リュックから取り出したボトルに、彼女の涙ごと蛆を採集する。なるべく種が異なるものと、見た目から種別がつきにくい蛆を優先的に捕獲する。それから、涙を補えるように彼女の目に精製水を注ぎ足す。少しでも視界が良くなるといい。


 脚が皮膚の毛穴やしわに引っかからずに、水たまりまで登れずにいたカミキリシデムシがぽとりと落ちた。

 半肉蠅の大きさが成猫ならば、カミキリシデムシは中型犬に匹敵する。本来のシデムシ類は熟んだ死肉を好むが、大型人間の亡骸を食すカミキリシデムシは強固なあごを活かし、皮を噛み切り食べる。肉を食うのはカミツキシデムシといい、そうしたシデムシ類が彼女の首周りにネックレスのようにぐるりと張りついていた。

 首の皮膚はたしかに薄いが、外傷のない亡骸だと鼻や口といった粘膜組織、次に傷跡やケロイドのような皮膚の薄い部位から食べ始める。


 目元に来るのは産卵のための栄養をつけたからだろう。やっと目元に到着した一匹が、まつげにとまって涙に口吻を伸ばしている涙香蝶のそばに向かって行く。まつげのあいだに産卵すれば、孵化した幼虫が涙に落ちて水分と餌の蛆虫には困らない。生き物は賢い。


 私が蛆を採集しているあいだに、男は背負っていた細長い布をほどいていた。布に包まれていた白木つくりの鞘から、大型人間解剖のためのメスが引き抜かれる。

 女だてら解剖の職に就いていても、悲しいことにこの巨大な刃物を振るう腕力となるとどうしても男性には劣る。どんなに鍛えても、正確性も重視される解剖では引け目を感じてしまう。

 首に集まっているシデムシを退けるように指示されて、何匹かを抱えて地面におろす。


 彼らの食事によって荒らされた首の皮膚と肉に、メスの切っ先が刺し込まれた。第七頸椎まで切開して、炎症や骨折の異常はないかを確認する――手段は、私たちと同じサイズの人間でもよく行われる。


 人の手によって開かれた新たな餌場に、我先にとシデムシたちが突進して食事を始めようとしていた。そうなる前に目視をしようにも、虫たちの食欲は止まらない。

 最後は写真を撮るためにかがんで、背中や腰で虫たちを押さえながらシャッターを切った。


「第一胸椎まで切ってしまったんですね」

「俺の不手際だ、きれいに縫合する」


 切開部位は狭いに越したことがない。死んでからも傷が増えるなんて、誰だって悲しい。


「たくさんの虫が来るのならそのままでいい。私の体が食事になるんだから」

「気色悪いとは思わないのかい」

「どうして。どれも同じ生き物なのに」


「たとえば」男が腕を差し出せば、空がひとひら舞い降りてきて翅を休めた。「この蝶は今、愛好家連中に高値で取引されている。君たちの体液でしか育たない、この美しさに目がくらんだ連中がいたせいでね。そのせいで君の前に亡くなった大型人間の亡骸に集まっていた涙香蝶は、根こそぎ採集されてしまった。情報を漏らした同業者がいたんだ。ところが蠅もシデムシも、見た目が醜いし無数にわきあがってくるから、検案の邪魔という理由だけで焼き殺される。そいつらは君たちの亡骸以外でも繁殖するから、数が増えやすい」


「同じ生き物なのにどうして別な扱いなの。そのままじゃみんな絶滅してしまう」


「そう。君たち大型人間の亡骸がその時々で異なる場所で発生して、その付近に生息域を変えてきたおかげでかろうじてつながってきた生態系も、今や崩れそうになっている。君の前に亡くなった大型人間の亡骸には、もう涙香蝶の卵は残っていないらしい」


 もはや虫の息、と、男は私に振り返る。会心の表情で。腹立たしい。


「そんな愛好家や密猟者連中に奪われる前に、卵を守ろうとして採集していた姿を密猟者扱いされて、クビ同然の形で俺のところに来たのがこの女というわけだ」


 男は鷹匠の仕草で涙香蝶を空に放つ。見る角度によってきらめきも濃淡も変える青い翅が、山中の景色を泳ぎながら私のそばにやってくる。

 大型人間も、もし首でも目でも動かせたのなら、この蝶を目で追っていただろう。

 もしくは、私をにらんでいたか。


 涙香蝶も半肉蠅もシデムシ類も、大型人間の亡骸に集う。そうして生まれた独自の生態系は、大型人間生物群集と呼ばれた。

 死骸に集う虫、とだけ表現すれば嫌われて注目もされなかっただろう。


 抜きんでた美しさを持つ涙香蝶だけが、いつも例外扱いされる。涙を吸っている姿から、涙の香りをかぎつけてくる蝶の名前まで授けられた。産卵から孵化、幼体、蛹、成体となっても大型人間の亡骸から離れない。その一途さも人の心を惹きつけた。

 実際のところ、体液ならば鼻汁でも糞尿でも、晩期遺体となった腹部が自家融解によって腐汁をこぼせばそれだって飲む。

 次の大型人間の亡骸が発生するまで、そうして命をつなぐ。その事実だって周知させられたはずが、美しさに魅了された人の目はすっかりかすみ、都合のよい事実しか映せなくなったらしい。

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