私だって魅了されている。


 だから、密猟なんて暴挙に走った。

 同じように魅了された昆虫学者との出会いは運命だった。海外では実用化されている法医昆虫学から得られる、死後経過時間や死因究明のための新たな手段を取り入れようとした前の研究室の、挑戦的な姿勢そのものは間違えていない。大型人間の亡骸に集う虫は、いわば新種の宝庫だ。学会で発表すれば、その名前は昆虫学史にも刻まれる。


 なんて、彼女は未来の欲に溺れるような研究者ではなかった。目先のプライドを満たす厄介者だった。亡骸の所在地は秘密厳守だが、彼女は亡骸でなくて虫ならばかまわないだろうと、捕獲した写真をネット上にアップした。


 新発見の巨大昆虫の情報はまたたく間に拡散された。写真の背景の植物の生息環境から、虫、ひいては亡骸の所在地もすぐに特定された。あっという間に愛好家や密猟者がやってきて、成虫どころか亡骸で育っていた幼体も、卵も盗まれた。

 亡骸そのものも踏みにじられて、遺体現象の観察予定は白紙に戻された。一度暴かれた所在地を立ち入り禁止にすることも、遺体の保管場所を変えることも難しい。

 見かける虫の数は日に日に減っていった。自称愛好家程度が育成できるわけもない虫たちは、すべて死に絶えただろう。亡骸を拝んで悦に浸っているのだろうか。それともゴミ扱いで捨てられたか。


 亡骸の経過観察に訪れていた私は、迷いながら飛んでいる涙香蝶と目が合った。そんな気がした私は、一切の迷いを捨てた。

 空のボトルに、亡骸に残っていたなけなしの涙と産卵してあった涙香蝶の卵を採集した。

 また盗られるのか、飛んでいる涙香蝶は思ったかもしれない。

 私はボトルを抱いて帰った。誰に何を思われてもいい。せめて新たな大型人間の亡骸が生まれるまでは、なにがあっても隠し通す。

 そんな私の姿は、法医昆虫学者の女が密猟者確保のために設置していた監視カメラに録画されていた。


 卵を採集していた事実を否定する材料はない。なんせ証拠が残っている。言い訳を聞いてくれる上司などいなかった。かねてよりこの態度が気に食わなかった上司はいたおかげで、ついに見放された。

 私のポストには代わりにその女が就いて、私は地方に飛ばされた。その女の肩に手を乗せる上司を見てすべてを理解しても、五寸釘を打ち込みに戻らなかった理由はここにある。


 私には守るべきものがあったのだ。


 復讐するような性格の女が戻らなかったことで、自殺の噂の真実味も増したというから冗談じゃない。復讐よりも自殺のほうが私の性格上ありえないだろうに。本人がいなくなってからもバカにしやがって。


「死んではじめて、私たちはこんなに近くで虫が見られるのに。これが最初で最期なのに。お願い。どうかこの虫たちを守って」


 だから、彼女はこの身を捧げた。

 誰か大型人間が死なないといけない。この空の欠片のような翅を、満たされない飢えと戦いながら生きる蠅を、虫たちを守るためには。


「手を滑らせて第一胸椎まで切ってしまったわけじゃないんですね」

「失敗に終わったが、望みは叶ってしまったわけだ」


 大型人間の首を吊れる縄が、首を吊るだけの高所が、果たしてこの世のどこにあるのか私たちは知らない。彼女もきっと口を割らないだろう。


 もくろみは失敗に終わったが、地面に尻からついたとき、脊柱が頭蓋底を突き上げて抜けてしまった。第七頸椎までの切開のつもりが、第一胸椎まで切ったように見えた理由だ。脳幹を損傷しての即死では、痛みも苦しみも、死んだことすらわからなかっただろう。


「誰もここに足を踏み入れないようにできればいいんだろうが、どうする? 森に入ってきたやつは呪い殺されるって噂でも流すか」

「火のないところに煙は立たないって言葉を聞いたことはありませんか?」

「ちょうどいい、お前が火元だ。大型昆虫密猟の罪を問われて左遷先で自殺した元法医学者は、昆虫採集を目的に森にやってきたやつを呪い殺すってな」


 本当にこの男は、好き勝手言ってくれる。

 それは私が募らせていたうっ憤を晴らす穴を開ける針のようなちくちく言葉なのに、爽快感を伴っている。

 鼻で笑う私と、大口を開けて笑う男を、大型人間は見ていただろうか。


 リュックから、涙香蝶の卵が入っているボトルを取り出す。涙香蝶にはきっと密猟者だと思われながら採集し、腐らせたと周囲に嘘をつきながら、なんとか今日まで守り通せた卵はまだ、生きている。


「ここで、この卵を孵化させてほしいの」

「ええ、どうぞ。私はもう死んだの。だから好きにしてくれていいのよ」

「ありがとう」


 蒙古ヒダの水たまりに、中指ほどの大きさの卵をそっと沈ませる。薄い蛍光色の卵が、色濃くなったように思えた。人の体温にさらして、そこから徐々に水温が低下していくことで孵化のスイッチが入る。涙香蝶に魅了された女が知る、この蝶の数少ない知識だ。


「この卵が孵化するまでは、君が見守っていてくれるかい」

「私はもう死んだのよ」


 ふふふと、彼女は微笑んだ。

 見守る約束してくれない理由が、すぐにやってきた。



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涙の亡骸 篝 麦秋 @ANITYA_

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