第10話

 巨大な燃え盛る四つ足の魔獣ヴィシュバルゴの、牙が付いたままの上顎が入口に飾られた、毛羽立った赤土の建物があった。


 周囲にたむろするのは、およそごろつきといった輩ばかりで、ボロンはそこに尋ねるのを躊躇ためらっていた。


「ノックマン、あそこが冒険者ギルドで間違いないのですか?」


 ボロンが信じたくないと言った風に馬上から声をかけると、ノックマンは何度か首を縦に振って応えた。


「ええ、そうでございます。事前に何度も確認しておきましたので」


 ボロンの不安を払拭するために、懐の中からベカンコが声を上げた。


「あれは中でくつろぐ事も出来ないような木っ端も木っ端さ。中にはもっとちゃんとしたのがいるかも知れないよ!」


 まともな傭兵と会えるのか心配となっていたボロンだったが、ベカンコの助言のおかげで少しは安心出来た。


 ボロンが馬から降りると、ノックマンがすぐに手綱を持った。


「ノックマン、そのまま馬を見ていなさい」


 ノックマンが頭を下げるのを見届けてから、ボロンは冒険者ギルドへと歩き始めた。


 ボロンがギルドの中に入ると、その姿を見た者達が順番に静かになっていったが、そんな事には構わずボロンは声を上げた。


「ワリスステップへ一週間、一緒に来て下さる方はおりませんか?」


 誰もボロンには応えようとせず、ひそひそとした話し声と嘲笑するかのような鼻息だけが聞こえてきた。


 ボロンは周囲を見回して嫌悪にまみれた視線を確認すると、不快感に口元を歪めながらも、より具体的な報酬を提示するために口を開いた。


「行きと帰りで二週間、私が与えられるのは金貨一枚と食事です」


 破格の待遇であり、いくらかの人間の目の色が変わったが、それでも誰も手を挙げず、それどころか、奥の方の机から中身の入ったままのコップが投げられた。


 ボロンが腕を上げてコップの直撃を避けると、誰かがあり得ないと言った風に吐き捨てた。


「あの爪を見ろ! 魔族に付いて魔族領に行くだと!? 正気じゃない!」


 腕を下げたボロンの顔は、耳を絞って牙を剥く狂暴な犬そのもの、あるいはそれ以上に恐ろしい、怒りを露わにしたかのような形相に見えた。


 冒険者たちが感じたボロンの怒りは誤りで、正しくは溢れ出てくる腹立たしさから、乱暴な行動を起こさぬよう必死に耐えている姿なのであり、ボロンはなんとか我慢しきれそうだった。


 しかし、忍耐強いボロンとは違って、その仕打ちに耐えかねた者もいた。


「どいつもこいつも、タマの小さい奴等だよ!」


 ベカンコの大声が静寂を破ると、ボロンの周囲から机を叩く音が上がった。


「なんだとぉ……」


「馬鹿にしやがって!」


 誰かが怒声を上げると、それに続いて次々に声が上がったが、その全ての者がボロンから向けられた鋭い視線を前に、顔を逸らして勢いを失った。


 ボロンは思わずため息をつくと、失意に耳を伏せて首を振った。


「まさかこれだけの方が居て、一人として勇敢な者がいないとは……がっかりしてしまいました」


 ギルドの中は何とも言えない気まずい空気で満たされた。


 最早ギルドに用の無くなったボロンは、別の当てを探そうと入口へ振り返ったが、そこには変わった格好をした者が立っていた。


 変わった者はボロンを見上げながら、低く落ち着いた声で名乗りを上げた。


「拙者、猫メイド侍と申す者……剣に自信を持つ屋敷勤めの家猫にござる。少しの暇を出されたので、この腕を買ってもらいたく」


 ボロンの腰ほどの背丈しかない雄の三毛猫の獣人、白黒の女性使用人の服を着た魔族の剣士だった。


 猫メイド侍の腰には、自身の背丈の倍はある長い剣が携えられており、他にも見える限りで三本の短剣を持っているようだった。


 ボロンは猫メイド侍を見下ろしたまま、頭に浮かんだ疑問を投げかけた。


「その剣は……あなたの腕で抜けるのですか?」


 猫メイド侍は一瞬だけ鋭い視線を見せると、何も言わず尾を伸ばし、器用に長い剣の柄へと巻き付かせた。


 次の瞬間、近くで何かが崩れる音と、水が床にこぼれる音がした。


「ぐああっ、なんだ!?」


 ボロンが声のするほうへ顔を向けると、水平に真っ二つとなったコップと、それを手に持った男が見えた。


 慌てて猫メイド侍に顔を向けたボロンは、今度はしゃがんで目線を合わせると、失礼の無いようにお願いをした。


「疑ってすみませんでした。あなたは相当に腕が立つ剣士のようです。私を護衛してくださいませんか?」


 猫メイド侍は耳を一度だけぴくりとさせて頷いた。


「かたじけない」


 諦めかけていたボロンであったが、すんでのところで心強い味方と出会う事が出来たのだった。


 意気揚々と冒険者ギルドを後にしようとしたボロンであったが、その背中に待ったをかける声が届いた。


「おい! うちの商売道具だぞ、弁償していけ!」


 ギルドの酒保係の男が、猫メイド侍の斬ったコップを指差していた。


「あんたたちがやったんだろ? 俺は見たぞ!」


 折角の良い気分を台無しにされたボロンであったが、たかだかコップ一杯であるし、ひと悶着起こすよりも支払う方が楽で良いと考えた。


 金をとり出そうとしたボロンの手の中に、温かな毛の塊が潜り込んで来た。


 ボロンが懐から手を出すと、その手のひらの上に乗ったベカンコが、ギルドの酒保係を鋭く睨みつけて罵声を浴びせた。


「あんたみたいなのろまが、一体何を見たって言うのさ?」


 ギルドの酒保係は言い返されるとは思っていなかったのか、ベカンコの激しさに少しだけ怯んだが、すぐさま自分の目を指して言い返した。


「その小さい魔族が剣を振る所だよ!」


 ギルドの酒保係の言った事を鼻で笑うと、ベカンコは周囲に向けてぐるりと手をかざしながら、大声で無実を主張した。


「あいつは剣を抜いてない! 嘘だと言うのなら、他に誰が剣を振るところを見たって言うのさ! ええっ!?」


 ベカンコの言った事に異を唱える者は出なかった。


 確かにコップは斬られたし、それをやったのは猫メイド侍だと皆が確信していたのに、その誰もが剣が抜かれるところを見ていなかった。


 いつの間にかギルド中の不穏な視線を集めて、針のむしろとなったギルドの酒保係は、喉が震えて言葉を続けられなくなってしまった。


「そ、それは……」


 その様子を見ても怒りの収まらなかったベカンコは、更に大声でもってギルド中に檄を飛ばした。


「あんたたちは揃いも揃ってタマなしで、役立たずの癖にいっちょ前に文句だけは言ってくるのさ! ここで座ってるのが、あんたたちの冒険譚だって言うのかい!」


 鼻息を荒くしたベカンコは、しばらくボロンの手の上で息を整えていたが、その間にはついに誰も、文句を言うどころか悪態をつく事すら出来なかった。


 ベカンコが大きく鼻を鳴らしてボロンの懐へと潜り込んでいくと、ギルドの中の全ては活気を失って、涙を流す者すら出てきてしまった。


 もう、引き留める者はいなくなったので、ボロンはギルドを後にした。


「あっ……」


 ギルドから出てくるボロンの姿を見つけて、誰かがそう声を上げると、町民が一斉にギルドの入り口から目を逸らした。


 背を向けてもじもじとしているごろつきたちを尻目に、ボロンは馬に跨ると、ノックマンがその手綱を引いた。


 ハルベリチェグとの待ち合わせ場所となる厩舎へと向かっていると、不意にベカンコが顔を出して謝った。


「ボロン……ごめんなさい。あたし、ついカッとなっちゃって。あんたの期待を裏切ったあいつらが許せなかったの……」


 ボロンは下を向いて微笑むと、ベカンコの頭を撫でながら答えた。


「わかっています。あなたは優しい人ですから」


 ボロンの一言にベカンコが嬉しそうな顔をしていると、猫メイド侍がベカンコを褒めた。


「拙者の剣技よりも鋭い物を初めて目にしてござる……拙者の技を侮辱したあの男が、何も言えぬ様子のなんと無様な事か。久方ぶりに溜飲が下がる思いでござった」


 ベカンコはボロンの懐から這い出ると、その肩に登って猫メイド侍を見下ろした。


 ベカンコの姿を見上げた猫メイド侍は、小さく感嘆の言葉を発すると、髭を震わせて喜びの表情を浮かべた。


「なんと美しい……」


 ベカンコは満更でもなく頬を緩めたが、ボロンの居る手前で複雑な心持ちとなって、照れ隠しに辛辣な言葉を返した。


「あっ、あんたのために言ったんじゃないさ! 何を聞いてたんだよ、この全身シミ模様!」


「んんっ……!」


 ベカンコの鋭い言葉を浴びせかけられた猫メイド侍は、満面の笑みで喜んだ。


 小躍りしながらボロンに付いて来る猫メイド侍を眺めて、ベカンコは少し名残惜しそうに懐の中へと戻っていった。


 厩舎についたボロンは馬番に馬を返すと、ハルベリチェグが到着するのを待っている間、護衛に支払う金額の交渉を始めた。


「およそ二週間の護衛で金貨一枚のつもりですが、いかがでしょうか? ノックマンはどう思う?」


 話を振られたノックマンは、自分の知る限りの情報を伝えながら、金を受け取ることを拒否し始めた。


「相場で言えば銀貨三十枚程度でございますから、金貨一枚は高すぎます。それに、俺は食事と……たまに神父様の……体液を頂ければ、他は何もいりません」


 ノックマンの仮面の裏に隠れた熱い視線を感じたボロンは、少しぞっとしながらも頷いて、ノックマンの意志を尊重する事にした。


 続いてボロンに顔を向けられた猫メイド侍は、髭を弄りながら少し考えて、ボロンの提案を呑んだ。


「本来ならば金貨二枚と申し上げたい所、麗しの姫君のお傍にいられるのであれば、是非も無し」


 猫メイド侍が熱い想いを込めて胸元を見上げてくるので、ボロンは少し居心地が悪く感じたものの、納得してもらえた事に安堵した。


 ボロンと猫メイド侍が、細かい支払い方法や支払い時期などについて詰めていると、ようやくハルベリチェグが階段を昇って来た。


 ノックマンと猫メイド侍を見たハルベリチェグは、一瞬動きを止めて驚いたようだったが、すぐにボロンへと駈け寄ってきて、成果を報告した。


「お待たせしてしまいましたね。そちらは護衛が見つかったようで、なによりです。私の方も水と食料を確保できましたので、明日にでも出発できるでしょう」


 思惑通りに事が進んで一安心となったボロンは、ハルベリチェグと別れて酒場へと向かうと、仲間たちにご馳走を振舞って喜びをわかちあった。


 一方で、ボロン一行の事を辺境伯に報告し終えたハルベリチェグは、辺境伯から些細な頼み事をされていた。


「その文を伝令に渡し、早馬でドロリッチ司教へと届けてほしいのだ」


 小さな布切れと一緒に巻かれた羊皮紙を受け取ったハルベリチェグは、サムニ式の敬礼をすると、好奇心からその内容を辺境伯に尋ねた。


「ドロリッチ司教に……一体どのような文なのでしょうか?」


 辺境伯はハルベリチェグに何の気もなしに視線を向けると、少しばかり愚痴というか独り言のように語り出した。


「手形は本物であって間違いなかった。礼服の刺繍にも見覚えがあったし、あのオーブだって……疑う余地などなかったはずだ。しかし、私にはどうにも……あの者が司教の命を帯びているとは──」


 辺境伯は葡萄酒の注がれたゴブレットを掴むと、それを一息にあおって話を続けた。


「──信徒として正しい事をしたと思っているが、それでも領主としては……念のためだ。あれが……あのボロンと名乗った者が真実を言っていたのか、あれが本当に帝国の者だったのか……司教に確認したいのだ」


 それっきり俯いた辺境伯に、ハルベリチェグは再度敬礼をして、静かに部屋を出た。


 ハルベリチェグは急いで厩舎に向かうと、その裏手に巻物を落とした。


「ハールハーラーン……」


 ハルベリチェグが呟いてからしばらく経って、巻物には円に囲われた炎の刻印が浮かび上がった。


 巻物を拾い上げたハルベリチェグは、急いで兵舎に向かい伝令兵を捕まえると、早馬を走らせるよう伝えた。


「グアンナーム子爵にこの文を送り届けろ!」


 草のしなだれるサムニの夕暮れ、多くの様々な者たちの運命を分かつ一頭の馬が駆けた。

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