第8話

 意匠を凝らした真鍮の燭台と、その火を美しく反射する石の机が目に入り、金の刺繍が入れられた赤い絨毯には染み一つなかった。


 両脇の壁には巨大な絵画が飾られていて、それを囲うようにして背の高い植物の鉢植えが置いてあった。


 無骨な石壁の部屋とは思えぬほど、美しく飾り立てられた場所だった。


 石壁を小さく掘り抜いただけの窓から朝の陽が差し込んでいて、それを背にした辺境伯が立ち上がった。


「ようこそ。素敵な毛並みのお客様だ。良ければそちらに務めてくれないかな?」


 辺境伯の指差した方へ振り向いてみると、壁には魔獣の毛皮が飾られていた。


 強烈な侮辱を受けたボロンは絶句してしまったが、ベカンコは全身の毛を逆立たせて怒りをあらわにした。


「ヂヂッ!」


 ベカンコの鳴き声を聞いた辺境伯が、両手を挙げて驚いた振りをして見せると、その側に控えていた兵士が、槍の石突を床に打ち鳴らした。


 ボロンは我に返ってすぐにベカンコの頭を撫でると、小さな声でお願いをした。


「ベカンコさん、この先に何が起ころうと、決して怒らないでください」


 少し困ったような顔をしたベカンコであったが、小さく頷くと怒りを鎮めた。


 ボロンは自分の懐へとベカンコを優しくしまい込むと、辺境伯の方へと向き直って大きく会釈をした。


「素晴らしいご提案に、つい心を奪われてしまいましたが、どうやら私の毛皮を飾るにふさわしい場所は、他にあるようですね」


 そう言ってボロンが辺境伯のほうへと腕を伸ばした。


 その腕の先を見た兵士が鎧を小刻みに震わせ始めたが、すぐに耐えきれなくなって噴き出した。


 辺境伯は自分の頭を撫でると、ばつが悪そうな顔をして、どかりと椅子に腰を落とした。


「ハルベリチェグ! ニ度と私の頭を見て笑うんじゃないぞ!」


 辺境伯の一喝に身を引き締めた兵士は、背筋を伸ばしてきりりとしているように見えたが、視線だけは上を向いて辺境伯を見ないようにしているようだった。


 辺境伯は自分の口髭を一度撫でると、鼻から大きく息を吐いてから、身振りで席へと座るように合図した。


 ボロンはそれに従うようにして、辺境伯と向かい合って石の椅子に腰かけた。


「アドルサグ・サムニ辺境伯だ。古来よりこの地に住まうサムニ族の末裔である。さて、ドロリッチ司教区から来られたとか。遠い所から実にご苦労だった」


 辺境伯は恰幅が良くて背が低かったが、身綺麗にしていて威厳のある貴族然とした男だった。


 頭の毛こそ無いものの、立派な口髭が自慢のようだった。


「ドロリッチ司教の血の繋がらない息子、ボロンです」


 ボロンの挨拶を聞いた辺境伯は顔をしかめて、片方の眉をこれでもかと持ち上げたが、その威嚇には全く動じずに、ボロンが何食わぬ顔をしていたので、辺境伯は両手で机を叩いて立ち上がった。


「息子だと!? 私を馬鹿にしているのか! その胸についたものを見せてみろ!」


 地位の高い聖職者が子を成さない事は、辺境伯にも知れていた事だったが、それのみならず、性別を偽るような事を言ったボロンを、目の前の魔族らしき者を、辺境伯は糾弾したのだった。


 ボロンは言われるままに内に着たシャツを緩めると、礼服の前をめくって中にあるものを見せた。


 机の上に乗るボロンの胸を見て、辺境伯と兵士は感嘆した。


「むお、でかい……」


 一目見てそれと分かるくらいに体毛が薄くなっていて、辺境伯はその立派なものをまじまじと眺めていた。


 兵士が身じろぎして立てた金属の擦れる音を聞いて、ようやく我に返った辺境伯は、取り繕うようなこともせずに再び激昂した。


「いや、違う。どう見てもそれは女の持ち物であろうが!」


 辺境伯の言葉はそれはその通りだったが、ボロンは耳をピンと立てて不敵な笑みを浮かべたまま、否定も肯定もしなかった。


 ボロンの様子に言葉を詰まらせた辺境伯が、何も言えずに固唾を飲んでボロンの両目を見ていると、部屋の中に何かが這うような、湿り気を帯びた擦れる音が鳴り始めた。


「な、なんだというのだ!」


 辺境伯は床を見回して何もない事を確認すると、続いて机の下を覗き込んだ。


 そこにはボロンの股から伸びる巨大な竜がいた。


「むおっ、でかい!」


 赤黒く隆起して脈動するそれを見て、辺境伯は思わずごくりと唾を飲み込んだ。


 辺境伯に続いて興味本位で屈んだ兵士が、腰を抜かして尻もちをついた。


「いや、やはりそれは……男か……?」


 覗き込んでいた顔を上げた辺境伯が、困惑の表情を浮かべてボロンの顔を見た。


 その後すぐに顔を下に向けてから、再びボロンの顔を見た辺境伯は、何かを言おうとして口を開いたものの、何も言えずに顎髭を撫でるしか出来なかった。


 一連の様子を眺めていたボロンは、ゆっくりと口を開いた。


「元は人間でしたが、わけあってこのような姿となってしまいました。司教であるお父様は、こんな私を可哀そうに思って、馴染めるであろう魔族領に送ろうとしてくださっているのです。遠ざけようってだけなのにね~♥」


 辺境伯は、ころころと表情と声色を変えるボロンを見て、困った顔をして頷いてから、右手を挙げてボロンに言った。


「ううむ、理解は出来んが納得せざるを得ん物を見せられている……ところで、もうしまってくれて良い……目に毒だ」


 ボロンは右手で掴んでいた礼服の裾を机の下に戻した。


 辺境伯は落ち着きを取り戻して小さくため息をついたが、尻もちをついたままの兵士は、狂暴な竜に睨まれて身動きが取れなくなっていた。


 辺境伯はボロンがややこしい身の上なのだと無理やり納得して、目的を尋ねる事にした。


「して、魔族領に向かうのであれば、その手形を使って通れば良かろう。この私に何の用があると言うのだ?」


 ようやく本題に入れると安堵の表情を浮かべて、ボロンはお願いの言葉を伝える事にした。


「ケンタウロス族との仲介をして頂きたく。蛇の国へと向かうため、ワリスステップを超えなくてはなりません。広くて隠れる場所もないかの地では、徒歩で進むことなどできませんから。根性なし♥ 少しは自分で歩いてけ~♥」


 話を聞いた辺境伯は、何度も小さく頷きながら、ボロンから少し顔を逸らしたが、再びボロンの方へと顔を向けて、目を見ずに返事をした。


「理由は分かったが、約束は出来ん。時期が悪い。ケンタウロス族は一所ひとところに留まらないのでな、私の紹介できる氏族が近くにいないのだ」


「そうですか……。もう馬を走らせちゃえ♥」


 がっくりとうなだれるボロンに、辺境伯は更に付け加えて説明した。


「悪い事は言わんから、馬で奥まで進むのはやめておけ。中には攻撃的な氏族もいるのだから、弓の名手に死ぬまで追い立てられよう」


 マロビデルの無意味な一言であって、ボロンはそれくらい知っていたし、ケンタウロス族以外の脅威の事も理解していたが、黙って頷く事にした。


 良い時期が来るまで待つのも一つの手ではあるが、可能であれば急ぎたいと思ったボロンは、辺境伯に食い下がって話を聞くことにした。


「何か……別の方法はとれないでしょうか? むりむり♥ あるいは、ある程度遠くまで行けるのであれば、紹介して頂ける氏族はいるのでしょうか? あきらめきれずに、なっさけなぁ~い♥」


 辺境伯は顎に手を置いて少し考える素振りを見せてから、思いついたことを口に出した。


「各地の攻撃的な氏族と友好のある少数民族を案内に立てられれば、ある程度は安全に進められるかも知れないが……そんなことをして進むくらいなら、この町にケンタウロス族が近づくのを待ったほうが早いだろう」


 ボロンには一瞬だけ良い案のように聞こえていたのだが、辺境伯の言う通り、時間がかかってしまっては本末転倒だった。


 力なく頷くボロンを眺めながら、辺境伯は続けた。


「一週間程度も馬を走らせた所に、ラ=バダイ氏族がこの時期に住まう可能性のある場所があるのだが、そこであれば唯一この町からたどり着ける範囲だと思う。しかし、確実に出会える保証はしてやれぬし、道中に襲われる危険もあるのだ」


 ボロンが両耳を立てて嬉しそうな顔をしたので、辺境伯はボロンの表情がまたも変わった事を訝しんだが、どうしてボロンがそんなことをしているのか、理解は出来なかった。


 ボロンは辺境伯に自分の意志を伝える事にした。


「はなからここで待つよりは、行って確かめるほうが有意義に思います。誰もいないよ~♥ ラ=バダイ氏族の協力を得るためには、どうすれば良いでしょうか? おじさんってば、その程度の事も自分で考えられないなんて、かっこわる~い♥」


 辺境伯はボロンが教えを乞うているのか馬鹿にしているのか、その辻褄の合わない態度の繰り返しに困っていたが、そうなる前のボロンの態度を思い返せば、どちらがボロンの真意かを汲み取る事は出来た。


 理解できず釈然としない気持ちはあったが、ボロンがよりおかしくなる懸念もあり、辺境伯は敢えてボロンの奇妙な態度を無視していて、尻もちをついたままの兵士のほうを見た。


「そこの男がラ=バダイ氏族の血薄めの巫女ソドグルナーンの伴侶として選ばれていてな、有り体に言ってしまえば、友好関係を結ぶためにケンタウロスの婿となった者なのだ。胸にバダイの婚姻の印が彫られているから、他の氏族もそうそう手出しは出来ん──」


 辺境伯は喋りながら兵士に近づいて行くと、その肩を持って立たせた。


「──この男と馬を貸してやろう。護衛と糧食くらいは自分で用意してくれたまえ」


 ボロンは立ち上がって辺境伯に礼を言うと、二人に近づいてお辞儀をしようとしたが、全身を仰け反らせた辺境伯に両手で止められた。


 ボロンは辺境伯の行動を不審に思いながらも、今度は兵士の方に身体を向けて、握手をするために右手を差し出した。


 兵士は慌てて兜を脱いでからボロンの手を握り、肉球と毛の感触に驚きながらも、自己紹介を始めた。


「ハ、ハルベリチェグと言います。それなりに戦いもできますから、道案内は任せてください」


 ハルベリチェグは一般的な人間より背の高い、日に焼けた肌と赤褐色の髪を持った青年だった。


 ボロンが笑顔で頷いていると、その懐からベカンコが顔を出した。


「あたしはベカンコ、ボロンはあたしの相棒なのさ」


 ベカンコはそれだけ言って元の場所へと潜っていった。


 ボロンは苦笑いをして、自分も簡単な挨拶をした。


「ボロンです。もしもラ=バダイ氏族がいなければ、この町に戻って時期を待つ事にします。往復二週間ほどでしょうか、道案内をお願いしますね」


 ボロンが頼みごとをしながらお辞儀をしようとしたので、ハルベリチェグは全身を仰け反らせながら片手でそれを止めた。


「その、それを何とかしてもらわなくては、あなたが動くたびに凶器が踊るのですよ……」


 ハルベリチェグの苦言に状況を理解したボロンは、室内で勃起した時の危険性をようやく理解した。


「あ、ああ! これは失礼しました。しかし、ここで何とかするとなると汚してしまいますから……今は一旦押さえつけておくことにします」


 ボロンはそう言って、礼服の上から腰に括っていた縄を解くと、頭までめくり上げた礼服で竿を包んで、その上から再び縄を括った。


 丁度首元から先端が覗いていたが、先ほどまでのように暴れる事はなくなった。


 それを見た辺境伯は、胸をなでおろした。


「うむ、結構……ではハルベリチェグよ、まかせたぞ」


「はっ!」


 ハルベリチェグは帝国式とは違う、拳を頭の横にあげる敬礼をして、応接室から出て行った。


 ボロンは最後にまた礼を述べてから、ハルベリチェグの後をついて行った。


 残った辺境伯は、先ほどまで自分が座っていた椅子に腰を掛けると、懐から取り出した布の切れ端に、ボロンの様子をなるべく詳細に書き留めていた。


 その机の裏では、ボロンの出したものとは思えない、黒い液体が床に滴っており、床のわずかな隙間へとゆっくり流れて消えていった。

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