おやすみなさい、明日は晴れ

秋犬

おやすみなさい、明日は晴れ

 枕に顔を埋める時間が大好きだった。「おやすみなさい」と出ていくママの少し遠い声と足音がなくなると廊下から漏れる細い灯りがぱっと消えて、私の部屋には星のシールの緑がかった淡い光だけが残される。


「ブロたん。今夜のお話はね、遠いところに行くお話だよ」


 窓の外はざあざあ雨が降っている。私の友達のブロたんはくたっと私にくっついてくる。私が小さいときからずっと一緒にいるブローハイのブロたんは少しだけ新品っぽくなくて、私だけのブロたんになっている。


「賢い賢いサメのブロたんは、海に帰りたくなりました」


 ブロたんはふにふに私の話を聞いてくれる。


「そこで、神様にお祈りしていっぱい雨を降らせてもらうことにしました」


 すると、雨の勢いが強くなった。ざあざあという音は次第に滝のようにどおおっという音に変わって、街が水の底に沈んでいく。人々は海藻に、鳥は魚に、ネオンはクラゲに変わっても雨は止まない。水は海を運んできて、ブロたんのところに海がやってくる。


「やあ、ここが賢いサメのおうちかな」


 窓を開けると、白いカモメが羽ばたいていた。ブロたんを迎えにきたのかな。


「今からサメの国に行こう、しっかり掴まって」


 窓から流れ出した私のベッドが、ごおんごおんと夜の街に流されていく。ブロたんはベッドの船にしがみついたままだ。


「あれ、ブロたんはサメなのに泳がないの?」

「ぼくはブローハイだから海は苦手なんだ」

「じゃあ、海の底にはいかないの?」

「海の底にはソフトクリームがないだろう?」


 そうだった、ブロたんの大好物はソフトクリームだった。


「大丈夫、サメの国には塩ソフトクリームがあるよ」

「塩ソフト」

「甘しょっぱいよ」

「それなら行こうかな」


 ブロたんはふにふに喜んで、海にざぶんと飛び込んだ。


「あ、濡れたら一緒に寝てあげないよ」

「またママに洗濯してもらうからいいよ」


 ブロたんはくるくる泳ぎまわって、ベッドの後ろに回った。


「それじゃあ飛ばすよ」


 ブロたんはベッドをものすごい勢いで押し始めた。その勢いで水がざぶんと私にかかり、そのままベッドは水中へ沈んでいく。


「水に入ったら死んじゃうよ」

「大丈夫だよ、サメの国ではみんなサメになるんだから」


 気が付けば私もブローハイになっていた。ブロたんが私の手をふにふに握って、一緒に泳ごうと誘ってくる。


「夜の海って気持ちいいね」


 カラスの大群が横切る脇を、ネオンのクラゲが漂ってくる。思い切り伸びをするとブロたんと一緒にどこまでもどこまでも泳いで行ける。ああ、泳ぐって気持ちがいい。ブロたんはサメだからたくさん泳ぎたいよね。


「もうすぐ着くよ」


 ブロたんとやってきたのはサメの国。たくさんのブローハイが泳いでいる。ブローハイたちはパパのように大きかったり、ママのように柔らかかったり、お日様のようにいい匂いがした。


「さあ、塩ソフトを召し上がれ」

「わあ、ありがとう」


 私とブロたんは塩ソフトをお腹いっぱい食べた。しょっぱいのに甘くて、おいしかった。ソフトクリームでお腹いっぱいになるなんて、なんて幸せなんだろう。


「ねえブロたん、ブロたんはどうして私のところに来たの?」

「ぼくはね、サメの国の王子様だったんだ。でも悪い魔法使いにブローハイにさせられて君に買われることになったんだ。だから、サメの国に戻れて本当の姿に戻れるんだ」


 すると、ブロたんは少しきれいな大人のブローハイになった。


「いいブローハイだったんだね」

「本当の姿のぼくは嫌いかな?」

「ううん、大好きだよ、ブロたん」


 私はブロたんの身体に体を預ける。ブロたんの柔らかさと手触り、少しだけするママの匂い、私が私でいていい絶対安心の味方。ああ、ブロたんは私なのだ。私も将来は大人のブローハイになるのだ。ブローハイになって、誰かのブロたんになるのかもしれない。


 海の底のサメの国で、雨はしとしと降り続いた。降りやまない雨は世界中を飲み込んで、地球全部がサメの国になった。私とブロたんの世界がどんどん増えていく。大人になった私とブロたんはいろんなところに行く。エジプトのピラミッド、南極のペンギン、オーストラリアのコアラ。全部全部が私とブロたんのもの。


「ねえブロたん、お月様をとって」

「お月様をどうするの?」

「うちの家のランプにするの」


 ブロたんはお月様に手を伸ばす。世界からお月様が消えて、夜は闇に覆われた。サメの国も世界も消えて、私とブロたんだけが残された。ああ、私は取り返しのつかないことをしてしまったのだろうか。


「ブロたん、ずっと一緒だよ」


 ぎゅっとブロたんを握りしめる。柔らかいブロたんの手触りが頬に触って、世界が光に覆われる。


「……おはよう、ブロたん」


 私の腕の中でくたっとしているブロたんを私はきゅっと抱きしめる。カーテンの向こうは、きっといい天気だ。雨は夜のうちに上がったんだ。おやすみブロたん、また夜に遊ぼうね。


<了>

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