息子とどう接したら良いのかわからなくて悩んでいること。本当の母親を病気で亡くしてから、寂しくて、父親とも折り合いがつかないこと。どこにも自分の居場所がなくて苦しかったこと。将来への不安からすべてを悲観して、そのまま命を絶ってしまおうかと考えていたこと。

「それでも、今は幸せよ。あなたに出会えた」

 わたしの頬を優しく撫でて、うっとりとした表情で顔を覗きこむ。澄代さんの黒く大きな目が、わたしを見つめて離さない。

「私、おとめちゃんのことが大好きよ。これは、嘘じゃないわ」

 まるで嘘でないことを証明するかのように、彼女はわたしの好きなところを言い連ね始めた。話に耳を傾けるときの、らんらんと輝く目。なんでもすぐに信じてしまう素直なところ。笑ったときに大きくあく口と、片方にだけできるえくぼ。怒ったときに膨らむ頬でさえ愛おしい。朝から晩まで働く勤勉なところと、お裁縫が得意な働き者の手、それから――。

 彼女が紡ぐ言葉は止まらない。夏の陽射しよりも熱い恥ずかしさに支配されつつも、やっぱりわたしは舞い上がってしまう。こんなに嬉しいことがあるだろうか。

 わたしだって澄代さんのことが大好きだ。ひと夏の、避暑の間だけではなくて、ふたりだけの楽しい時間が永遠に続けば良いと願っている。

「わたしも、澄代さんとずっと一緒に居たいと思う。ずっと隣で笑いあっていたい」

 そう返すと、彼女は微笑む。いつもの笑みとは少しだけ違う、違和感のある笑顔。でも、その正体にわたしは気づけなかった。


 ◇


 楽しい日々はあっという間に過ぎ去り、一家が帰る前日。澄代さんとゆっくり過ごせる最後の日が訪れた。

 今日はどんな話をしてくれるのだろうと楽しみに思いながら、縁側に腰掛ける。隣に座る彼女はいつだって凛として美しい。薄紫のスカートには大輪の花が咲き、腰のベルトにはべっ甲の留め具が光る。

 澄代さんは、薄曇りの空を見上げながら口を開いた。

「数ヶ月前に、女学生が二人、伊豆大島の火口に身を投げたの。私とそう年の変わらない人たちよ」

 静かな語り口調に、うるさいはずの蝉の声も遠くなる。

「新聞でこの事件を知ったとき思ったわ。きっと、身を投げた人たちはこんな世の中で生きていたくなかったのね。でも、ひとりでく勇気がなくて、ふたりで手を繋いで火口まで登ったのよ」

 澄代さんが縁側に手をつき、こちらにぐっと身を乗り出す。

「ねえ。私たちも船に揺られて海を渡って、燃える火口に飛びこんでしまおうかしら」

 澄代さんのまっ黒な瞳に貫かれて、わたしはまるで蛇に睨まれた蛙のように動けなくなった。

「今の、この楽しいひとときを、私たちごと閉じこめてしまうの。私たち、美しい乙女のまま永遠になるのよ」

 澄代さんは寂しげに微笑みながらも、わたしから目を逸らさない。いつものように「嘘よ」と、優しく笑ってほしかった。

 彼女の夜空のような瞳を、初めて怖いと思った。どこまでも暗く沈んでゆく闇色は、底をうかがい知れない。姉のように慕って、恋人のように想いあっていたはずなのに、心の奥底にひそむものを分かち合えていなかった。そのことがたまらなく悲しい。

 ――わたしは澄代さんとずっと一緒に生きていたい。澄代さんはそうではないの?

 わたしは何も応えられないまま。ふたりで、しばらくじっと見つめ合う。

 どのくらい時間が経ったのだろう。もしかしたら、ほんのわずかだったかもしれない。不意に、わたしの母から声がかかった。野良仕事を手伝うように、と。わたしは弾かれるようにして立ちあがると、彼女のほうを振り返らずに駆け出した。


 翌日、澄代さんは何事もなかったかのように振舞っていた。首元に大きなスカーフのついた純白のワンピースに、つま先の丸いころんとした靴。カールした横髪がかかる頬は、桃の花のように色付いている。洋装の似合う、都会から来た素敵なお姉さん。

 彼女は朗らかな家族の後に続いて、駅へと向かう。その背に向かって名前を呼んだ。

「澄代さん、……」

 呼び止めたものの、何を言うべきかわからない。わたしが口を開いたり閉じたり、一向に言葉を発せずにいたのを、澄代さんは待っていてくれる。けれども汽車の時間が迫り、とうとう彼女が別れを告げた。

「さようなら。どうか、お健やかにね」

「……また来年も来てよ。わたし、待ってるから!」

「ええ、きっと遊びにくるわ」

 わたしの言葉に、澄代さんは微笑み返す。穏やかに笑っているはずなのに、その顔は悲しみに歪んでいるようにも見えた。

 純白のスカートがひるがえり、よく磨かれた靴が不釣り合いな砂利を踏みしめる。すっと伸びる背筋を見送りながら、彼女とはこれきり、二度と会えない予感がした。


 こうして澄代さんは、夕立ちのようにわたしの頭上から降りそそぎ、水浸しにしたと思ったら、あっという間にいなくなってしまった。わたしの元には青空を映した水たまりだけが残り、今日も胸をぎゅうと絞めつけている。

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