広めてね、プールの噂

なつのあゆみ

広めてね、プールの噂

 水の中で若い命がはじけていた。

プールの授業の休憩時間、十四歳の少年少女が喧騒している。

 水泳部の真中純は、男子の小田と競泳していた。共に水泳部で全国大会の個人メドレーで純は女子一位、小田は男子二位に輝いた。水泳部のエース、どっちが早いか競争を見てみたいとクラスメイト数人にはやしたてられ、純と小田はプールに飛び込んだ。

 純の方が早くゴールにタッチした。応援してくれていた女子に手を振るが、彼女たちはこっちを見ていない。隣のレーンを泳いでいた小田の姿がない。


「先生、小田くんが溺れています!」


 甲高い声が叫んだ。

 四番レーンの真ん中で、小田が手足をばたつかせていたが、急に水の中に沈んだ。

 慌ててプールに飛び込んだ男性教師に抱え上げられた小田は、ぐったりとしていた。

 誰一人、声をあげなかった。  

 時が止まっていた。

 先生が男子生徒の胸を押して心肺蘇生をほどこすと、小田は水を吐いて意識を取り戻した。教師がほっと息を吐く。 


「小田くん、大丈夫?」


 タオルを頭からかぶっている男子生徒が、しゃがみこんで小田に問いかける。さっき、小田が溺れていることを知らせた男子生徒だ、確か名前は変わった名前で、物部だ。

 小田は上半身を起こして何度かせき込んで、喉に手を当てたまま震えだした。物部が彼の肩にタオルをかける。

 物部の白い肩が露わになった。彼は小さい顔に大きな瞳の、見る者をはっとさせる容貌をしている。


「手が・・・足首を引っ張られた。でも誰も近くにいなかった。それに、人が、刀が・・・」


 小田が震えながら話す。


「刀が、あったんだ」


「刀が・・・それに怖い顔の、人・・・あれ人だったよ」


 小田の震えが止まらない。


「おい、大丈夫か? どうした?」

 

 男性教師が眉をひそめて小田をみる。


 どういうこと?

 足を引っ張られた?

 刀って何?


 遠巻きに見ている生徒たちにも、動揺が広がる。


「先生、私が小田くんを保健室に連れていきますす」


 凛とした声が事態を収めた。プールを見学していた、体操着姿の里村璃子(りこ)が震えている小田に声をかけて伴い、プールの外へ歩き出した。


「みんな、水分補給をしてから授業開始だ。真中、プールから上がれ」


 教師に言われて、純はプールから出た。


「足引っ張られたって、言ってたよね」

「四番レーンの噂、やっぱり本当なんじゃないの」

「刀ってなんなの?」

 

 女子たちが噂話がはじまる。


「あいつが溺れるなんて、ありえないよ。足でもつったのかな?」

 

 純は同じく水泳部の森田楓に言った。

 楓は顔色が悪かった。


「わたし、見ちゃったかも・・・」

「何を?」


「休憩時間は終わりだ。さっさと列に並べ」


 男性教室のかけ声で、楓はさっと列についた。純は気がそぞろなまま、プールの授業に戻った。

 

 小田は早退した。

 プールの授業が終わり、着替えてすぐ掃除の時間になった。純は廊下の掃除をさっさと終えて、教室の掃除をしている璃子に近づいた。

 

「なあ、小田、様子おかしかったよね。なんか話聞いた?」


 璃子は髪を高い位置で二つ結びした、愛らしい顔でアイドルみたいな女の子だ。クラスのどこのグループにも属していないが、孤立しているという訳でもない。ただちょっと不思議な子、という印象だ。


「小田くんはすごく怖がってたよ。みんな、四番レーンの噂って知ってる? あれ、本当だよ」


 璃子が声を張り上げて、注目を集めた。教室の真ん中で璃子はにこにこして、周りを見渡す。


「この学校は元々、処刑所だったの。それでね、処刑に使われていた刀はプールの四番レーンの下に埋まっているんだ。そこには処刑された怨霊がいて、生徒の足を引っ張るの。みんな、不思議だと思ったでしょ? 小田くんが急にプールに沈んだのを。あの時、小田くんは般若の顔をした幽霊に足を引っ張られたんだって。それでね、プールの下に引っ張られて・・・刀を見たって」


 その場にいたクラスメイトが璃子に釘付けになっていた。純も彼女の話に聞き入った。


「そんなことってあるのかな」

「確かに噂は聞いたことあるけど」

「そういえば小田、変なこと言ったよね。刀がどうとか」


 女子生徒がこそこそと話す。


「ねえ、物部くん、君、聞いたよね。小田くんが刀と人を見たって言ったのを聞いたよね」


 ほうきで教室を掃いていた物部に、璃子が声をかける。物部も璃子と同じぐらい目が大きくて、二人を交互に見ると眩しい。


「うん。けれど、小田くんは溺れた動揺で、何か見間違えでもしたと思うよ」


 物部が冷静に答えると、璃子の目つきがきつくなった。


「何それ、私が嘘を言ってるっていうの?」


 そういう訳じゃないよ、と物部が毅然と答えた。


「なーに言ってんだか。おまえら、中二にもなってオバケとか信じてるのか?」


 大きな声で久保田が言って、そののとりまきが笑った。


「小田は女子に負けるのが悔しくて、溺れるフリでもしたんだろ。それか、誰か足をこっそり引っ張ったんじゃねーの?」


 久保田が教室をぐるりと見て言う。彼は体と態度が大きい、粗暴な男子だ。


「小田はそんな奴じゃないよ。それれにうちのクラスに、足を引っ張る奴なんていないよ。久保田、そういう言い方やめろ」


 純は久保田の前に立ち、彼を睨む。


「真中、おまえってほんとデカい女だよな。俺、水泳の授業までおまえってもしかして男? って疑ってたぜ。物部といると、物部のほうが女子みてぇじゃん」


 久保田が言うと、とりまき数人がげらげらと笑った。物部は目を伏せる。

 純は上背も体格も平均女子より大きい。それを恥だと思ったことは一度もない。


「デカくて悪い? そういうこと言ったら傷つくとか思ってんの? あたし、もっと身長伸ばしてあんたのこと、見下ろすから」


 純は腕を組み、胸を張って言った。久保田の悔しそうな顔を、ふん、と鼻で笑い飛ばす。


「久保田、最低」

「うちらのクラスの雰囲気、悪くしないでよ」


 女子数人に責められて、久保田は教室から出ていった。


「真中さん、すごいね」


 璃子が笑顔で話しかけてきた。


「すごい?」


「真中さんの発言で、空気が変わるっていうか。強いなって」


「そう? よくわかんないけど、ありがとう」


「あのさ・・・部活の前に、話せる?」


「うん、いいよ」


「物部くんも来てくれる?」


 璃子の願いに、物部もうなずいた。

 純は璃子は物部と、ホームルームのあとに三人で話す約束をした。 


    ※

  

 ホームルームが終わり、純たちは非常階段の扉の前に集まった。生徒たちが教室から出て行き、静かになった廊下で璃子は話し出した。


「あのね、私は今回のことで注意喚起をしたいの。毎年、プールの四番レーンで生徒が溺れる事件が起きているんだ。今まで死亡事故がなかったけど、死者が出たら洒落にならないよね」


 璃子の話を聞いて、純は首を傾げた。水泳部でそんな話は聞いたことがない。物部の反応を見ると、彼も戸惑った顔をしている。


「小田くんがね、言ってたの。誰かに足をつかまれた、プールの底を見ると銀色の刀があったって・・・それに斬られてしまうんじゃないかって、すごく怖かったって。小田くんは嘘を言ってないよ、これは本当の話なんだよ」


 璃子は純と物部の反応を見ないで、得意気に話を続けた。


「うーん、私は怪談話とかよくわかない。物部はどう思う?」


 物部は純を見て、何と答えようか悩んでいる顔をした。


「小田くんが溺れているのに、真っ先に気づいたのは物部くんだよね。君も、見えるんでしょう。幽霊」


 璃子が一歩踏みだし、物部の顔をのぞき込んだ。璃子は口角をあげて、楽しそうに目を輝かせている。


「僕が小田くんが溺れているのに気づいたのは、真中さんとの競泳を観戦してたから。里村さん、小田くんは気が動転していただけなんだ。この話、あまりしない方がいい」


 物部が律として答える。

 璃子はつまらなさそうな顔をした。


「おーい、士郎。おまえ、図書委員忘れてんのかー」


 間延びした男子生徒の声が、廊下に響いた。同じクラスの山本だ。山本は純と璃子を見て、おや、という顔をする。


「どうしたー珍しい組み合わせだな」


 山本が好奇心旺盛な目で、きょろきょろと三人を見る。


「ごめん、図書委員忘れてた。じゃあ、またあした」


「あ、うん。バイバイ」


 純は士郎に手を振った。

 士郎は助かったという顔をして、山本と歩いて行った。


「あーあ、つれないなぁ」


 璃子が溜息をつく。


「なんで物部が幽霊見えるって、思うの?」


 質問した純を璃子はまっすぐに見据えた。


「わたし、幽霊見えるんだ」

「四番レーンで小田くんが溺れた時、黒い影が彼を覆ってた。物部くんはそれを見たって、なんとなくわかるの。物部くんは、神社の子で霊感あるそうだよ」


 純は逡巡した。璃子は嘘を言っているように見えない。霊が見える、なんて言って人の気を引いているようにも思えない。しかし、信じられない。


「ねぇ、純ちゃん。噂、広めて欲しいんだ。プールの四番レーンは危険だって。小田くんは助かったけど、もしも、だよ。次、発見が遅れたらさ、誰か死んでしまうかも・・・噂を広めてね、みんなに警戒してもらうんだ」


 璃子が潤んだ瞳で言った。手を握って、お願い、と彼女は言った。


「う、うん」


 純は気圧されて、うなずいてしまった。


 純は泳ぐのが好きだ。水の中でし感じられない自由がある。プールの中に銀色の刀、そんなものがあるななんて信じられない。だが、自然と純は四番レーンを避けるようになった。


「先輩、プールの四番レーンの怪談話って知ってます? なんか処刑に使われた刀が埋まってるとかなんとか」


「あー、それね・・・」


 先輩は眉間に皺を寄せた。


「気にしないほうがいいよ。あたしは幽霊とか信じない。誰か適当に流してる噂でしょ」


 先輩はそう言って話を流した。


「ですよね」


 先輩の言うこともわかる、でもあの、璃子の真剣な目が忘れられない。


 ーーー噂を広めて。


「でも、私のクラスの子が見たって言うんです。今日、授業中に小田が溺れたんですよ、あの小田が」


 いつの間にか純は口走っていた。

 時期部長だと言われている小田の名前を聞いて、先輩は怪訝な顔をした。


「小田がプールに沈むのを見たんです。急に、誰かに足でもつかまれたみたいに。それで、プールの底に刀があるのを見たって言ってて」


「純、やめて」


 後ろから声がして振り返ると、楓がいた。タオルを胸元でたぐり寄せて、彼女は青白い顔をしている。


「思い出したくない」


 ぼそっと楓がつぶやく。


「真中、あんたらしくもない、考えすぎだよ。誰だって溺れることぐらいある」


 先輩はそう言って、部員に片づけを指示した。純は掃除道具を片づけて、ふと四番レーンを見る。時刻は五時過ぎ、まだ陽が高くプールの底は青々としている。とても処刑で使われた刀が埋められている、そんな血なまぐさい事は連想できない。


 翌日、小田が退部届けを出した。


「溺れてから、プールに入るのが怖くなりました」


 部長の説得にも、小田はそう繰り返すだけだったそうだ。退部届けを出すと小田は昼には早退しており、純は話す機会を逃した。


「小田くんとても怖い思いをしたんだよ、ねぇ、純ちゃん、物部くん。やっぱり四番レーンは呪われてるよ」


 昼休憩、璃子が話しかけてきた。

 彼女の声は大きく、芝居がかっていた。純は教室の真ん中の席で友人と談笑していた。物部は教室の左隅の席で、山本といる。

 いきなり名前を呼ばれた物部は気まずそうな顔になる。


「なにその話、学校の怪談?」


 山本が笑いながら問いかける。


「とても怖い話なんだよ。ね、純ちゃん、物部くん。プールの四番レーンは呪われてて、小田くんは呪いを見ちゃったんだよ」


 片方の口角だけつり上げて、璃子が言う。瞳をきらきらさせて。それぞれ自分たちの時間を過ごしていた休憩中の生徒たちの視線が、璃子に集まった。


「その話なんだけど、水泳部の先輩は聞いたことないって。璃子はどこでその話を聞いたの?」


「聞いたんじゃないよ。私、見たんだ。物部くんも見たよね。小田くんに襲いかかって、溺れさせた幽霊」


 じっとりと璃子が物部を見る。


「ちょっと、やめて! 怖い話、苦手なの」


 純の隣にいた友人の三村が叫んだ。


「怖くても真実は聞かないとダメだよ。三村さん、プールの四番レーンはね、危険なんだ」


 璃子が三村の真正面に立って言う。嫌、と三村が両手で耳をふさぐ。


「里村さん、もうやめなよ。いたずらに変なことを言わない方がいい」


 物部が璃子の隣に立って言った。璃子がゆっくりと腕を組んで、物部と向き合う。


「いたずらじゃない。物部くんこそ、嘘つかないでよ。はっきり言って、見たって言ってよ」


 璃子の声には怒気が含まれていた。教室に、ケンカが始まる前のような緊張が走った。


「・・・見てない。何も見てない。幽霊なんていないよ」


 物部が消え入りそうな声で答えて、うつむく。


「嘘つかないでって、言ったでしょう! 見てないなら、堂々とこっち見て言ってよ」


 璃子がかみつくように怒鳴り、物部を睨みつける。純がちょっと、と彼女に声をかけようとすると、山本が璃子と物部の間に立った。


「そう、怒らないで。幽霊がいるって思うのは自由だけどさ、強要するのはよくないと思うな。怖がる人もいるし、こういう話はあまりしない方がいいよ」


 山本が穏やかに話すと、璃子はすっと無表情になった。チャイムが鳴って、教室を出ていた生徒たちが戻ってきた。山本と物部が席に戻る。


「純ちゃんは、信じてくれるよね?」


 潤んだ目で璃子が言った。

 純が答えられないでいると、黙って席に戻っていった。


     ※


 小田が両親を伴って、物部が住む尾之下神社に来たのは、夜の八時過ぎだった。神事は昼に行うが、急遽ということで小田のお祓いをすることになった。


 プールで溺れた時に、小田は見てしまった。

 四番レーンの下にある銀色の刀と、それを手にしている蓬髪に白装束の般若の顔をした男を。小田はその者に足首をつかまれて、プールの底に沈められた。

 その夜、小田の夢に般若が出てきた。うなされて起きた小田は大量の水を吐いて痙攣しているのを母親が発見した。


 クラスメイトの中でいつも真中純のように中心にいる、利発な性格の小田が別人のように沈鬱なのを見て物部士郎は胸を痛くした。


 夜のひっそりとした社の中で、神主の宮田が小田の頭上で祓串を振る。士郎はその後ろに正座して待機していた。


 小田にはもう何も憑いていない。

 蓬髪の般若は刀に囚われた自縛霊だ、小田の悪夢と水を吐いたのは多少の障りがあっただけだ。しかし小田は恐ろしい体験をして、憔悴しきってしまった。宮田はお祓いは済んだが、心のケアのためにとカウンセリングを勧めた。


「小田くん。どうかこのことは、もう早く忘れてね」


 物部がかけた言葉に、小田は無表情でうなずいた。

小田が水泳部を辞めたという話を聞いたのは、翌日だ。退部届を出すと早退してしまった。

 里村璃子に、霊を見ただろうと責められて物部士郎は苦しかった。


彼女が見た、というものを士郎も見た。中学校に入学して初めてのプールの授業の日から、気づいていた。その時はまだ、おぼろけでたまに生徒の足をちょっと触るだけの霊だったが、今年に入って般若の恐ろしい形相に変わった。霊が怨霊として生々しく形をもってしまった、この場合、人から怨念を吸い込んだと考えられる。

 すまじい悪意を生徒たちに向けて、それが何かしでかすのではないか、と物部は恐れていた。

 ーーー噂、を広めるのはよくない。

 霊は人に気づかれると、その力を増していく。

 

 生徒たちの混乱も起きてしまう、その混乱に怨霊は介入してくるだろう。多感な少年少女たちの恐れを食って怨霊は大きくなる。

 物部はただ、黙りこむしかない。


「無視するのが一番だ。里村、あいつ変だよ。なんかあったら、俺が言ってやるから」


 山本が慰めてくれたが、物部の胸騒ぎはおさまらなかった。


    ※


「プールの四番レーンの噂、知ってる? 処刑に使われた刀が埋まってるって」

「三組の生徒が不自然に溺れたって」

「水泳部のエースだよ。全国大会二位の奴が溺れたトラウで部活やめたって」

「足を引っ張られたんだって」

「刀で処刑された幽霊がプールの底にいて・・・」


 純が広めるまでもなく、噂は三日であっという間に学校に広まった。小田が学校に来ないことも噂に拍車をかけた。


「四番レーンで泳ぐの嫌だな」

「怖い」

「ただの噂でしょ」

「お姉ちゃんに聞いたら、お姉ちゃんの時にもあったって。不自然に溺れた生徒がいたって」

「四番レーンって前から嫌な気配感じてた」

「神社の子が見たって言ってた。幽霊」

「幽霊なんているの?」


 幽霊がいるかいないかは、純はわからない。見たことがないものは信じられない。噂が語られているこの雰囲気は悪い。

 璃子は噂を広めて欲しい、と言ってこなくなった。彼女の想像以上に噂は口々にはやされるようになって、満足しているように見えた。

噂の話があがると、喜々として「私は見たよ」と話に入っていった。


「幽霊はいないよ」


 霊感のある神社の子、と噂に含まれてしまった物部は幽霊を見たかと質問されると、そう即答した。

 時々、しつこい生徒がいると山本が間に入ってとりもった。

 一週間で噂が学校中に広まり、本気で怖がる生徒も出始めた。



 午前中、晴天の水泳授業の日だった。

 号令で生徒たちがプールのスタート位置につく。高らかに、泳げ、と告げる笛が鳴った。

 四番レーンの女子生徒が、きおつけの姿勢のまま固まっている。楓だ。いつもなら水を求めている魚のようにプールに飛び込むのに、楓は青白い顔で震えている。


「どうした、森田」


 男性教諭の岡原に声をかけられて、楓はゆっくりとプールを指さした。


「います・・・プールの中に、いるんです」


 楓がそう言ってふらつき、岡原が体を支えた。楓はその場にへたりこんで、泣き始めた。


 プールで泳いでいた生徒たちが異変に気づき、不思議そうに楓を見る。


「いるって、あの噂の!」


 璃子の叫び声がした。

 今日も見学の彼女は白いTシャツと青い半ズボンの体操着姿だ。


「四番レーンに、幽霊がいたんだね」


 楓の肩にタオルをかけながら、璃子が念を押すように言った。


「嘘、まさか」

「森田さん泣いてるの?」

「ねえ、なんか嫌な気配する」

「さむい」


 生徒たちが騒ぎはじめ、プールの中にいた生徒たちが慌ててプールから出てくる。


 岡原は大きな溜息をついた。


「おまえたち、中学生にもなって、まだ幽霊なんて信じているのか。あの噂ならでたらめだ、バカバカしい。森田は何か見間違えでもしたんだろ、しばらく休んでいなさい。おまえたち、もう一度並びなさい」

 

 岡原がプールから出た女子生徒たちを呼ぶが、誰も動かない。互いに目線だせで恐怖を伝達していく。

 岡原は二十代半ば、褐色の肌で体が大きく、顔もいかめしい。冗談を嫌う性格で、騒動に苛立っていた。


「じゃあ、先生が証明してくださいよ。みんな怖がってます、先生が今、四番レーンで泳いでください。私、とても怖くて。だからずっと水泳の授業を見学しているんです」


 璃子が声を震わせ、瞳も震わせて言った。そういえば璃子がプールに入っているのを見たことがない、と純は気づく。


「先生が今ここで四番レーンで泳いでくれたら、私、次から水泳の授業出ます」


 璃子が媚びた声で言った。


「まったく、仕方ないな。幽霊なんていやしない」

 

 岡原が薄く笑ってパーカーを脱ぎ、水着姿になった。四番レーンに岡原が飛び込み飛沫があがる。ダイナミックなクロールを岡原は見せた。

 ざばっと、と大きな音がした。

 岡原がプールに沈んだ。

 銀色の刃が一瞬、プールから突き出た。純はプールに駆け寄る。


「先生!」


 岡原はプールの底で手足をばたつかせいている。白い面が見えた。大きな赤い口に、見開かれた目、二本の黒い角。般若が刀を持っている。

 純は退いた。


「死ね!」


 甲高い叫び声がした。

 璃子がモップの柄で、プールの底からはい上がろうとする岡原を突いている。


「死ね、この変態! 死ね、死ね、こいつを処刑しろ!」


「幽霊、こいつを殺して!」


 璃子が叫び続ける。

慌てて女性教師が羽交い締めにして止めようとしたが、璃子は華奢な体と思えぬ力で振り払った。


「早く、とどめを刺せ!」


 璃子の怒声に純は震えた。


 赤がプールにうかぶ。


 女子生徒の悲鳴があがる。

 岡原の背中が、ぷかんとあがる。その背中から血があふれている。


「やった、やっと死んだ」 


 璃子がげらげらと笑った。

 それからは、とにかく目も回る騒ぎで。とんでもないことが起きた、という戦慄のまま時が過ぎた。

 真夏なのに水着から制服に着替えて、ジャージを上に着ても純の鳥肌は消えなかった。

 自習していなさいと言われた生徒たちだが、じっと机に向かってなどいられない。そわそわと話す。


ーーー噂、本当だったんだ。

ーーーやばいよ、これからどうなるの。

ーーー璃子、めっちゃ怖かった。


 水中の般若、銀色の刀。あれは幻だとしても、岡原はプールに沈んで、なぜか背中に傷を負っていたのは間違いない。

 それより、璃子の行動が一番、おかしい。四番レーンに岡原が泳ぐよう促して、プールに沈めていた。

 教室に璃子と楓がいない。

 楓はショック状態で親が迎えに来て早退、璃子はどうなったかわからない。


「なぁ、物部。おまえ、見たか? おまえ神社の子だから見えんだろ。銀色の刀、俺、見ちゃったんだけど」


 久保田が泣き声で物部に尋ねる。

 私も、俺も、という声があがって、物部に視線が集まった。

 物憂げな顔をしていた物部がみんなを見渡し、凛とした表情をして立ち上がった。


「落ち着いて。みんな、パニックになっているんだよ。岡原先生が溺れてしまったことで気が動転していて、見てないものを見たと感じてしまっているだけだよ。こういうのを集団ヒステリーっていうんだ。まずみんな、落ち着こう」


 物部が静かな声で言う。それはそうか、と純は思うが、頭に焼き付いた般若が消えない。


「だ、だけど。なんで岡原先生は背中から血を流してたんだ? 刀に斬られたからじゃないのか」


 久保田がいらついた様子で言う。


「それはモップの先で怪我をしたのかもしれない。幽霊なんていないよ」

 

 物部が答えて、着席した。

 それもそうか、と久保田が呟いて席に戻った。


「だけどさ、里村、すげぇ怖かったよな。岡原先生に恨みでもあるのかな、あいつがモップで先生を突いてたから……」


 久保田の発言でまたざわめきが起きそうな時に担任教師が教室に入ってきた。岡原先生は救急車で搬送されたこと、落ち着いてみだりに噂話をしないよう注意された。


「里村さんはどうしたんですか?」


 女子生徒が担任に質問した。

 事情を聞いている途中だ、と担任は苦々しそうに答えた。

 幽霊なんていない、純は何度も物部の言葉を反芻した。


 翌日、朝のホームルームで岡原の死が告げられた。担任教師は努めて淡々と「事故死だ」と説明し、岡原先生の冥福を祈ろうと呼びかけて、五分間の黙祷を行った。

 純はぎゅっと目を閉じた。

 まぶたの裏に、般若が浮かぶ。


 あの時、般若の面は二つあった。

 一つはプールの下、もうひとつは、璃子の顔。

 

 その夜、保護者会が開かれ事故の詳細が学校側から説明された。純が親から聞かされた内容は、

「里村璃子は溺れている先生にモップの柄をつかませて、助けようとした」

という呆れた嘘だった。


「無理せずに、私たちやスクールカウンセラーさんに頼るのよ。大好きな水泳で事故を目撃して、ショックだったでしょう」


 母親が優しく声をかけてくけた。

 純は学校が平然と嘘をついた方が嫌だった。璃子の叫びを無視した。岡原と璃子の間に、何があったのだろう。


 数日後、学校に行くと校門の前にマスコミが集まっていた。カメラは生徒たちを追いかけ、それに喜々として答える生徒や逃げる生徒、淡々と門の間で「事件」について話すリポーター、先生たちが出てきて取材に答えようとする生徒を止めるなど、収集のつかない場に純は戸惑った。

 なんとか大人たちの間をすり抜けて、校内に入る。教室は廊下からでも声が聞こえてくるほど、騒がしかった。


「岡原先生って、たしかにキモいとこあったよね。じろじろ見て、いちいちうるさかった」

「わかる。意外だとか思わなかった。璃子、かわいそうだったね」


「プールの四番レーンに幽霊がいるって言い出したの、里村だったよな。先生が四番レーンで泳ぐようにし向けたのも、あいつだろ。計画的犯行ってやつ?」

「うちのクラスから殺人者が出るなんて」

「やべー」

「まじヤバイな、マスコミ、めっちゃ来てるし」

「おれ、里村さんはまじめな生徒でしたってマスコミに答えちゃったよ」


 各々の言葉を聞いて、純は一人でうつむいている楓に声かけた。


「何があったの?」


 楓はおはよう、と純に言ってから、目を伏せた。


「里村さん、自首したんだって。北村先生を殺したって。その話が外に漏れて、マスコミが集まってきたみたい」


「自首!?」


 楓は低い声で、教えてくれた。

里村璃子は中学一年生の時、水泳指導中、岡原に胸と尻を触られた。それは偶然にしては、不自然な手の動きで何度も触られ、岡原は笑っていたという。

 璃子は体を触られたことが嫌でたまらず、水着を着ようとすると手が震えるようになった。璃子は両親に助けを求めたが「先生がそんなことをするはずがない、思い違いだ」と取り合ってもらえなかった。

 璃子は岡原に対する憎悪を深めていった。


 殺してやろうと思いました。


 璃子は率直に供述した。

 四番レーンの幽霊に、処刑してもらおうと思いました。幽霊に捕まえてもらっている間、モップの柄で先生を抑えこみました。

 私が、殺しました。

 

「気づいてあげられなかった……」


 純は呟いた。涙がこぼれる。


「私、あの子に言われてたんだ。噂を広めて欲しいって。なんであんなに必死だったか、今となってわかる。もっと話をすればよかった」


「そんなの、誰にもわからないよ。純のせいじゃないよ」


 楓になぐさめられて、純は涙をふいた。


「そうだよ、真中さんのせいじゃないから。クラスの誰も、彼女を止められなかった。大人のせいだっておじさんは言ってたよ」


 物部が優しく声をかけてくれた。

 うん、と純は涙声でうなずく。


   ※   


「だからね、刑事さん。幽霊はいるんですよ。私は幽霊と共同作業で変態教師を殺しました。岡原の死因は刺殺、それも鋭く長い刃物で刺されたって検死で出たんでしょう。刃物なんて一つもなかった学校のプールでありえないですよね。呪われた刀で岡原は斬られたんです。

 妄想? 違いますよ。反省? しません。岡原は死ぬべきでした。許せませんでした。怨霊と私の怨み、それが殺害方法です。カタカタ、何を音をさせてる? ああ、私に憑いてきてしまったんですよ。怨霊、いいえ、もう血を呑んだので鬼ですね。鬼が刀を震わせています。刑事さんたち、気をつけてくださいね。怨霊は罪をなすりつけられて処刑されたんです。誤認逮捕や脅迫で罪を認めさせたような刑事さんは……斬り殺されるかもしれませんよ」


 愛らしい笑顔で語る璃子の供述を録音したテープには、確かにカタカタと異音が入っていた。


    ※


 尾之下神社の神主がプールでお祓いを執り行った。生徒たちの動揺を慰める名目で行われた。


 学校は夏休みに入っていたので、希望した生徒たちが立ち会った。

 純は首にかけたタオルであごの汗をぬぐった。

 プールサイドに立っているだけで、汗が流れるほど暑い晴天下だ。

 純の他に楓、山本、久保田など他に岡原が死んだ時に刀が見えたと言った生徒、十人が制服で集まった。


 神主の祝詞が終わると、白装束の物部が出てきた。目を見張るほど清らかで美しい。彼は四番レーンに立つと一瞬のためらいもなく、プールに飛び込んだ。白い人魚のように物部はしなやかに泳いだ。音もたてずにターンして、プールからあがる。びっしょりと濡れた白装束で、物部はこちらを見た。


「ご覧の通り、プールはもう安全です。幽霊はいません」


 物部がよく通る声で言い、ぺこりと頭を下げてタオルを羽織ると足早にプールから去った。

 純は、身を挺して安全を確認させた物部が立派だと思った。

 まだ声変わりもしていない、華奢な少年の物部は、それ以後、どこか老成を感じさせた。その不思議な雰囲気が、また少年少女たちに噂をさせた。

 神社のあの子は、本当は幽霊が見えるんだ、すごい霊感がある。

 


         終

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