砂風呂おじさん

筋肉痛

本編

 俺はどうしようもない奴だ。一時の感情で取り返しのつかないことをした。

 いやきっとこの猛暑のせいだ。この暑さでこれだけ精神的に追い詰められれば、こうなることは予想できた。奴はある意味自業自得だ。

 だが、世間はそう判断しない。そんなのは不公平だ。だから、俺は抗う。抗わなければいけない。 

 自己嫌悪と言い訳の無限ループで脳が支配される中、無意識にあの海に向かっていた。こんな状況で頼れるのは、あのおじさんしかいない。変な人だった。すごく変な人だった。

 だからこそ、今の俺でも受け入れられるのではないかと藁にも縋る思いだった。

 他人見られたら人生が終わる荷物を載せたマイカーを、動転した心でどうにか運転しつつ、おじさんとの過去を思い出していた。


 おじさんと会うのはいつも夏だった。

 実家の近所の海水浴場が海開きしている期間に、いつも砂に埋まっていた。顔だけを地上に出して全身が砂に埋まっているのだ。大人になってから知ったが、砂風呂というらしい。鹿児島の指宿市が有名と会社の同僚との世間話で知った。しかし、俺の地元は福井の田舎だ。砂風呂など聞いたこともない。

 ”いつも”とは言ったが、本当にいつ何時なんどきもなのかという疑問があると思う。なぜなら砂風呂はかなり暑い。汗を大量にかく。それがデトックス効果を生むらしい。つまり、一種のサウナみたいなものだ。推奨入浴時間は15分~20分とされている。そんな砂風呂に入っているというのは、疑わしいのも当然だ。

 だが、本当に俺が海に遊びに行く時はいつも埋まっていたのだから、いつもとしか言いようがない。


 具体的に何歳だったかは記憶が朧気だが、確か小学校低学年くらいだったと思う。幼心にもそのおじさんのさまは不思議だったので、怖いもの知らずのピュアボーイだった俺は、おじさんに問いかけた。


「おじさんはどうしていつも砂に埋まっているの?」

「お兄さんは地底人だから、これ以上、地上には出られないんだ」


 いくらピュアボーイの俺でも地底人は信じられなかった。自称地底人に質問攻撃をしたはずだが、満足のいく回答は得られなかったと思う。

 それからというもの、海に遊びに行く度におじさんに絡むようになった。何度も同じ質問をする子供は、鬱陶しかったと思うがおじさんは毎回きちんと答えてくれた。


「お兄さんはダイエット中なんだ。もやしくらい細くなるまで出られないんだ」

「おじさんはお兄さんなんだよ。お兄さんと呼びなさい」

「お兄さんは埋まっているわけじゃないんだよ。頭しかないんだ」

「お兄さんは空から降ってきて、地面に激突したんだ。」

「お兄さんが見えるのかい? 君は綺麗な心を持っているんだな。私は砂の妖精だから、綺麗な心の持ち主にしか見えないんだよ」


 その接し方は子供に対して向き合っていないようで、実は真正面からぶつかってきてくれていたのかもしれない。だからこうして、今でも鮮明に思い出せるのだ。


 子供の俺のおじさんへの興味は尽きない。

 いつ砂に埋まっているのか知りたくて、ラジオ体操が始まるより早くに海岸へ行ったことがあるが、すでにおじさんは埋まっていた。


「早起きは三文の徳。少年、よく貯金しておくのだぞ」


 その時、おじさんに言われた影響か分からないが俺は倹約家になった。同年代の奴と比べても貯蓄はある方だ。だから、この車はすぐに買い替えようと思う。未だに得体のしれないおじさんではあるが、俺の人生には少なからず影響を与えている。きっと今回も大きな影響を与えてくれるはずだ。


 入るところが無理なら、せめて出るところがみたい。

 そう思った俺は長い時間、見張っていた事もあるが、どうしても飽きてしまって結局目を離した隙にいなくなってしまっていた。

 答えを得ることはできないと分かっていても、また質問してしまう。すっかり質問ジャンキーだ。質問はいい。最高にハイな気分になれる。良い子のみんなもどんどんするといい。

 ただ質問される側は結構しんどい。特に俺が会社で上司から毎日のようにされていた責め立てられるような質問には本当に心が削られる。かんなで削るなんて生易しいものではない。ドリルでごりごり削られる。

 本来なら俺は自分の犯した過ちにより、そんな質問をこれでもかとされる立場になるはずだが、それが嫌で逃げだしてきた部分もある。そう考えるとおじさんは本当に優しい。


「おじさんは、いつ砂から出ているの?」

「お兄さんは砂から出る事なんてないんだよ」

「じゃあ、ごはんはどうするの?」

「お兄さんは、光合成ができるんだ」

「こうごうせい?」

「まぁこれからしっかり勉強しなさい」

「うへー、勉強はいやだな。じゃあ、トイレはどうするのさ!」

「お兄さんはトイレには行かないよ」

「うそだ~」

「いいや、本当さ。お兄さんはアイドルだから」

「アイドルはトイレに行かないの?」

「そうだよ。世界の常識だよ」


 常識どころか嘘だった。今なら分かるが、おじさんが言っていたことはほぼ嘘だった。

 アイドルはウンコをする。ウンコどころか、不倫だってする。アイドルが不倫するくらいの世界だ。俺ごときはもっと悪い事したっていいだろうとは思う。

 それは置いておくとして、おじさんは何の躊躇もなく嘘を断言するから不思議と説得力があったし、騙されたと分かった今でも嫌な気持ちはしない。上司や取引先に騙された時は、相手を殺したくなるほどに嫌な気持ちになって、実際一線を越えたのに、だ。長い時間砂に埋まっていると徳が積めるのかもしれない。

 しかし、おじさんがどうやって排泄していたのかは未だに謎だ。トイレを我慢できる時間以上埋まっていた事は何度もある。もしかしたら、砂の中にはハイテクシステムが埋まっていたのかもしれない。排泄物がエネルギーに変換されるような……脳が現実を受け止めたくなくて取り留めない妄想をする。


 高速道路を降りた。もうあと少しだ。ここからは狭い山道が続く。街灯と呼べるような立派なものはなくヘッドライトだけが頼りだ。頼むから動物なんて横切らないでほしい。これ以上死体が増えるのはごめんだ。

 そう願いながらまたおじさんのことを思い出す。


 中学生になった頃、つまり俺が最もお猿さんだったころ、海水浴場で水着姿の女性を見ては欲情していた。それはもう下半身がとてもとても元気でいらしゃったので、砂浜にビニールシートを敷き、座り込んでタオルを下半身にかけてボーっとしていた。

 一部の方は気持ち悪いと思うかもしれないが、健全な男の子の多くはそういうものなのだ。家族共用の端末の検索履歴で卑猥な言葉を息子が検索しているのを見つけても、そっとしておいてあげてほしい。それは成長の過程だ。これだけは断言できるが、今回の俺の過ちはその影響では決してない。

 親ができることがあるとすれば、ちゃんと性教育をすることだ。コンドームの付け方などは、教えてくれない学校も多いから、要注意だ。

 話は大幅にそれてしまったが、そのとき俺は閃いたのだった。おじさんもきっとそうなのだろうと。

 早速したり顔でおじさんに話しかけた。


「おじさん、俺は分かったよ。おじさんが砂に埋まっている理由が!」

「そんなことよりおじさんではなく、お兄さんだと何度言ったら分かるのか」

「おじさんはただのスケベおやじだったんだ」

「更に失礼なことを言ってくれるな。なぜそう思う?」

「そうやって、砂に埋められているフリをして、水着の女の人を見ているんだろう?」


 しばらくおじさんは黙っていた。しまった。怒らせてしまったかと、確か俺は後悔したと思う。当時、思春期真っ盛りの俺は大人に対してあまり好意的ではなかった。あいつらは嘘ばかりつく。その上、ホントのことを言うと決まって怒り出すのだ。おじさんも結局、そういう嫌な大人と一緒なのかと失望していたと思う。


「水着と下着の違いは何だと思う。少年よ」

「え?急になに」

「表面積は同じようなものだ。どちらも女体の美しさを強調している。だが、ダメなんだ。水着ではエレクチオンしない」

「なんだよ、エレクチオンって」

「そうだな、少年は若い。だから水着でもエレクチオンするのだろう。立派なものだ」


 おじさんは俺の股間を凝視していた。


「見つめるなよ、気持ち悪りぃな」

「やはり、精神性が大事なのだと私は思う。他人に見せるための水着と、親しい人にしか見せない下着。同じ表面積でもそこには越えられない壁があるのだ。君もたくさん射精して大人になれば分かるだろう」

「しゃ、射精とか真顔で言うなよ」


 このおじさんは、いわゆる変態なのではないかと俺に疑いの心が少し生まれた瞬間だった。事件が起きたのは。

 俄かに海面が騒がしくなる。小学生くらいの子供が溺れているのだ。かなり沖の方に泳いでいってしまったらしい。この田舎の海岸にはライフセーバーは常駐していない。いるのは、込み合う週末だけで、今日は平日だ。つまり、助けられるスキルを持つ者がいない。海水浴客は皆、狼狽して見つめるだけで行動を起こせないでいた。


 唐突に砂が巻き上がる。おじさんが立ち上がったのだ。そして、数瞬の躊躇なく砂浜を筋骨隆々な体が駆けていく。水面に到達すると、俺が今まで見てきた人の中で一番速く泳いだ。もしかしたら、当時テレビで見ていたオリンピック選手よりも速かったかもしれない。それくらいの衝撃があった。そして、あっという間に少年を抱きかかえて戻ってきた。


 おじさんはスケベおやじなどではなく、ライフセーバーだったかもしれない。失礼な事を言ってしまったと思春期ながら少し後悔したの束の間、俺に二度目の衝撃が走る。


 おじさんは全裸だった。

 駆けていった時はあまり速かったので見えなかった。溺れていた子を抱えて海からあがってくると、嫌でもそこに目がいった。

 大人になるとあんなに鬱蒼うっそうと毛が生えるのかと場違いな感想を覚えた気がする。ただ、確かにエレクチオンはしていなかった。水着では興奮しないというのは本当らしい。


 タイミングが悪いことに、野次馬の誰かが呼んだ駐在警官が駆けつけてその場を目撃してしまう。

 おじさんが溺れた少年を看護師と名乗る女性に預けた後、警官はおじさんにそっと声をかける。さりげなく肩に手をまわしているのは、労いだけの意味ではないことが中学生の俺でも分かった。


「助けてくれたのはありがたいけど……おじさん、何で裸なの」

「むしろ聞くが、君は風呂に入る時に服を着るのか」


 経緯を知らなければ頭がおかしいと思われるその返答により警戒心を強めた警官は、おじさんを交番へと連行していった。


 それ以降、なんだか気まずくなってその海水浴場には行っていない。おじさんがライフセーバーなのか、ただの変態なのか答えは出ていないし、おじさんがまだ砂に埋まっているのかも定かではないが、きっといる。そして、俺を受け入れてくれる。そうでなければならない。じゃないと俺が憐れすぎる。俺の人生はクソになる。


 どれほど走ったかはっきりと認識できていないが、どうにかマイカーは件の海水浴場の駐車場に到着した。ここまで職質されなかったのは僥倖である。

 俺は跳ねるように車から飛び出し、海岸に駆け込んだ。


 果たして、おじさんは見当たらなかった。


 それどころか、人影がまったくなかった。あるのは月明りと波の音だけだ。だが、まだ失望するには早かった。

 そう、夢中で運転したので気づかなかったが、今は夜明け前の深夜ともいえる時間だ。こんな時間に海岸に来るのは、恋に溺れた者達か自殺志願者くらいしかないだろう。この辺は治安はそれほど悪くないから、誰もいないのは当然だ。


 俺は疲れ果てて砂浜に大の字に寝転んだ。思えば、食事もろくに摂っていない。最悪な事態から一晩が経とうとしていて、アドレナリンの分泌も収まってきた。

 人体というのは逞しいもので、急に空腹感を感じるようになった。いよいよ目を閉じて、様々な苦悩から逃避しようと思ったその時、波音に紛れてサクッと音がするのに気づく。

 重い体を引き摺り、音の鳴る方に行くと会いたくてたまらない人が砂浜に自分が埋まるための穴を掘っていた。少し顔に皺が増えたくらいで俺の記憶と変わらない姿でそこにいた。夢かと思った。言葉がうまく出てこない。餌を欲しがる金魚のように口をパクパクとさせる。

 気配で俺がいることに、おじさんは気づいていると思うが、その間、特に気にする風もなく黙々と体を動かしていた

 サクッサクッという規則正しい音が、夜明け前の海岸にゆったりと染み込んでいく。


「どうして、穴を掘っているんです?」


 数秒だったのか、数十秒だったのか分からないが、俺には永遠にも感じた時間をかけて言葉を紡ぎ出した。

 今更理由を知りたいわけではなかったが、俺とおじさんの繋がりは質問することでできたのだ。その言葉が相応しいと思った。

 その思いが通じたのか、おじさんはシャベルを砂浜に突き刺して俺の顔をじっと見つけた。


「お前、どちて坊やか? 大きくなったな」

「……どちて坊や?」


 そんな風におじさんに呼ばれたことは無かった。少年。それが俺の呼称だったはずだ。


「どうちて、どうちてと質問ばかりするからどちて坊や。いいだろう?」

「ははは、何だよそれ」


 さっきまでとても笑えるような精神状態ではなかったが、おじさんと会うと不思議と心から笑えていた。

 その安心感で、昨日自分がしてきた罪をおじさんに滔々とうとうと話した。思い出すのも吐き気がするほど嫌なのに、何故か言葉がするすると出てきた。

 私怨で人を殺し、その死体をここまで運んできた。それだけを伝えるために、いろいろ話した。苦労した就職活動、ようやく入った会社が真っ黒だったこと、案の定そこで苛め抜かれたこと。

 おじさんは特に驚いた様子もなく、黙々と穴を掘りながら聞いていた。俺の期待した通り、安っぽい正義感で俺を責めることはしなかった。ただ、慰めもしなかった。ただ聞いているだけ。それでも、俺はだいぶ救われた。

 全てを話し終える頃には、おじさんが埋まるくらいの穴が完成していた。


「俺はどうしたらいいのかな」


 答えが返ってくるとは期待していなかったけど、聞かずにはいられなかった。分からなかった。本当に分からなかった。逃げてきたけど、罪を隠そうと企んでいるけど、それが正解なのか。

 俺は真っ当な人間だったはずだ。つい24時間ほど前まで。だから、良心の呵責だってある。奴にも家族がいるのだろう。

 だけど、もう枠を飛び出した。今更、真っ当な人間の作ったルールに従ったところで俺は破滅するだけだ。一方的に傷つけられ、最大の反撃をした結果が、俺の破滅では計算が合わなくないか?

 ぐるぐるとまとまらない考えが巡る。

 結局ダメだ。おじさんに聞いてもらっても、何も解決しないんだ。そんなことは分かっていたじゃないか。何でこんなところで座り込んで泣いているんだ。何を選ぶにしろ、他にやることがあるだろう。

 砂浜を拳で打ち付ける。その柔らかい感触が一層俺を苛立たせた。


「行くぞ。どちて坊や。車で来たんだろ、どこに停めた?」


 穴掘りが終わったおじさんは、そう言って俺を腕を取り無理やり立ち上がらせた。もう還暦に近い年齢のはずだが、俺より全然力強かった。


「行くってどこへ!?」


 おじさんは答えない。何度同じ質問をしても答えてくれない。いつものおふざけもない。だけど、それでよかった。おじさんが行けというなら、警察に行くべきだろう。

 おじさんは俺を助手席に座らせて、シャベルを後部座席へ投げ運転席に座った。「シャベルは別に砂浜に置いていければいいのに、車が汚れるなぁ」とさっそく現実逃避を始める俺をよそに、車は何故か山の方に向かって走り出した。


<了>

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