第12話

 ワリスステップで迎えた最初の朝、日が昇る前の草原は凍えるように寒く、猫メイド侍は、いつの間にやらボロンに身を寄せて暖を取っていた。


 歯を鳴らしながら起き上がったハルベリチェグは、ランタンに少しの油を注いで火を灯すと、両手で掴んでささやかながらに手を温めた。


 熱を保つもののない砂漠と比べれば遥かに優しい冷え込みであったが、屋根の下で脅かされることなく過ごしてきた者にとっては、耐え難い苦痛の朝だった。


「少ししたら発ちましょう。せめてすぐに動けるようにしておかなくては、弓か槍の的になるだけです」


 一行は思い思いの体操で身体を温めると、ハルベリチェグの言葉に従って、馬を走らせ始めた。


 地平線には何も見えなかったが、の襲撃を警戒しながら、凍える朝の風を切って目的地へと急いでいた。


 やがて昇った陽の温かみに感激を覚える頃、ボロンの懐からベカンコが這い出てきて、昨晩の出来事を相談し始めた。


「ねえ、ボロン。夜にあたしが目を覚ました時、ノックマンの枕元にハルベリチェグが立っていたのさ。その手には短剣が握られていて……ひょっとしたら命を奪おうとしていたのかも」


 ボロンはベカンコの言葉に耳を傾けながら、先日ノックマンに教わった方法を試していた。


 ベカンコが嘘をつく理由がなかったので、ボロンはそれを信じたものの、実際のところノックマンはぴんぴんとしていて、きっと寝ぼけたベカンコの見間違えだろうと考えていた。


「教えて下さってありがとう。ハルベリチェグはきっと、干し肉を削っていたのだと思います。だから大丈夫。私たちを害する理由がありませんから」


 ボロンの微笑みに安堵の表情を浮かべたベカンコだったが、ボロンがどう考えているかを何となく察していて、少し寂しい気持ちを抱えたまま、またすぐにボロンの懐へと潜り込んだ。


 一行は背の高い草の領域にたどり着いた。


 ハルベリチェグが合図を出して徐々に減速したので、後に続く者たちもそれに従った。


「この先は馬の脚をとられると致命的になります。速度を落としてゆっくりと進みましょう。草原の覇者たるケンタウロス族ですら避ける領域ですが、だからこそ襲撃を受けづらく安全で、何より近道となります」


 邪魔な草を刈って進もうと考えた猫メイド侍が、腰の短剣を抜こうとしたので、それを見つけたハルベリチェグは素早く付け加えた。


「この草は渡り鳥の分かつ種人ハンシュマールヴァの住処であり、彼らはこちらを見ていますから、きっと誰にもですし、怒らせて奇襲を受けないように、ゆっくりと進みましょう」


 いやに回りくどい言い方をしたハルベリチェグだったが、その意図を知ろうと背の高い草の方を見たボロンは、見るからに種類の違う草々と、その隙間から覗く大きな赤い一つ目を見つけた。


 ボロンは目の前に現れた存在の特徴から、サムニ行きの馬車の中で聞いた危険な魔族の話を思い出して、ハルベリチェグの言動を理解した。


 渡り鳥の分かつ種人ハンシュマールヴァとは、気まぐれな鳥たちによって、本来の住処を離れて生まれてしまった、知恵ある草人そうじんの事であり、自らの境遇を嘆いて泣き腫らす者たちだった。


 ひっそりと隠れ住む彼らのを見破る事や、彼らの事は、情緒の不安定な彼らの暴走を引き起こすに違いなかった。


 すぐに視線を戻したボロンと、短剣を収めた猫メイド侍を見て、ハルベリチェグはそれで良いとばかりに頷いた。


(彼らを刺激してはいけない。私たちの視線や言葉ですら、彼らの自尊心を傷つけてしまうかも知れないというのですね)


 ボロンと猫メイド侍が納得して頷くと、ハルベリチェグは馬の腹を蹴って進みだした。


 一行はハルベリチェグに続いて一列となって、渡り鳥の分かつ種人ハンシュマールヴァの住処へと分け入った。


 馬に乗ったボロンですら隠れるほどに背の高い草々は、侵入者の視界を奪って方向を惑わしてくるが、一行は前を歩く馬の足音を聞き逃さないように注意して、どうにか迷わずに進んで行けた。


 進む事自体は問題なかったが、ボロンにとってはこの場にいる事が苦痛だった。


(町の中よりも多くの、憎悪の視線が突き刺さってくるのを感じます……ああ、嫌だ。まさかここまで、人の目が気になるようになってしまうなんて……)


 一行が背の高い草地を抜ける頃には、ボロンの顔はしょぼくれてしわくちゃになっていた。


 ベカンコの目に映ったその顔には、かつては持っていたはずの自信が微塵も感じられず、魅力的だった頃のボロンの姿を思い出せなくなってしまった。


 ボロンの急変を察知して、馬を並べたノックマンが気を配っていると、それに気づいたハルベリチェグが口を開いた。


「あともう少しだけ進みます。十分にここから離れたら、昼にしましょう」


 すでに陽は高く昇っていて、風が止む瞬間には熱さを感じるくらいだった。


 一行は草人の監視が届かない所まで離れると、日の光で照らされる草葉の上で休憩を始めた。


 ハルベリチェグは馬を繋ぎ止める杭を打ち込んだ後、それを利用して布を張り、簡単なひさしをこしらえた。


「ボロン殿はこちらへどうぞ」


 ボロンはハルベリチェグの好意を受け取ると、ノックマンの世話を受けながら、横になってゆっくりと食事をとった。


 日を受けて上機嫌にしている猫メイド侍を見て、ボロンはその安らかさを羨ましく思った。


 今のボロンは、人々に嫌悪の視線を向けられる事に辟易へきえきとしながらも、耐え難く湧き出る性欲を自ら律しており、とっくに常人の我慢の限界を超越した境地に達していたのだった。


(思えば馬車旅でも困難はありました。しかし、なんだかんだと私は欲に溺れていました……お父様の加護に甘えていた。今、たったのこの二日間でそれを痛感した……)


 この時ボロンが思い起こした情動とは、悲しみに満ちた後悔であった。


 教会で司教を前にして、ひたすら無為に繰り返していた、あの感情であった。


 ボロンが自分の心に押しつぶされそうになった時、胸の内で悪魔の言葉がささやかれた。


(おじさん、無理しすぎ~♥ 楽になっちゃえばいいのに~♥ そんなにつらいなら、一時いっときの心を失くす呪文を教えたげるね~♥)


 ボロンに有無を言わさず、その呪文は頭の棚に刻み込まれたのだった。


「ボロン様、ボロン様、起きてください。何者かが近づいてきています」


 ノックマンに身体を揺さぶられ、ボロンは目を覚ました。


(いつの間にか眠ってしまっていたとは……自らの弱さにはほとほと呆れてしまいますね……)


 ボロンが身体を起こすと、ハルベリチェグが落ち着いた様子で言った。


「あれはミノタウロス族の戦士たちですね。あの様子なら敵意はないでしょう」


 猫メイド侍とノックマンが手に持った武器をしまっている間、ボロンはミノタウロスを観察する事にした。


 遠目に見ても分かるほどの巨躯の男たち、立派な角と腰蓑だけの服装も特徴的だった。


 走らなければ手が届かない程度の、ほどほどに離れた位置までやってくると、ミノタウロスの戦士は一行に忠告をしてくれた。


「お前たちは草原の礼儀を知っているらしい。だから我らも礼儀で返すが、この先で人間たちが殺されていた。この道を進むのは間違いだ、引き返せ」


 ミノタウロスの戦士の話を聞いたハルベリチェグは、一瞬だけボロンに振り返って、すぐにミノタウロスの戦士たちの方を向いた。


 ボロンには、ハルベリチェグの瞳が喜びで輝いていたように見えた。


 ハルベリチェグはミノタウロスの戦士たちに感謝しつつも、進む意志を伝えて先に待つであろう危険の正体を探った。


「ミノタウロスの戦士よ、助言に感謝する。しかし、わけあって危険を承知で先を急ぎたい。そこで、もう一つだけ教えて欲しい。死体の傷は刺し傷であったか?」


 ミノタウロスの戦士たちは互いに顔を見合ってから、その内の一人が少し言いづらそうに答えた。


「わからんのだ……傷など見えんほどに潰れていたからな。服を着ていたようだから、辛うじて人間だと判断できたまで。あのような死は、我らも初めて見たのだ」


 一行の背筋が凍った。


 恐れを知らないような巨体を持つ、ミノタウロスの戦士ですら言い淀む惨状とは、話を聞くだけでもよほど凄惨なものに違いなかった。


 歩き去っていくミノタウロスの戦士たちを見送って、一行は先へ進むかどうか判断するために、まずは死をもたらした者について相談する事にした。


「矢傷や槍によるものであればケンタウロス……草人であればからからに干からびるはず。ミノタウロスを怒らせれば拳が飛んできますが、あのような言葉で表される程とは思えない……」


 ハルベリチェグには犯人の目星がつかなかった。


 他の者が自分の記憶を顧みても、先ほどのミノタウロスの戦士の話で言い表されるような事柄は思いつかなかった。


 誰も何も言わないならと、ノックマンがハルベリチェグに意見を求めた。


「よほど頭に来たケンタウロスたちが、獲物を力いっぱい踏みつぶす……というような事はございませんか?」


 ハルベリチェグは顎に手を当てたものの、すぐに首を振って返した。


「ミノタウロスの戦士が見た事の無い死と言ったからには、草原の民ステップラントの仕業ではないはず」


「だとすればよそ者にござるか。夜に襲撃があるやもしれぬという事」


 ハルベリチェグの返答を聞いた猫メイド侍が、すぐにその危険性を伝えた。


 ハルベリチェグは首を縦に振って猫メイド侍を肯定すると、ボロンの方に顔を向けて、先へと進むか尋ねた。


「未知の脅威が待ち受けているでしょう。戻って町で時期を待つ事も出来るはずですが、それでも先へと向かいますか?」


 この旅の発起人であるボロンは、決断しなくてはならなかったが、それほど悩んではおらず、先へと進もうと考えていた。


 元より危険は覚悟の上だし、脅威から逃げかえってしまっては、自分の心の弱さに拍車がかかるように思えていたからだった。


「進みましょう。こういう時のために護衛を雇いました」


 ボロンの決定を聞いたハルベリチェグは、少しだけ微笑んだ。


「では、急ぎましょうか。少し出発が遅れてしまいましたから」


 一行は道具をしまって馬に跨ると、ミノタウロスの戦士の忠告を無視して、急いで先へと向かったのだった。


 夕暮れ時、遅れを多少取り戻した一行は、明日に備えて休息をとった。


 この晩、寝ぼけ眼のベカンコの耳に、かすかな声が届いた。


「……襲撃者の存在に乗じて、あの疑わしい者を始末する」


「よせ。やめろ。見られていたぞ……」


 草を踏む音が聞こえて完全に覚醒したベカンコは、身の危険を感じてボロンを起こそうとした。


 何者かがボロンの胸元に手を当てた時、ボロンはようやく目を覚ました。


「おや、私の胸が気になるのですか?」


 怪しく輝くボロンの瞳に射貫かれて、ハルベリチェグはたじろぎ、慌てて手を引っ込めようとした。


 ボロンはその手を掴んで、自分の胸の上に置かせた。


 懐から移動していたベカンコは、ボロンの礼服の裾から這い出ると、音を立てないように逃げ出した。


「見張りの交代というわけではないのですよね? 別にいいのですよ……あなたでしたら」


 ボロンは今の自分の心持ちを不思議に感じていた。


 自分に足りない何かを、誰かに埋めてもらいたい、そういった思いが胸にあって、ボロンは誰かを受け入れたくて仕方がなかった。


 いや違う、それは言い訳だった。


 ボロンは今の自分の苦しみを忘れたくて、何かにつけて言い訳を考えながら、ただただ快楽を享受したいだけだった。


 ボロンが馬を駆るハルベリチェグの横顔を思い出した時、自分のこの気持ちがどうやって湧き出てきたのかに気づいて、一過性の気の迷いである事を理解した。


 封じ込めた男性としての欲ではなく、女性としての欲が表われていたのだった。


 いずれにせよボロンは、心の弱さから欲に負けていた。


 抑えの効かないボロンが強く腕を引っ張ると、ハルベリチェグはボロンに覆いかぶさるようにして倒れた。


 圧迫された胸のかすかな痛みによって正気となり、ボロンはようやく自分が男だった事を思い出し、自らの行いを恥じながらも湧き出る愛情を押しとどめようとした。


 ボロンとハルベリチェグが互いに困惑しているのを眺めながら、ベカンコは自分の愛が偽りであった事を悟り、静かに涙を涙していた。

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一度死んだ中年聖職者が狂信メスガキ二重人格の巨根ふたなりメスケモに生まれ変わって異端審問官になるやつ まだ温かい @StillHotBodies

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