第11話 草原への旅立ち

 砦を守る兵士たちの威勢の良い掛け声と共に、サムニの防壁の大門が開かれると、穏やかに流れるエーリース河に架かった、ヤロサグ石橋が迎えてくれた。


 ボロンたちはハルベリチェグに先導され、石橋を通って魔族領ワリスステップへと渡ると、壁に遮られる前の心地の良い風を全身に浴びながら、北東に向けて馬を走らせた。


 サムニ辺境領と比べれば都会で過ごしていたボロンは、はるか向こうまでもが見渡せる広大な草原に感動していた。


「方角を示せるものが、おぼろげな空か遠景か……草の背の高さくらいしか無いですね!」


 ボロンは興奮して尻尾を激しく震わせていた。


 馬の駆ける音にかき消されぬように上げられたボロンの声は、ハルベリチェグの耳に届いて歓声を上げさせた。


「そうでしょう! どこまでも自由な大地と風が美しいでしょう!」


 そう言って笑い声を上げたハルベリチェグの表情は、実際の年よりもずっと若く見え、子供のように無邪気なものだった。


 ハルベリチェグが全身で余すことなく草原の風を堪能する姿を、ボロンはとてもうらやましく感じて、その遠くを見据えた瞳に強く惹かれたのだった。


 地平線の彼方が夕焼けに染まる頃、ハルベリチェグが休憩の合図を出した。


「これより先の背が高い草の領域は、渡り鳥の分かつ種人ハンシュマールヴァとミノタウロス族の縄張りです。その手前で一度休みましょう」


 慣れない乗馬に疲れ切っていたボロンは、何も言えずとも心の中でハルベリチェグに賛成していたが、まだ先に進めると考えていた猫メイド侍は、日が落ちる前に休憩する事に疑問を持っていた。


 猫メイド侍は休憩に反対する事はしなかったが、先へ進む事を提案する形で、気になっている事をハルベリチェグに聞いた。


「拙者の雇用主は先を急いでいたはず。この先に居する種族は大人しい者たち故、先の見える間に歩を進めるのはどうか?」


 馬から降りたハルベリチェグは、猫メイド侍の提言は最もだと頷きつつも、それを断るように返事した。


「彼らが何に怒るのか、私には分かりません。風詠みや星詠みによって吉凶を占える草原の民ステップラントと違って、我らは避ける事でしか備えられず──」


 水筒の水を飲んで口の渇きを癒したハルベリチェグは、荷物の中からランタンを取り出して地面の上に置くと、それから話の続きを口にした。


「──風の止む夜は、あらゆる草原に住まう者達の停滞の時間ですが、代わりに日の出間際のが、旅人を襲う絶好の瞬間なのです。休むのは早い方が良いという事です」


 猫メイド侍はそれ以上何も言わず、首の代わりに尻尾で頷いたように見せて、ハルベリチェグに従った。


 これ以上先に進むなどという事にならず、内心ほっとしていたボロンであったが、馬を降りて水を飲んだら、少し元気を取り戻すことが出来た。


 ボロンの疲れ切って垂れた尻尾を後ろから見ていたノックマンは、こっそりとボロンに耳打ちをした。


「腰を完全に落としきることなく、鐙の上に立って屈むようにして、前に身体を傾けるのでございます」


「……わかった。ありがとう」


 ボロンは小声で感謝を伝えると、明日に活かすべき助言として胸に刻み、塩辛くて硬い干し肉をしゃぶりながら、ハルベリチェグのためにノックマンと猫メイド侍を紹介した。


「この者はノックマン。護衛と言うよりは従者となりました。元はドロリッチ司教区ハーフェンハイム男爵領にある関所で番兵をしていて、私がグアンナーム子爵領へと向かう最中に知り合ったのですよ」


 話を聞きながら干し肉を千切ろうとしていたハルベリチェグは、少しの間動きを止めて緊張した様子を見せたが、すぐに顔を上げてノックマンに微笑んだ。


 立ったままボロンの傍に控えていたノックマンは、ハルベリチェグに向けて軽く会釈をして、背負っていた武具を取り出すと、仮面を少し傾けて口から離した。


「宿に預けていた槍と盾を持ってきました。俺はボロン様を事に努めます」


 ハルベリチェグは座ったままの格好で口を開いたが、少しの間そのまま沈黙してノックマンの姿を眺めると、それから当然の疑問を投げかけた。


「よろしくノックマン。しかし、話を聞くに人間のようだが……その仮面は一体? それに、遠くからわざわざこの辺境に来るとは」


 ノックマンはボロンの方へと顔を向けてから、再びハルベリチェグのほうを向いた。


「この仮面は悪心おしんの仮面、人を寄せ付けなくする魔法の道具です。祖先が集めた骨董でございましたが、私の使を果たすのに都合が良いものでしたから、こうして身に付けて参りました」


 ハルベリチェグは使という言葉を聞いて、わずかばかり眉を動かしたが、話を聞き終えて頷いてみせると、ボロンに微笑んで口を開いた。


「そうでしたか……まさかお二人が、旧知の間柄だったとは……」


「それほど古い話でもないのですよ。それに、当時はこのような事になるとは思いませんでしたからね!」


 ボロンがそう言って笑ったので、ハルベリチェグも合わせて笑った。


 続いてボロンは、草の上で丸くなって目を瞑った猫メイド侍の方に腕を伸ばすと、冒険者ギルドで見た剣技の凄さを述べた。


「彼が護衛の剣士です。目にも留まらぬ速度で剣を抜き、音もなく真っ二つにする相当な使い手でしたから、思わず声をかけてしまいました」


 猫メイド侍が尻尾をゆらりと揺らして目を開くと、黄色の瞳が夕日に煌めいた。


「拙者は猫メイド侍。この仕事が暇を埋めるのに丁度良い期間でござった」


 ハルベリチェグは半信半疑といった風な表情で、ボロンと猫メイド侍を交互に見やったが、二人ともが動じずにいるのを見て、言っている事を信じざるを得なかった。


 どう見ても長さが身の丈にあっていないので、ハルベリチェグは猫メイド侍の腰の剣を訝し気に眺めていたが、その視線に気付いていた猫メイド侍は、ゆっくりと諭すように口髭を揺らした。


「じきに分かる。露払いは任せていただきたく」


 自信に溢れた声を聞いて、ハルベリチェグは黙って頷いた。


 ここで、ボロンが不思議に思って胸に手を当てると、ようやくベカンコが顔を出して、ボロンの肩に登って挨拶をした。


「あたしはベカンコ、よろしくお願いするよ……」


 先日にハルベリチェグへと放ったように、自分が一番の相棒だなどと言うかと思っていたのに、存外大人しく友好的な言葉だった。


 もっと大言でも放つものだと思っていたボロンは、しおらしくするベカンコに驚いたが、その視線の先を見て納得した。


 ベカンコは猫メイド侍をじっと見ていて、対する猫メイド侍もまた熱いまなざしを返していた。


 不意にマロビデルが口を動かした。


「いかに盲目な恋と言っても~、そこにある愛は、より強い愛によって上書きされちゃうんだ~♥」


 慌てて口を押えたボロンだったが、今の言葉に照れたベカンコは、耳を真っ赤にして懐に潜ってしまった。


「んんっ……! 麗しの姫と、素晴らしき言葉……!」


! ありがたきお言葉!」


 悦に浸る猫メイド侍と、触れぬ際まで身を寄せてくるノックマンに、ボロンは窮屈な思いをしつつも、ハルベリチェグに悪魔の話をした。


「先日から迷惑をかけてしまってますが、時々こうして悪魔の言葉が口をついてしまうのですよ。どうぞお気になさらず」


 後ろで草を食んでいたボロンの愛馬がいなないた。


 ハルベリチェグは驚いた様子を見せて、ボロンに悪魔の事を尋ねた。


「悪魔とは! ひょっとすると、その身体も悪魔によるものと? その身を操られてしまうのではないかと、心配してしまいますが……」


 ボロンは大きく頷いたものの、操られる事はないと自信を持って答えた。


「容姿についてはその通りです。しかし、お父様の加護を頂きましたから、我が身の全てを操られる事はありません。最近は特に、自分で自分を戒めておりますから、この悪魔の好む性欲には負けませんよ」


 ハルベリチェグはボロンの返答に頷きはしたものの、まだ不安があるといった風に遠く、ボロンの背の向こうを眺めていた。


 ボロンが振り返ってみると、丁度夕日が沈みきって、愛馬の毛の光沢が隠れる頃合いだった。


 ハルベリチェグはランタンに火を灯して顔を上げると、全員の視線が自分に向いている事を確認して、草原で絶対に守るべき事を語った。


「草地での焚火はご法度です。魔獣の誘引や延焼を防ぐ意味もありますが、一番は草原の民ステップラントたちの怒りを買わないためです」


 ボロンは干し肉の最後の一切れを口に入れて、寂しそうに呟いた。


「目的地に着くまでは、温かい食事とはお別れですね……」


 一行は夜の間の見張りの順番を決めると、順に草の葉の布団に横になって眠った。


 何度か見張りの交代があってから、夜に鳴く虫たちの時間、星が瞬くその下で、ハルベリチェグはノックマンの枕元に立っていた。


 月明りに照らされた鋭い刃先が、ハルベリチェグの手の中から覗いていた。


 ハルベリチェグが腕に力を込めた時、不意に感じた視線の主を探すと、ボロンの愛馬と目があった。


 僅かな光を集めて反射する草食獣の瞳は、闇に紛れた漆黒の身体から、解き放たれたかのように浮かんで見えていた。


 ハルベリチェグはばつが悪そうにすると、ゆっくりと音を立てないように刃先を鞘に収めた。


(いったいあれは何をしようとしていたのさ……)


 一部始終を見ていたベカンコは、ハルベリチェグの不気味な行動に不安を覚えたが、その真意を知りたいとは思わなかった。


 ベカンコはノックマンにもハルベリチェグにも興味はなく、ボロンの服の隙間から猫メイド侍を眺めていたかっただけだった。


 闇の帳に覆われた、ちっぽけなランタンの灯りに集う羽虫たちは、横たわった一行の寝姿に慌ただしい影を差していた。


 一行は何事もなく夜を過ごせたのだった。

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