【短編】家出少女と拾わない男

夏目くちびる

第1話

「ねぇ、お兄さん。今晩、家に泊めてくれない?」

「あぁ? なに言ってんだ、クソガキ。脳みその代わりにスポンジが詰まってるワケじゃねぇなら、今の発言取り消してとっとと帰れ」



 とある日。



 絶望的な疲労の中、ボンヤリとした足取りで家まで帰ってきた彼の前に一人の女子高生が現れた。彼が彼女を女子高生だと思ったのは、少女が制服を着ているからだった。



「……えっ、ひどっ」

「お前の生き様の方がよっぽど爛れてて見るに堪えない酷さしてる。ほら、傷ついたろ。こういう大人が世の中にいるって知れてよかったな、帰れ」

「か、か……。か、帰れる場所があるんなら、こんなこと言わないと思わない?」

「思うね。ついでに、いい歳こいたクセに目付きが悪くて、おまけにきたねぇアパート住まいの見るからに社会不適合者な俺相手なら、常識外れな与太話に乗っかってホイホイ泊めさせてくれるんじゃねえかっていうお前の浅い考え方もよく分かる」

「そこまで分かってるなら、意地悪しないで泊めて欲しいんだけど」

「俺をお前のくだらねぇ人生の登場人物に仕立て上げるな、気持ち悪い」



 すると、少女は絶句したまま胸の前で自分の手を握り、まるで土砂崩れのように流れ込んできた罵詈雑言を少しずつ理解したのだろう。ポロリと一筋だけ涙を流すと、あとは止め処なく感情が溢れてしまった。



 しかし、男は木造アパートの一階の、一番奥の部屋へ入ってしまった。途方に暮れるとは、まさにこのことだ。過去の後悔や恐ろしさなどではなく、ただ純粋に傷付いて涙を流した自分が、少女はひたすらに不思議で仕方なかった。



 すぐに離れたかったが、それすらも忘れるくらいに悲しんだ彼女は道端にしゃがみ込んでメソメソと嘆く。そんな中、男の部屋からシャワーの湯気が立ち上り、キュッと蛇口を絞る音が聞こえた後、彼はキィと静かに扉が開いて湯上がりの頭にタオルを巻いた上裸の姿で少女の前に再び立つ。



「おい」

「……な、なに?」

「そこのコンビニでつまみ買ってこい。チキンとカニカマと、きゅうりでいいわ」

「なんで、そんなこと……っ」

「俺は死ぬほど疲れてる。そのせいで、うっかり買い忘れたからだよ」



 言って、男は彼女に一万円札を握らせた。どれだけ高く見積もったって、コンビニでの買い物にはいささか大き過ぎる金額は、明らかに泊まれる場所を探せという男の気遣いであった。



「……うん」



 しかし、少女にはそれが分からなかった。



 ただ、言われた通りに買い物をして、再び男の部屋の前に立つ。ガチャリと捻られたドアノブの音と、続いて入ってきた少女の姿を見て、男は箸からマカロニサラダをポトリと落とした。



「そんなバカだから、帰る場所も無くなるんだよ」

「なによ、それ。買ってこいって言ったのお兄さんじゃん」

「こんな非日常で聞いた言葉を、額面通りにしか受け取れねぇくらい浅薄な人間関係しか結んできてねぇお前だから今の状況に陥ってるって言ってんだ」

「……そんなこと、学校で教えてもらってない」

「教えてもらえねぇけど、大抵は学校で知ることになるんだろうが。ったく、昔の俺を見てるみてぇで腹が立つ」



 レモンサワーの缶を開け、ゴクリと喉を鳴らす男。そんな彼の様子を見てようやくお使いが偽りの注文であったことを知った彼女は、ペタンと尻を床につけてから、きっと彼は食べないであろうチキンを齧った。



「お兄さんも、私みたいだったの?」

「ただの失言だ、忘れねぇとマッポ連れてくぞ」

「マッポってなに?」

「……お前、別に不良少女ってワケでもねぇのな。本当に頭スッカラポンのバカガキだ」

「ねぇ、私の質問にも答えて欲しいんだけど」

「答えねぇよ。それより、クセェから風呂でも入ってこい。あと、俺がいねぇ間に盗み働いたら承知しねぇぞ」

「臭くない! ……というか、いない間ってどういうこと?」



 男は、マカロニサラダをかき込んでレモンサワーも飲み干し、よれたティーシャツを雑に着ると財布とスマホと電子タバコをポケットに突っ込んだ。



「いいか? 余計なことするなよ? お前くらいのバカでも、その辺のモン弄るなってことくらい分かるよな?」

「ねぇ、待ってよ。どこに行くの?」

「泊めてやるっつってんだよ」

「お兄さんが出ていく理由が分からないんだけど」

「……ふっ、ふふっ。ふははっ!! はっはっはっは!!」



 あまりにも未熟な少女の言葉に、男は思わず笑ってしまった。もう、返す言葉も見つからないと言った様子だ。しかし、それはきっと、彼女と同じようなドン底を経験した過去の自分が、傍から見ればこんなにも無防備で滑稽な存在だったのだと理解してしまったからだった。



「笑えるな、本当に」

「……ごめんなさい」

「なにが」

「私が、お兄さんのこと勘違いしたから」



 男は冷蔵庫からレモンサワーを取り出すと、サイドボードにポケットへ入れた物を置いて電子タバコを用意する。どうやら、出かける気分は失せてしまったようだった。



「何があった?」

「……分かんない。自分のこと、なんにも考えたことないから」

「無責任な奴だな。そんなふうに不貞腐れてても、誰も救っちゃくれねぇぞ」

「でも、エッチなことをすれば泊めてくれる人はたくさんいたよ」

「そいつらはお前以下のバカだ。よかったな、自分よりも下の人間をたくさん見られて」



 少女がシャワーを浴びている間、男は少女の荷物を盗み見た。財布、化粧品、未開封の下着、空のペットボトル。学生証には、隣県の住所が記されている。



 名前と年齢は、どうでもいいから読まなかった。



「家出か?」

「うん」

「家に帰ったら何が起きる?」

「……お母さんの再婚相手に、色々される」

「なるほど、そりゃ不憫だ。足りねぇ頭で考えたにしちゃ、よく出来たお涙頂戴話だと思うぜ」

「嘘なんてついてないよ」

「嘘じゃねぇなら、とっととマッポに通報しろ。そいつは立派な犯罪者だ」

「それだと、お母さんも不幸せになっちゃうから」



 男は、見下すような笑いと共にタバコの紫煙を吐いた。



「大切な母ちゃんを犯罪者から守れって言ってんだよ。再婚相手の娘に手ぇ出してくるようなカス男なんて、ヒャクパーロクな奴じゃねぇだろうが」

「そんなに単純な話じゃないもん」

「難しくしてんのはお前だろ、クソガキ。大体、そのカスのせいで間接的に俺まで被害被ってんじゃねぇか。なんで俺がクソほど疲れた週末に、どこの誰とも知れねぇ変態のためにとっ捕まるリスク背負ってお前みたいなバカガキ匿ってやらなきゃならねぇんだよ。あぁ?」



 少女は、シングルベッドからタオルケットを手繰り寄せ抱き締める。



「……ったく、仕方ねぇな」

「へ?」

「明日、全部解決しに行くぞ。いずれ必ず決着つけなきゃならねぇ時が来るんだ。長引かせるだけ無意味だからな」

「そんな! 心の準備とかあるんだよ!?」

「きたねぇおっさんのチンポ咥える覚悟決まってんのに、今更何にビビってんだよ。全部ブッ壊してやっから、黙って俺について来い」



 もう、彼女は何も考えられなかった。今までに出会ってきたどんな人間とも違う彼の言葉へ、明確に心を奪われてしまったからに他ならなかった。



「……お兄さんの昔には、何があったの?」

「他愛もねぇイザコザだよ」

「そんな経験だけでお兄さんみたいになれるなら、女子高生を犯して楽しむ大人なんていないと思う」

「被害者ヅラすんなよ、お前はお前のバカのツケを払っただけだ」

「バカなのって、そんなに悪いことなのかな」

「一人で勝手に生きて野垂れ死ぬんなら別にいいんじゃねぇの? だが、お前はバカな上にテメーで責任も取れないガキだ。周りの性欲猿を巻き込んで、可哀想な自分の舞台装置に利用してるだけだ」

「……うん」

「年齢を鑑みりゃまだ一考の余地があると、まともな大人は言うかもしれねぇ。けど、俺ぁそんなに甘くねぇぞ。本質的に、お前はお前を買ったカス共と何も変わらないってことを覚えておきやがれ」



 叱られた経験の無かった彼女は、脳天からつま先まで真っ二つに自分の人格を両断する彼の言葉が嬉しかった。



 もちろん、それは暴力的で、とても大人の男が使うような言葉ではないことは理解している。しかし、彼女は無知なりに自分が間違っていることを分かっていた。周りの女子と自分を比べて、周りの大人と自分の両親を見比べて、心の中に足りていないモノがあることは分かっていた。



 そんな何かを、男は現れてからたったの二時間程度で満たしてくれた。嫌いな自分を全て否定され、現実を突きつける力に優しさを感じた。見てきたかのように語る彼の裏側には、きっと自分と同じような悩みがあって、だから自分を分かってくれていたのだと思った。



 誰よりも、真剣に心配してくれたのだと信じてしまった。もう、とっくに荒み切ってしまった自分が、まだ誰かに期待してもいいのかもしれないと思うだけで温かかった。



 タオルケットの匂いが、鼻腔をくすぐり抜けていく。少女は、なんの前触れもなく現れて絶望から救ってくれた彼を見て、ただ「ありがとう」を思うことしか出来なかった。



「そんなに私のことを嫌うのに、どうして泊めてくれたの?」

「まだ戻れるからだ」



 ……少女の息が止まる。



「俺の話を聞いて、泣いたり傷付いたり出来るなら可能性はある。そう思ったから、力になってやろうと思った」

「ふふっ。なのに、いっぱい酷いこと言うなんてどうかしてるよ」

「まともな教育を受けてねぇ奴が、まともに何かを教えられるワケねぇだろ」

「でも、本当のことはたくさん知ってると思う」

「俺やお前みたいな、クソ底辺を這いずるバカの人生の真実だ。ちゃんと真面目に生きて立派やってる連中には、ちっとも響かねぇ戯言でしかない」

「だったら、昔からそんなふうに考えられたらなって思ったことはある?」

「……ねぇよ」



 明らかな嘘に、少女は思わず俯いた。見ず知らずの自分へこんなにも尽くしてくれた彼に対して、体以外にどうやって恩を返せばいいのかが分からず、初めて自分の無知を心から恥じたからだった。



「疲れた、寝るわ」

「うん」

「お前はベッドを使え、俺は廊下で寝る。押し入れに客人用の布団があるんだ。一度も使ったことはねぇけどな」

「私は一緒でもいいよ」

「これ以上、俺を呆れさせるな。クソガキ」



 ちゃぶ台の上を片付けて、狭い廊下に布団を敷くと男は電気を消して横になった。少女は、扉のない廊下の彼を暗闇の中でジッと見つめている。本当に疲れている。その姿から、過去の自分を清算しようとして、今を必死に生きているのが痛いくらい伝わった。



「私、普通になれるかな」

「なれるから安心して寝ろ」

「じゃあ、もう一つだけ。それだけ頑張ってるお兄さんがさ、自分を諦めちゃうような悪いことってなに?」



 男は、一瞥もくれずに寝返りをうった。きっと、教えてなどもらえない。諦めかけたその時。



「10年前の7月16日、その日の新聞を読め」



 翌日。



 男は少女を連れて住所の場所へ行き、出てきた男の姿を見るなり何度も顔面をぶん殴って地面にひれ伏させると、土下座を強要した上で少女に目の前の光景から目を逸らさぬよう指示した。



 泣き叫びながら「傷つけないで欲しい」と懇願する母親に対しては目もくれず、何一つとして言葉をかけなかった。やったことは、ただ父親の情けない姿を晒し少女との間に起きたことを暴露しただけであり、その騒ぎを大きくしたのは集まってきた近隣住民たち。警察も現れて男は逮捕されたが、程なくして釈放されたようだ。



 少女は、とある施設へ入った。再び学校へ通うため、真っ当なアルバイトを始めて、過去の自分を清算する努力を続けた。続けて、続けて、必死に生きて。心の中に達成感が現れ、感慨にふと上を向き、空が青いことを初めて知ったある日。



「あ、新聞」



 事後処理と新たな生活に追われ忘却していたことを思い出した少女は、図書館へ行き新聞のバックナンバーを調べた。過去の自分であれば、過去の出来事を知る術など絶対に思いつかなかっただろう。そんなことを考えながら辿り着いた記事には、とある少年が起こした事件について記されていた。



「殺人……っ」



 それは、母を守ろうとして父親を刺し殺したという殺人事件の記録であった。更に、この事件について調べてみると、どうやら少年の服役中に残された母親が自殺してしまっていたという、まるで少年の悲劇を煽るような文章がゴシップ雑誌の一面を飾っているのを見つけたのだ。



 相手を殺した男と、自分を殺した少女。少女は、自分が思っていたよりもずっと似ていた彼の声を思い出す。



 ――まだ戻れるからだ。



 あの言葉が、少女の脳裏に思い浮かぶ。戻れないということは、つまり、既に「この世に存在しない」ということなのだと少女は思い知った。どうしてか、涙が出てきてしまう。必死に生き始めてから一度も流さなかったハズの涙が、絶え間なく溢れてしまう。



「お兄さん……っ!!」



 叫ぶと同時に一目散に駆け出して、あれ以来一度も近づかなかった男のアパートへ向かった。警察の忠告など知ったことではない。最後に男から貰った拒絶の言葉も関係はない。ようやくここまでこれた。重要なのはここだ。自分を成長させてくれた男に、少女は今の自分を見てもらいたかった。



 何より、救いたいと強く思った。



 少女は、それだけを心に近づいていく。一歩一歩、地面を踏みしめて自分の力で歩いていく。きっと、誰も許してくれることなどない。彼自身ですら許せない過去の出来事を、それでも許して、慰めてあげられる存在は、同じようにバカだった過去を嫌う今の自分しかいないと信じたからだ。



 ……静かに、扉の前に立つ。



 そこは、空き部屋になっていた。

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