カムイパパイヤアホーイヤ
香久山 ゆみ
カムイパパイヤアホーイヤ
「いーやぁ、やだっやだっ!」
帰ってきて早々、リビングで娘が騒いでいる。ほんの一時間前に喜々とし出掛けて行ったと思ったら、どうしたことか。
「おかえり」
パソコンをタイプする手を止めて、リビングに妻と娘を出迎える。
「……ただいま」
娘に付き添っていた妻はぐったり疲れている。今週は締切り前ということもあり、家事や娘のことを、妻に任せきりにしており申し訳ない。在宅仕事だからよその男よりも家のことに貢献できるといって妻に
地蔵盆から帰ってきた娘は、両手いっぱいにお菓子を貰ってきたようだ。なのに、この不機嫌はどうしたものか。
古い町並みが残るこの辺りでは、毎年八月二十四日には子供達の無病息災を願って辻々で地蔵盆が開かれる。今年はたまたま土曜日に当たったが、近年では二十四日が平日だと土日に調整されるようだ。自分の幼少期を思い返してみても、確かに子供にとって地蔵盆自体は面白いものではないかもしれない。けれど、町会によってはビンゴをしたり、子供を楽しませる工夫をしていたりする。娘自身も遅い時間に幼稚園の友達に会えることを楽しみにしていたはずだが。
「友達とケンカでもしたのかな」
娘に目線を合わせて尋ねる。
内心では面倒だと思いながら。早く部屋に戻って仕事を再開したいと思っている。悪い父親だ。
「
僕の質問を無視して、娘が主張する。
「動物園は来週行く約束だろ」と言っても、娘は首を横に振って「明日、動物園行く」の一点張りだ。
昼頃には「来週の動物園が楽しみ」だと確かに言っていたのに。
また「やだやだ」と暴れ出しても大変だ。あまり刺激しないようにして、ちらと妻に視線を送る。妻が小さく溜め息を吐く。
「地蔵盆でお友達に会ってね、来週動物園に行くんだってにこにこ嬉しそうに自慢したのよ。そしたら、来週は台風来るから無理だって言い返されて。それでお天気一転、低気圧になっちゃった」
「なるほど」
確かに、数日前から天気予報では、台風の発生と本州通過の進路予想を報じている。上陸後は瞬間最大風速60メートルを超える超大型台風で、進路については数時間おきに西に東に予想が動いておりまだはっきりしない。
「台風がここを通るかどうかはまだ分からないよ。来ないかもしれない。そしたら約束通り動物園に行けるよ」
「でも来るかもしれないもん。そしたら動物園いけなくなるから、明日いくもん。明日はまだ台風こないから、晴れてるもん」
台風の仕組みなど何も理解していないくせに、一人前に言い返してくる。
仕事を積んでおり、明日出掛けるなど無理だ。週明けまでに片付くかどうかも怪しい状況で、正直台風が来て動物園が中止になればラッキーなどと思っていた。
「明日行くもん」と、娘は頑として譲ろうとしない。こうなると長い。僕は早く仕事に戻りたいのに。担当から催促の連絡も入っているのだ。
あとは妻に託して、部屋に戻ろう。顔を上げると、妻と目が合った。
だめだ。
妻に失望されたくない。
けれど仕事が。締切りが迫っているのに、アイデアが浮かばず煮詰まっている。一日パソコンに向かって、デスクトップに文字を並べては消してを繰り返している。どうせ部屋に戻ったところで、作業は進むまい。僕は諦めて、娘を風呂に入れることにした。
「とりあえずパパと一緒にお風呂はいろうか」
お風呂用のおもちゃで娘を風呂に誘うことになんとか成功する。浴室に向かう背後で、妻の纏う空気が緩んだ気配がした。仕事に家事に子育てにと、妻の方こそ疲れているのだ。内心で、妻が娘を連れて二人で明日動物園に行くと言ってくれないかと期待していたが、口に出さなくて本当によかった。
シャンプーで泡立てた髪をウサギにしたりハリネズミにしたりしてやって、風呂の間は娘はご機嫌だった。けれど、上がるとまた「明日動物園」デモが始まった。
この騒動を治めてから仕事に戻ろう。そう覚悟を決めた僕は、娘に言った。
「よし、それじゃあ台風を逸らそう」
「え?」
娘と妻が同時に声を上げる。
「さあ、一緒にベランダに出よう」
娘に手を差し出す。娘が手を伸ばす前に、「だめよ」と妻が制する。危ないからベランダには出ないで、と。ちぇっ。僕は考えに没頭すると集中力が疎かになることがあるからと、極力車の運転も避けるよう妻から言い渡されているくらいだから、心配されるのも尤もか。家族を乗せた車でぼーっとしたことはないつもりだが、毎回妻が運転を買って出る。不眠症気味で助手席でなら眠れる僕を気遣ってくれているのかもしれない、とも思う。
「わかったよ」
余計な心配を掛けることもあるまい。
僕と娘はガラス窓の手前に立つ。南の空はもうすっかり暗い。「映ってるー」ガラス窓に反射した自分に、娘が手を振る。その隣で、僕はおもむろに天に向かって両手を上げる。
「カムイパパイヤアホーイヤ・フルギブピリーヌ」
「は?」
僕が唱えると、娘と妻がきょとんと見上げる。何言ってんだこいつ、と。
「アイヌのおまじないだよ。『明日天気になあれ』という台風避けの呪文らしい」
「じゅもん?」
「魔法の言葉だよ」
「魔法っ?!」
娘が瞳を輝かせる。
あたちもやる! と、僕の隣で両手を上げる娘に呪文を教えてやる。
「カムイパパイヤアホーイヤ・フルギブピリーヌ!!」
「そうそう、いいぞ」
「あまり近所迷惑にならないようにしてね」と妻。呆れ顔をして、すぐにスマホ画面に視線を落とす。娘の気を逸らすことに異議はないらしい。
「もう少し声のボリュームを落そうか。念を込めるように、台風が逸れるように……いや、逸らしてよその地域に被害が出るのも悪いから、台風よ消えろーと念じながら唱えようか」
ぶつぶつ言う僕に、妻が笑う。
「真面目ねえ」
「あ、信じてないのかい」
「だって」あなたは信じてるの? と、娘の手前口には出さないが、妻の視線がそう問う。
「信じて唱えないと。僕らはふだん目に見えない人の心を動かそうとしているんだよ、だから目に見える台風なんて」
「なるほど」
と、妻が視線をスマホに戻す。その口元は笑っている。
「カムイパパイヤアホーイヤ・フルギブピリーヌ」
「カムイパパイヤアホーイヤ・フルギブピリーヌ」
僕と娘は台風に向かって呪文を唱える。
「何回いうの?」「百回」と答えるが、正解は娘が飽きるまでだ。
「カムイパパイヤアホーイヤ・フルギブピリーヌ」
「カムイパパイヤアホーイヤ・フルギブピリーヌ」
魔法少女は飽きもせず呪文を唱える。夏の夜空は雲一つなく、来週台風が来るなんて信じられない。あとで天気予報を見たらまた進路が変わっているだろうか。
「カムイパパイヤアホーイヤ・フルギブピリーヌ」
「カムイパパイヤアホーイヤ・フルギブピリーヌ」
「カムイパパイヤアホーイヤ・フルギブピリーヌ」
スマホで防災サイトを確認していた妻も、隣に並んで呪文を唱える。不足している備蓄をリストアップして明日買出しに行くらしい。「とはいえ」と妻が言う。
「家族で動物園に行くのを楽しみにしているのは、娘だけじゃないんだからね」
そう言ってウインクしてみせる。
ここは妻に任せて仕事に戻っていいということだと思ったが、僕はそのまま呪文を続ける。
「カムイパパイヤアホーイヤ・フルギブピリーヌ」
「カムイパパイヤアホーイヤ・フルギブピリーヌ」
「カムイパパイヤアホーイヤ・フルギブピリーヌ」
親子三人並んで何してんだか。だんだん楽しくなってくる。そうだ、僕だってきみ達と動物園に行きたい。
「カムイパパイヤアホーイヤ・フルギブピリーヌ」
「カムイパパイヤアホーイヤ・フルギブピリーヌ」
「カムイパパイヤアホーイヤ・フルギブピリーヌ」
窓の外から隣家でも同じ呪文を唱えている声が薄ら聞こえる。SNSでも呪文を書き込んでいる人がたくさんいたよ、と妻が言う。これだけ多くの人が念を込めていれば本当に通じるのではないかと思える。
「カムイパパイヤアホーイヤ・フルギブピリーヌ」
そうだ、この話をネタに原稿用紙十枚くらい埋められるのではないか。さすれば担当からの嵐のような催促も治まるだろう。
「カムイパパイヤアホーイヤ・フルギブピリーヌ!」
カムイパパイヤアホーイヤ 香久山 ゆみ @kaguyamayumi
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