第7話
ボロンは頭の上にベカンコを乗せて、サムニ辺境伯の居城へと向かっていた。
道行く人々がボロンの姿を見て立ち止まったり、避けたりするのが嫌になってきて、なるべく道の端を歩いていたが、時々ベカンコを知る町人たちが挨拶をしてくれたので、落ち込んでいた気分もある程度は晴れていった。
ボロンとベカンコはすっかり馴染んでいた。
ボロンが階段を昇り始めると、ベカンコはボロンの頭の上で横になって、一言だけ喋った。
「この道を真っすぐ行けばお城さ」
ベカンコの道案内が終わり、ボロンが階段を昇りきる頃には防壁が見えてきた。
人間領と魔族領とを隔てるエーリース河に沿って、地平の彼方にまで続く長大なこの防壁は、当時の魔族の侵略の苛烈さを静かに物語っていた。
草を揺らす風を止める重厚な石の重なりには、百年前に付けられた傷が今も残っていて、どこまでも続くサムニの草原の終端、その盾であり続ける姿が見て取れた。
ボロンが足を止めて防壁の彼方を眺めていると、ベカンコが少しおどけた調子で話しかけた。
「この壁を建てたらさ、この辺りの石切り場が全部潰れっちまったんだってさ。爺さんの昔話で五、六回は聞いたよ」
その話には信憑性があるなとボロンは思ったが、むしろ良く足りたものだとも思った。
道の先へと視線を戻したボロンは、目的の城が防壁の手前にあるのを確認して、再び歩き出した。
二人が城門に近づくと、まだ距離があるところから門番が叫んだ。
「魔族など通すものか! 無駄だからさっさと帰れ!」
ベカンコがため息をつくと、愚痴を言ってボロンに助言した。
「やっぱりね。全く人間ってのはさ……ボロンってば、誰か人間の偉い人と一緒にこないと無理だと思うよ」
ボロンは門番の言う事もベカンコの言う事も聞かず、懐から取り出した手形を頭上に掲げて、城門の方へと歩き続けた。
ベカンコは初めて見た手形に興味津々で、両手をついてボロンの頭上から身を乗り出すと、そこに書かれた文字を読み上げた。
「えっと、この者の身元を保証する……うんたら、かんたら……ドロリッチ司教。ねえ、これってなんだい?」
ボロンはベカンコにもわかりやすいよう、かみ砕いて説明した。
「オーブ教の偉い人が、私がちゃんとした人物なのだと証明してくれているのですよ」
「ふうん……それで、オーブ教ってなんなのさ?」
ベカンコの返答を嘆かわしく思ったボロンであったが、オーブを持ち運ぶことが難しい種族であれば、それも仕方のない事かと自分一人で納得した。
「私がいつも大事に持っているこの……オーブを信じる教団です。あなたは自分のオーブを持てないでしょうが、私と一緒に居たいのであれば、このオーブを奉ってありがたく思う事です」
ベカンコはボロンの頭上からその肩に降りると、オーブを抱えている左の手元にまで下った。
「わかった。ボロンがそう言うなら、あたしもオーブを信じるよ」
ボロンとベカンコは互いに微笑んだ。
二人が城門の前に到着すると、門番は横柄な態度で二人を突っぱねた。
「小癪な魔族風情が、手形は関所を通る時に使うもんだ! とっとと立ち去れい!」
それにムッとしたベカンコが、ボロンの肩に上がって文句を言おうとしたが、それよりも先にボロンが返事をした。
「これは手形は手形でも司教の手形です。私はドロリッチ司教の命を受けてここに立っています。あなたにはオーブの導きを妨げる理由がありませんよね?」
門番は見るからに慌てふためくと、ボロンが掲げている手形の内容を良く確認してから、言い訳を並べて取り繕った。
「普段遠くを見ているもので、近くの文字が良く見えませんでしたな! いや、大変失礼を致しました……教会手形が一般と変わらない形をしているとは思わず──」
「言い訳なんていらないからさ、とっとと門を開けて通しなよ!」
ベカンコが鋭く割って入ると、門番は苦虫を嚙み潰したような顔をして、門を開いてからボロンに頭を下げた。
ボロンは城門をくぐる時に、門番に向かって優しく微笑んだ。
「あなたにもオーブの導きがありますように」
門の影に隠れたボロンの顔は真っ黒で、門番には怪しく浮かぶ二つの目しか見えなかった。
門番はその姿に恐怖し、叫びたい気持ちを抑えると、ぎゅっと目を瞑ってまた頭を下げたのだった。
その様子を眺めていたベカンコは、腕を組んで鼻を鳴らしていたが、それをボロンが優しくたしなめた。
「いいじゃないですか。ちゃんと通してくれたんですから」
ボロンは、でも、と言いかけたベカンコの頭を指で撫でた。
ベカンコは嬉しくなって、それっきり門番への文句を言わなくなった。
堀にかけられた橋を超えた二人の前には、古式ゆかしい帝国様式の城が待ち構えていて、壁面の黒ずんだ模様が、睨みつけてくる人の顔に見えてしまうほどの圧迫感を感じさせていた。
(これほどのいかめしい城砦があったにも関わらず、防壁が必要になってしまったという事ですか……)
話に聞くよりもぞっとする事だと、ボロンは実感していて、ただただ城の威容に気圧されていた。
城の入り口に控えていた衛兵が、腕を広げて向かうべき所を教えてくれたので、ボロンはその場から、やっと前に進む事ができたのだった。
二人が城の中に入ると、入り口近くに控えていた従僕がおそるおそる近寄って来た。
「ようこそおいでくださいました。お名前とご用件を伺ってもよろしいですか?」
ボロンは牙を見せないように気を付けつつ、笑顔を浮かべて答えた。
「私はドロリッチ司教の命で参りましたボロンです。ワリスステップを超えるために、ケンタウロス族の力を借りたく、辺境伯のお力添えをお願いに伺いました」
従僕は二人にお辞儀をすると、ついて来るように促した。
「領主様は今忙しくしておりまして、大変恐縮ではございますが、しばらくお待ちいただきたく思います。差し支えなければどうぞこちらへ」
従僕に踏み鳴らされて響く石の歌声が、二人を歓迎してくれていた。
二人は従僕の後について行き、待合室の椅子に座って辺境伯の到着を待つ事にした。
従僕が去ってからすぐに侍女がやってくると、てきぱきとした手並みでボロンにお茶を出そうとした。
目の前の石机に広がる茶器を見て、ボロンは断ろうと思ったが、止めた。
(司祭として清廉であろうと努力するために、自分で自分に課した決まりでしたから、今となってはそれも必要なくなってしまいましたね。茶や肉や高級酒といった贅沢品も、これからは頂くようにしていきましょう)
もはや断る理由もなくなっていたので、貴族の面子を潰さぬように、もてなしを受ける事にしたのだった。
侍女がボロンに茶を注ぐために腰を曲げると、丁度ボロンの肩に座って首に寄りそうベカンコと目線が合った。
侍女はベカンコを可愛らしい人形だと思い微笑んだのだが、ベカンコも侍女に笑みを返した所、ベカンコが動くとは思っていなかった侍女は驚いてしまい、短い悲鳴を上げて茶器を取り落としてしまった。
「きゃあ!」
「わああ!」
侍女の上げた悲鳴に驚いたベカンコも大声を上げてしまった。
異変に気付いた従僕と衛兵が部屋にやってくると、熱いお茶で礼服を濡らされたボロンの姿が飛び込んで来た。
侍女は真っ青な顔をして、ひたすらボロンに頭を下げていた。
「申し訳ございません! 申し訳ございません! お客様にこのような粗相をしてしまい……ああ、私は一体どうしたら……」
ボロンの光沢のある体毛には油があって、これくらいの水分は濡れたうちにも入らなかったから、どうという事も無かったが、あまりにも侍女が申し訳なさそうにしているので、そちらの方が心配となってしまい、従僕たちの方を見た。
侍女に近寄って行く従僕の顔が、見るからに険しいものだと気づいたボロンは、従僕が何かをする前に、侍女に向かって優しい言葉を投げかけた。
「これもオーブの意思です。あなたが気に病む必要はありません。ただ、私が風邪をひかぬように、水気を拭いて下されば結構です」
侍女が涙を溜めた顔を上げてボロンに祈りを捧げると、持ってきていた布巾で礼服の濡れた部分を拭き始めた。
ボロンが怒ってはいないと知った従僕と衛兵は、侍女にまかせて部屋の外へと出て行った。
叫び声での驚きを落ち着かせたベカンコが、ボロンの肩の上から侍女を見下ろして、尻尾をボロンの肩に打ち付けながら鼻を鳴らした。
「まったく、なんだっていうのさ!」
その声が聞こえた侍女が驚いて顔を上げると、再びベカンコと目が合った。
びくりと身体を震わせた侍女を見て、ボロンは優しく声をかけた。
「彼女はベカンコ、私の友人です。恐れる必要はありません」
その言葉を聞いた侍女は、ボロンの方を向いて緊張した笑みを浮かべた。
「そ、そうでしたか、私はてっきり、お人形かと思っておりまして……可愛らしいなと思って……ベカンコ様、すみませんでした」
ベカンコは可愛らしいと言われた事で機嫌が良くなり、手を打って笑顔で侍女を許すと、鼻歌を口ずさみながらボロンの肩に座った。
ボロンは二人の様子を見て安堵すると、侍女に優しく伝えた。
「もう大丈夫です。さあ、お茶を淹れてください」
ボロンに促された侍女は、深くお辞儀をしてから茶を淹れ直した。
ボロンがしばらくお茶を飲んでくつろいでいると、従僕がやってきて移動を促した。
「お待たせいたしました。準備が整いましたので、応接室までご案内致します。どうぞ、こちらへお越しください」
事前に約束を取り付けてはいなかったが、辺境伯はあってくれるようだった。
二人は従僕の後について行き、辺境伯の待つ応接室の中へと入って行ったのだった。
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