第9話

 ハルベリチェグに連れられて、厩舎へとやって来たボロンは、借りる馬の品定めをしているところだった。


「ハルベリチェグさん、私は馬を扱ったことがありません。どれも良い馬に見えますが……カッコわる~♥」


 ボロンの言葉を聞いたハルベリチェグが大声で笑った。


「どいつも経験を積んだ軍馬ですからね。最高の誉め言葉ですよ。でも、きっとこの中にあなたにぴったりの馬がいるはず。それ以外は私の方で実力のある馬を見繕っておきましょう」


 ボロンは少し自信なさげに頷いて見せると、厩舎の中を一通り見て回ったのだが、数いる馬の内で一頭だけ、ボロンを注視する馬がいることに気が付いた。


 ボロンがその黒毛の馬に近づいて手をかざしてみると、その馬はボロンの手のひらに鼻っ面を押し付けてきた。


 嬉しく思って笑みをこぼしたボロンの後ろで、馬番の男が首を傾げた。


「あれっ、おかしいな……あのような馬は居なかったはずだが……」


 不思議な事が起こっているのだと察知したハルベリチェグは、念を押すかのように馬番へと尋ねた。


「記憶違いではないのか? あるいは、どなたか客人の馬を、誤ってここにつないでしまったという可能性は?」


 ハルベリチェグに疑われた馬番は、慌てて小屋の中へと駆け込むと、表紙にサムニの記章が描かれた記帳を持って出てきた。


 馬番は記帳を頭上に掲げながら、ハルベリチェグの下へと小走りで帰ってくると、すぐに開いて記録を確認し始めた。


 探していた何かを見つけた馬番は、顔を上げて頷いて見せると、記帳をハルベリチェグに向けて差し出した。


「この通り、あの馬は記録にありませんでした。お預かりした馬の中にもでございます……」


 ハルベリチェグは記帳を受け取って中身を確認したが、確かに馬番の言う通りであった。


 ハルベリチェグは眉をひそめて馬番の顔を見下ろすと、ボロンの方をちらりと確認してから、馬番に顔を近づけて小声で耳打ちをした。


「貴様が記録を忘れたのだろう。今からでも記録してはどうか?」


 馬番は目を見開いてハルベリチェグを凝視すると、何かを恐れて全身を震わせた。


「そっ、それは……確かにどの馬にも負けない立派な体つきをした馬でございます……しかし、もし何か間違いがありますれば──」


「すでにその間違いが起こっていると言っている」


 馬番はそれ以上何も言えず、ハルベリチェグに言われた通りに、新しく馬を記録するしかなかった。


 記録するところを最後まで確認したハルベリチェグが、顔を上げてボロンの方を向くと、嬉しそうに笑うボロンと、その胸に頭のてっぺんを押し付ける馬が見えた。


「ボロン殿、気に入って頂けたようですね」


「ええ、どうやらこの馬も私を好いてくれているようです。裏筋にあたるぅ~♥」


 ハルベリチェグの声掛けに上機嫌で答えたボロンは、馬の耳の裏を掻いてやりながら、恍惚とした表情を浮かべて、尻尾を振っていた。


 ボロンの高鳴る心音と心地良い熱気を身に浴びるベカンコもまた、ボロンの懐の中で至福の時を過ごしていた。


 厩舎での用を終えたボロンたちは、続いて町に戻って旅に必要な物を探す事に決めたのだが、乗馬を知らないボロンのために、ハルベリチェグが気を利かせてくれた。


「せっかく良い馬を見つけられたのですから、早速今から乗ってみませんか?」


 ボロンはその提案に賛成し、乗馬の練習がてら馬に跨った。


 ハルベリチェグの指導もあって、町に降るまでの間だけで、ボロンは一通り馬の扱い方を覚える事が出来た。


「本来であれば、後はどれだけ馬に認められるかと言う所ですが、ボロン殿の場合は問題ありませんね。そこまで素直で賢い馬は見た事がありませんでしたよ」


 ハルベリチェグの言葉を受けて、ボロンが馬の首筋を撫でてやると、馬は嬉しそうにいなないた。


 ハルベリチェグは掴んでいた手綱を頭絡とうらくから外すと、積荷の中へとしまいながら二手に分かれる事を提案した。


「私は必要な分の糧食を得られる店を知っていますから、そこへ向かう事にします。ボロン殿は冒険者ギルドへと向かうのがよろしいでしょう。傭兵を探すのであれば、町で一番ふさわしい施設です」


 ボロンはハルベリチェグから道を教えてもらい、冒険者ギルドへと向かおうとしたのだが、その途中で少し寄り道をすることを思いついて、人気のない路地へと入って行った。


 いい加減に溜まった物を吐き出したかったのだ。


 ボロンは馬の首を撫でて落ち着かせると、優しい声で囁いた。


「嫌なら嫌と言ってくださいね……言えないって分かってるけどね~♥」


 馬は一瞬だけ身構えるような素振りを見せて、不安そうに蹄を鳴らした。


 ベカンコはこれから何が起こるのかを察して、懐の中で息を殺して気配を断った。


 ボロンは馬の尻にのしかかって、しばらくそのままの格好でいると、やがて一面を白色に染め上げて、ようやく気分を晴らす事が出来た。


 身軽になって地面に降りたボロンは、馬の首に抱き着いて感謝を表現した。


「ありがとう。お前と出会えて本当によかった」


 馬は首を振りながら鼻を鳴らしており、心なしか尻尾がしおれて気落ちしているように見えた。


 馬を慰めているボロンの後ろで水音が鳴ったので、ボロンが慌てて振り返って誰が来たのか確認すると、宿で世話になった仮面の者がすぐそこに来ていた。


 ボロンには仮面の者の表情を読み取る事が出来なかったが、ひっきりなしに首を動かして辺りを確認しているように見えた。


 仮面の者から、大きく呼吸をするような音が聞こえてきた。


「スゥ…………ハァ~~~~ッ」


「こ、これは、その、なんと申し上げれば良いか……」


 ニ度もこの惨状を見られたどころか、きっと情けない姿も知られてしまったであろうし、ボロンは恥ずかしくて、しどろもどろとなってしまっていた。


 仮面の者は首を振ると、懐から小瓶を取り出して、その栓を抜いて臭いを嗅ぎ始めた。


「すんすん、はぁ~~~~くっさ……良い匂いグッドスメル!」


 仮面の者が突如上げた大声を至近距離で聞かされて、ボロンは思わず毛を逆立たせた。


 仮面の者からは敵意を感じる事はなかったが、それよりも不気味な何かが感じられた。


 ボロンは気色の悪い感覚を覚えたので、これ以上仮面の者の傍には居たくないと思い、自分でやった事の始末をつけてから、すぐにこの場を去ろうと考えた。


「先日はありがとうございました。今回のこれは、私が自分で綺麗にしますから──」


「とんでもない!」


 ボロンの言葉を遮って、仮面の者は籠った叫び声を上げると、慌ただしく四つん這いになった。


 仮面の者の首から提げられた小瓶が、地面に広がるボロンの体液の中に沈むと、それを一滴も残らずに吸い込んだ。


 目の前で起きた事にボロンが自分の目を疑っていると、仮面の者が小瓶の匂いを嗅いでから栓をして、くぐもった声でボロンに語り掛けた。


「はぁ~…………」


 ボロンの耳をもってしても、なんと言ったかいまいちわからなかったので、ボロンは一歩だけ近づいて、首を傾げて見せた。


 仮面の者はボロンのその様子を見て一瞬だけ俯いてから、右手で仮面の端を持って口から浮かせた。


「事情を知っています。護衛を探しているんでしょう? 俺なら力になれます」


 ボロンが改めて仮面の者の格好をよく見てみると、布鎧に籠手と脛当てを装備していて、しっかりとした剣を提げているし、いずれも新品というわけでは無かったので、戦いにはそれなりに明るそうだと思えた。


 それでもボロンは少し渋った。


 事情を知られていた事については、町でたまたま話を聞かれたのだと思えば合点がいったのだが、そういった向こうだけが自分の事を知っているという状況よりも、とにかくこの男の持つ不気味な雰囲気が、得体の知れなさが嫌で仕方なかった。


「あなたは……一体……」


 ボロンが不審そうにしているのを見た仮面の者は、少し慌てたような様子を見せてから、ゆっくりと仮面を下にずらした。


 底の深い木桶のような物が仮面の裏に隠れて頭に乗っていて、仮面の者はそれを持ち上げると、中に隠していた物をボロンに見せた。


「それはっ! オーブ!」


 人の頭ほどの大きさのオーブだった。


 突如として信仰心の篤いオーブ教徒を前にしたボロンは、両手を掲げて歓喜した。


 その様子をしばらく眺めていた仮面の者だったが、ボロンの答えを待ちきれないという風に口を開いた。


「そ、それで、──」


 仮面の者の言葉を遮って、ボロンが割り込んだ。


「なぜ私をと?」


 仮面の者は少し呻いたが、すぐに答えた。


「それは、服とオーブを見れば──」


「この魔族のような容姿でですか?」


 再びボロンに口を挟まれた仮面の者は、返答に困って言い淀んだ。


 確かにこの礼服を着るのは司祭だけだが、人魔大戦以後のオーブ教の勃興時から今日まで、魔族や女性の聖職者は認められていなかった。


 ボロンはオーブの意思を感じて、仮面の者を護衛に雇うのも良いかと考え始めていたのだが、ただ町で話を聞かれたというのでは説明がつかないほどに、自分の事を知られているのが気にかかった。


 仮面の者はボロンの事を良く知っているようなのに、ボロン自身は仮面の者の事を全く知らないという事が、仮面の者の不気味さに拍車をかけていた。


 仮面の者はしばらく考えるような素振りで俯いていたが、やがて顔を上げてゆっくりと喋り出した。


「例え……姿かたちが醜悪であったとしても、その立ち居振る舞いを見れば、どれほどの方なのかは分かります……」


 ボロンは頷きながら話を聞いていたが、その終わり際に小さく息を吸い込んで鋭く言い放った。


私の立ち居振る舞いででもですか」


 仮面の者は馬に抱き着くボロンの姿を脳裏に浮かべて、今度こそ何も言えなくなってしまい、呻き声を上げてよろめいた。


 ボロンは仮面の者の咄嗟の言い訳を見抜き、何かを隠して自分に近づこうとしているのだと疑わしく思って、これ以上の問答を止めて逃げる事にした。


 ボロンの背中を黙って見送る事しか出来ない仮面の者であったが、悲しみに顔を俯けようとした時、不意に待望の声が聞こえてきた。


「アハッ! おにーさん、あたしのコト追ってきたんだ~♥ どーしよーもない、ヘンタイさんなんだね~♥ はずかしくないのぉ♥」


 仮面の者はすぐさまボロンに駆け寄ると、息継ぎも忘れて言葉を並べた。


! 私です! ノックマンです! あなたのお役に立ちたくて、後を追って参りましたぁ! どうかっ、どうか私を連れて行って下さい!」


 ボロンはようやく、関所でマロビデルに操られていた時の事を思い出す事が出来、そして、この男がどうしてここまで自分を好いているのかも理解した。


 悪魔の力がここまで強大とは思っていなかったボロンは、目の前に現れたその真実に打ち震えた。


 ボロンは脚に縋りついたノックマンの頭を撫でると、悪魔の力と自らの性欲の関係を今一度良く考えて、これまでの行いを戒めるべく、連れて行く事を決意した。


「いいでしょう。ノックマンさん、付いて来て下さい」


 ボロンの言葉を聞いて喜びにむせぶノックマンであったが、少し落ち着いてから改めて自分の立場を表明した。


「敬称など勿体ございません! ノックマンとお呼びください!」


 ボロンは大きく頷きながら、ノックマンの希望を叶えた。


「わかりました。ノックマン、これから冒険者ギルドへと向かいます。あなたも付いてきなさい」


 ノックマンが快活になって返事したところで、成り行きを聞いていたベカンコがひょっこり顔を出して、ノックマンの立ち位置について釘を刺した。


「言っとくけど、あたしがボロンの一番の相棒だからねっ!」


 苦笑するボロンを見て、ノックマンは察した。


 ボロンがあぶみに足をかけて馬に跨る間、ノックマンは乱れた着衣を整えて、三人は他の護衛を探すべく、冒険者ギルドへと向かうのであった。

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