深い眠りのようだった。老人は次のように長々と語り始めたーー自身の生い立ちや、これまでに至るかいつまんだ人生録をーーだが私はこの記録帳に記すに当たって、既に周知の事実である出来事に関しては省略させて頂いている。予めご了承頂きたい。


 老人は語っている間、目を殆ど瞑りかけているような、しょぼついた眼差しでいた。酒は手元に置かれたまま一向に触れられることなく、主人を失った酒は忠実な犬のように項垂れたまま再び触れられるのを待っていた。


 老人は語り始めた……




 あれはセパス暦1600年に入って初めての航海だった。よく憶えているよ。昨晩飲んだ酒場の主人が、軍支給の絵の入ったカレンダーを自慢げに見せてきたからな。あれは五月十五日の暑い昼だった。五月なのにやけに暑くてな。海の様子がいつもと違っていて変だった。奇妙な匂いがしたんだ。打ち上げられた鯨がもう何年も放置されていて、匂いが港に溶け込んでしまったような、そんな妙に生臭い、腐ったような匂いがした。だが俺はまあそんな日もあるだろうぐらいにしか思わなかった。今思えばあの判断はプロの航海士としては間違いだった。本当はほんの僅かな違和感でも、海の情報であれば船長や船乗り達全員に知らせておくべきだった。それが航海士の本来の仕事というものだ。


 だが俺はその時、その報告を怠った。良くある海の変化だと思ったんだ。そんな匂いがする日なんて、今まで一度もなかったというのにな。俺は荷物を持って浜辺まで行って、漕ぎ手の待つ小舟まで行った。漕ぎ手は俺のことを良く知ってたよ。名のある航海士だとな。自慢じゃないが俺はそれまで色々な海を航海士として旅してきたし、その殆どを成功させてきた。俺が出来ないことなんて海の中じゃ何もないんじゃないかと、そう当時の若造の俺はそう思っていたんだ。馬鹿な話だろう。船に乗る人間全員の命を預かる唯一の羅針盤が、驕り高ぶって独りで酒を飲んでやがったんだ。誰とも分かち合うことの出来ない、たった一人で飲む酒をな。美味そうに……。


 小舟が動き出して、俺は船に揺られながら、目的の大型船の方を見ていた。大きな、帆布を何枚も備えた、立派な船だった。余程の馬鹿じゃない限り、あんな船を壊しちまうなんてことは出来ねえよ。だが真新しい、まだ航海し始めて間もない船だということは見てすぐに分かった。木や布がまだ塩でかぶれていなかった。良い船というのは雰囲気がある。馬みてえなもんだ。丁寧に扱われているか、普段から良く走らせてもらっているか、餌は潤沢か……。俺はその船を見た時、すぐに思った。この船ならどんな海だって場所だって連れて行ける。俺とこいつが組んだらこの世界では無敵だってな。それが間違いだったって気づくのは、そんなに先の話じゃなかったがな……。


 俺は小舟を降りる時、少し離れた水面に何か奇妙なものを見たと思った。例えるなら、そうだな……白い布のようなものだ。やけに長い、白い絹みたいな布だ。それが何メートルも、船の近くから海岸の手前まで伸びているように俺には見えたんだ。俺にはな。だが船乗りの中でその白いのについて話している奴らは一人もいなかった。一瞬は魚かとも思ったが、そんな長くて白い魚がいるなんて見たことも聞いたこともなかったから、俺はそこでももう一つ誤った。小舟を寄せてちゃんと見ることを怠ったんだ。いや、お前さんが言いたいことは分かる。俺が見に行ってそこで奴らに食い殺されていたらここで話すこともできなかっただろう、だから結果的には良かったのだろう、とな。いや、お前さんはそんなことは言わんか。まあいい。話を続けるとしようか。


 俺は確認を怠るという二度目の誤りを犯してから、船に乗った。本当に立派な船だった。舷に使われている木材が緩やかに軋んで、耳に心地よかった。いつまでも聴いていたい音だった。だがそういうわけにもいかない。俺には仕事がある。俺は船長に話をする為に船の先頭へと歩いて行った。そこでついでにあの白い布のような物についても話をするつもりだった。船長は船乗りらしい日焼けした浅黒い顔をしたまだ若い青年だった。その当時の俺と殆ど歳が変わらなかったんじゃないかと思っている。実際のところは知らないがな。


 俺は船長にも白い布についての話をした。海の上で、白い布のようなものが海岸に向かって揺れていると。そういう魚でもいるのか、と。船長は首を振った。懐から小さな望遠鏡を取り出しながら、船長は俺にも一緒に見るようにと言った。それから二人で俺が見た白い布があった場所が見える船の縁で、そいつを見ようとした。


 だがその時にはもう何もなかったんだ。その白い布みたいなものは。俺は珍しく動揺したよ。そんな事は一度もなかったんだ。自分が見間違いをしてその報告を船長にするなんてことは。どんな些細な事だって、船長には正確に、間違いなく報告を重ねてきたという自負が俺にはあった。だがその青年の船長は望遠鏡を目から離すと、「見えないな」とだけ冷たい口調で言い放つと、俺に向かって望遠鏡を差し出しながら、言ったんだ。


「じゃあ、お気の済むまでこいつで見ていて下さい。俺は出港の準備をしますんで」


 俺は見間違いをした事なんてそれまでには一度もなかった。あそこには白い布みたいな物が間違いなくあったんだ。それが俺達が船から見ようとした途端に見えなくなりやがった。気配を察知して姿を隠したんだ。今の俺には分かる。俺は……奴らの『橋』のような物を見ていたのに、そのままにしていたんだ。船は出航した。俺は望遠鏡を船長に返し、自分の仕事に戻っていった。海図を開き、自前の羅針盤を前に、計画図を練っていった。その仕事は既に前の日には終わらせていたから、後は船の海図に新しく書き込んでいくだけで良かったんだ。仕事としては楽なものだよ。もう何年もやってきたことだったからな……。


 俺は首尾よく仕事をし終えて、自分の持ち物を片付けながら思っていた。船に乗り込む時に見たあれは何だったのだろう、と。その時にはもう船は港を離れていて、数時間が経過していた。船乗り達は精力的に働いて、目的の港までは一週間程度の短い旅になる筈だった。だが、悪夢が起こった。何事もない航海が地獄絵図に変わるその瞬間。お前さん、そんな経験をしたことがあるかい? 突如として何事もなかった穏やかな日常が終わりを告げ、あらゆる認識や理解を超越した出来事が起きるんだ。全く予想もつかない形で……。酒を飲むぞ。良いだろう。お前さんも飲むかい? いいか。分かった……。


 私は老人の口調や声音、表情の変化などを逐一紙に記録しようとしていたが、やがてやめた。ただ言葉の一部を、抜かさないように気をつけながら、要点だけを理解可能な形で留めておくだけにした。そして記録の他は、自分の日記に書けるように、一言一句聞き逃すまいと強く念じるように思いながら、老人の動く喉仏を見つめていた。瓶に入っていた琥珀色の液体が、毒がーー老人の肉体に新たな活力を与えようとしているように見えた。


 私は文字で一杯になった一枚目の紙を捲り、新しい紙を準備した。老人は続きを話し始めた。


 一枚しかない窓を強さを増した雨が叩き、いつの間にか白い筋を形作っている。白い、何故か透明ではない、筋のようなものが。


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

元航海士の小さな話 幽々 @pallahaxi

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

フォローしてこの作品の続きを読もう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ